2 戦争経済の崩壊
1)生活の窮乏化
 日本の戦時体制下の最大の特徴の一つは、戦時体制の強化と国民生活の窮乏化とが、同時に進んでいったことである。ドイツでは政府が生活必需物資の確保を重視し、時には軍需をある程度、犠牲にしても、国民の生活水準の維持に努めようとした。このため、個人消費支出は、1943年の時点でも、第二次世界大戦開戦時(1939年)の8割の水準を維持していたし、戦争末期の1944年の時点でも、世界恐慌によって個人消費支出が最も低下した1933、34年の水準を上回っていた。
 これに対して日本の国民生活水準は、日中戦争以降、一貫して低下し、個人消費支出は、早くも1942年の時点で日中戦争開始時(1937年)の8割を割ったし、アジア・太平洋戦争開戦前の1940年の時点で、昭和恐慌下の、1930年を下回っている。最近では、戦時経済の国際比較が進んでいるが、それらの研究ではドイツと比較した場合、日本の生活水準切り下げが激しく、植民地・占領地ではさらに厳しかったと結論付けられている。
 なお、アメリカの場合は、日本と好対照をなしている。戦時体制への移行と軍需生産の本格化のなかで、アメリカ経済は驚異的な成長を遂げ、1940年の国民総生産997億ドルは、1945年には2119億ドルに拡大した。アメリカは、戦時中に生活水準を向上させた唯一の国となった。
a0226578_11032848.jpg
(三省堂「日本史B」より)
2)配給制の拡大
 日本の戦時経済の進展が国民生活を直撃したのは、配給制度と労働力動員を通じてである。配給制度とは、日中戦争以降の戦時経済の下で、生活必需品などの分配を政府が統制するために導入された制度であり、政府の決めた分配量だけを各自が公定価格で購入することができた。国民は配給された食料や生活用品を配給所もしくは隣組を通じて、入手したのである。1940年6月からは6大都市で砂糖とマッチの配給制が始まっていたが、国民生活に決定的な影響を与えたのは、1941年4月から6大都市で実施された主食の米の割り当て配給制である。これによって、大人一人の一日当たりの配給量は、平均的な消費量よりかなり低い2合3勺(じゃく)に設定された。割当量は、形式的には1945年5月まで変わらなかったが、米に代わって麦・イモ類・雑穀などが混入されるようになり、1944年10月には、主食配給量のうちで米の占める割合は、66%まで低下している。
3)労働力の動員
 軽工業中心の日本の産業構造のもとで、急速に軍需産業を中心としたものに変えていくためには労働力の面でも、強力な国家統制が必要となった。そのために導入されたものが、1939年7月に公布された国民徴用令である。これは国民を政府の指定する業種に強制的に就業させる法令であり、16歳以上45歳未満の男子と16歳以上25歳未満の女子を徴用できると定めていた。しかし、1943年10月の改正では、徴用の対象は、12歳以上60歳未満の男子、12歳以上40歳未満の女子にまで拡大された。

a0226578_11045863.jpg
(三省堂「日本史B」より)
 次回の第69回日本史講座は、11月25日(土)午後2時より行う予定です。

[PR]