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第4回日本史講座のまとめ③(朝鮮半島の変動とヤマト王権)

第3章 古代国家の確立
 Ⅰ 推古朝の政治と飛鳥文化
1 朝鮮半島の変動とヤマト王権
1) 5世紀末から6世紀初め
 朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、新羅や高句麗が領土拡大につとめ、百済や伽耶(かや)に進入しはじめた。伽耶(かや)というのは、朝鮮半島南部の地域で、加羅(から)とも呼ばれ、私たちの学生時代は任那とも呼ばれていた。「日本書紀」には、ここにヤマト王権が進出し「任那日本府」が設置されていたと書かれている。「任那日本府」は、戦前において日本の朝鮮侵略を合理化するのに利用されたこと、また、戦後は「日本書紀」を批判する研究が進んだこともあって「任那日本府」の存在を否定する意見が出された。確かにこの時代に倭国を日本とは呼んでいなかったので、「任那日本府」という呼び名は間違っている。しかし、最近の考古学研究の成果で、この地方に「前方後円墳」というヤマト王権特有の古墳が発見されているところから、何らかの形で伽耶(かや)地方にヤマト王権の勢力が進出していたのは間違いないと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 磐井(いわい)の反乱
 527年、ヤマト王権はつながりの深かった伽耶(かや)へ援軍を派遣しようとしたが、新羅とむすんだとされる筑紫(つくし)の国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)によってこれをはばまれたが、これを磐井の乱と呼ぶ。さらに、外交を担当していた大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が百済(くだら)に伽耶(かや)の領土への拡大を認めたこともあって、新羅と百済による伽耶への進入は強まり、562年、伽耶は新羅に滅ぼされた。「磐井の乱」は、磐井が新羅から賄賂(わいろ)を贈られていたので新羅征討(せいとう)軍に対して抵抗したとされている。現代の私たちの感覚からすると、磐井はヤマト王権を裏切ったなんと悪い豪族かと思われる。それは、国民国家という観念を持っているからであり、このような観念は近代において生まれてきたものである。この時代には磐井という豪族は、ヤマト王権とのあいだに同じ倭人であるという意識はなかったと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 政治機構の整備
 朝鮮半島への影響力が大きく後退したヤマト王権は、国内でも、磐井の乱や吉備(きび)・毛野(けの)の豪族による反乱などがあいついで起こったため、その弱体ぶりが国内外に示された。吉備(きび)地方は現在の岡山県全域と広島県東部、香川県の島嶼部(とうしょぶ)さらに兵庫県西部にまたがる地方を指す。毛野(けの)地方は現在の群馬県全域と栃木県南部を指している。この地方には昔から有力な豪族がいたのである。そこで、ヤマト王権は地方の反乱を鎮圧しながら、東国など各地に直轄地である屯倉(みやけ)を増やして地方支配の強化と財源の確保をはかった。さらに王権は、大陸の制度を理解する渡来人を積極的に登用して、財政や支配のしくみを整え、朝廷と呼ばれるような中央政治をつくりあげた。
by YAMATAKE1949 | 2014-09-16 10:36 | 日本史講座