第64回日本史講座まとめ③(満州事変)
1 満州事変
1)柳条湖事件
満州では張作霖の跡を継いだ息子の張学良が、日本の反対を押し切って国民政府に忠誠を誓った。国民政府は満州においても日本の利権を回収しようとしたため、軍部、なかでも満州に駐留する関東軍は危機感をつのらせた。そのため、満州は日本の生命線であると宣伝し、幣原外交を「軟弱外交」と非難し、危機を打開するために軍事力を発動して満州を中国の主権から切り離し、日本の支配下に置こうとする機運が高まった。
1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾(かんじ)らは奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破させたが、これを柳条湖事件と呼ぶ。関東軍はこれを中国軍が起こしたとして、いっせいに中国軍に攻撃をしかけ、満鉄沿線の主要都市を次々に占領していったが、これを満州事変と呼ぶ。
2)中国の対応
中国では日本への猛反発が起こったが、国民政府の蒋介石は徹底抗戦をせず、軍隊を温存して共産党攻撃つまり内戦を優先し、この問題を国際連盟に提訴した。その結果、国際連盟はリットン調査団を日本・中国へ派遣した。
3)日本の対応
若槻内閣は不拡大方針を声明したが、軍部を抑えることができず、また軍部右翼のクーデター計画におびやかされて1931年に若槻内閣は退陣した。かわって政友会総裁の犬養毅が内閣を組織したが、軍事行動は止まらなかった。
日本軍は1932年、国際社会の目を満州からそらすとともに、中国の抗日運動を弾圧する目的で、上海で海軍陸戦隊を中国軍と衝突させる第1次上海事変を起こした。この事変は、日本軍が中国人を雇って日本の僧侶などを死傷させるという事件を口実に、上海を占領するという計画であったが、中国軍や民衆の抵抗などにより失敗した。
4)満州国の独立
関東軍は1932年2月までに東3省(黒竜江・吉林・奉天)をほとんど占領し、3月には清朝最後の皇帝溥儀(溥)を執政とする「満州国」を建国し、長春を新京(しんきょう)と改めて首都とした。