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第66回日本史講座のまとめ③(日中全面戦争)

 Ⅱ 第二次世界大戦の勃発
1 日中全面戦争
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)中国の内戦停止
 中国では、国民政府の蒋介石は共産党との国共内戦を重視して日本軍への抵抗に消極的であった。1935年、中国共産党が抗日救国を呼びかけると、これに同調した東北軍の張学良らは翌年の12月に西安で蒋介石を捕らえ、内戦の停止と抗日を要求したため、共産党の周恩来の調停によって国共合作を蒋介石に約束させるという西安事件が起こった。この結果、1937年、国民政府と共産党は第2次国共合作を成立させて停戦し、抗日民族統一戦線が結成された。
2)盧溝橋事件
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)(注 この橋はマルコポーロの『東方見聞録』に出てくる有名な橋で、英語ではマルコポーロ橋と呼ばれている。)
 1937年7月7日夜、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突を起こした。この盧溝橋事件の報を受けた近衛内閣は、はじめ事件不拡大方針をとったが、軍部内や政府部内の強硬派の意見に押されてしだいに強硬方針を打ち出し、宣戦布告のないままに中国との戦争を開始したが、これが日中全面戦争のはじまりとなった。日本軍は北京と天津を、8月には上海を占領したが、中国国民の抵抗は激しく、国民政府の首都である南京占領にさいし多数の中国軍人や民衆を殺害したが、これを南京事件(南京大虐殺)と呼ぶ。その犠牲者の数については諸説あるが、日本の歴史学者の中には、4万人、あるいは20万人をくだらない数をあげているが、中国側は30万人としている。この事件は国際的な非難をあび、国民政府も首都を武漢、奥地の重慶へと移して抗戦しつづけた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)近衛内閣の対応
 近衛内閣は1938年、「国民政府を対手(あいて)とせず」という第1次声明を出して和平の道を閉ざした。さらに近衛内閣は、日本・満州・中国の3か国による「東亜新秩序」建設の声明を出すとともに、国民政府の幹部であった汪兆銘によるかいらい政権を南京につくって中国を支配しようとした。しかし、アメリカやイギリスなどの支援を受けた抗日民族統一戦線の抵抗は強く、1939年、近衛内閣は戦争終結の見通しがえられないまま総辞職した。

 次回の第67回日本史講座は、10月28日(土)午後2時より行う予定です。

by YAMATAKE1949 | 2017-10-18 10:26 | 日本史講座