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第14回世界史講座のまとめ②(ビザンツ帝国と東ヨーロッパ)

「ビザンツ帝国と東ヨーロッパ世界」
 476年に西ローマ帝国がゲルマン民族により滅ぼされたが、バルカン半島、アナトリア、シリア、エジプトなどを支配するビザンツ帝国(東ローマ帝国)は存続した。ビザンツ帝国は、6世紀のユスティニアヌス帝の時代には、イタリア半島や北アフリカ西部を支配する大帝国を再建したが、7世紀には、ゲルマン民族に北アフリカをまた東方ではイスラーム諸王朝に領土を奪われ、帝国の領土はバルカン半島とアナトリアだけとなった。
 ビザンツ帝国は、専制君主制をつづけてきたが、教会も皇帝の支配下に置かれる皇帝教皇主義がおこなわれた。首都、コンスタンティノープルは東西貿易の中心であったが、11世紀以降、イタリアの都市が東西貿易に進出して、帝国の経済的地位は低下した。
 帝国の領土もヨーロッパ勢力やイスラーム諸王朝に奪われ、1453年に首都はオスマン帝国の手に落ち、ビザンツ帝国は消滅した。
 ビザンツ文化では、726年の聖像崇拝禁止令を契機とする西のローマカトリック教会と東のギリシア正教会という独自の組織が成立したこと。また、ビザンツ帝国はギリシア・ローマ文化を保存し、後に多くの作品が西ヨーロッパに伝えられてルネサンスを開花させる要因となったこと。またビザンツ文化はロシアなど東ヨーロッパにも影響を与えたことを押さえる。
 東ヨーロッパ世界の形成では、スラヴ民族の活動を中心に学習する。カルパティア山脈の北にいたスラヴ民族は、ヨーロッパ東部・中部さらにバルカン半島にもいくつもの国を建てた。バルカン半島に移ったスラヴ民族の一部は、アジア系ブルガール人が建てたブルガリア王国の支配下にはいり、しだいに混血がすすんだ。この王国は、ビザンツの聖職者によってキリスト教化され、ここからギリシア正教会がセルビア人など、スラヴ民族の間に広まった。布教のためにつくられたのが、ギリシア文字を応用したキリル文字で、現在ロシアなどで使われている。
 バルカン半島に定住した南スラヴ人のうち、クロアティア人などは西ヨーロッパの影響を受けてローマ教会を受け入れた。また、一部はオスマン帝国のもとでイスラーム教徒になった。
 このように、バルカン半島は、ギリシア正教会・ローマ教会・イスラーム教など宗教的・文化的な違いがあったが、この地域はイスラームのオスマン帝国の支配下に置かれていた。しかし、オスマン帝国が弱体化すると民族運動が起こり、この運動を利用してスラヴ系のロシアやゲルマン系のオーストリアがバルカンに進出し、これが導火線となって第一次世界大戦が勃発する。バルカンはヨーロッパの火薬庫と呼ばれるゆえんである。
 私は、30年前にユーゴスラヴィアに旅行に行ったが、その頃は、今と違って、セルビア・クロアティアなど六つの共和国がユーゴスラヴィアとしてまとまっていた。その背景には第二次世界大戦でナチスと戦ったチトーーをリーダーとする社会主義政権によって統一されていたからである。
 次に、ロシアの発展について学習した。この国は、9世紀末、ノルマン人のキエフ公国を起源とする。10世紀末、ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教会を国教にした。13世紀ロシアはモンゴルに支配されたが、15世紀末、モスクワ大公国のイヴァン3世はモンゴルから自立し、滅亡したビザンツ帝国の皇帝のあとつぎと自称し、皇帝(ツアーリ)と名乗った。
 (質疑・応答)
 なぜイスラームに征服された人々はイスラーム教を受け入れたのか、という質問が出された。その答えとしては、一つは、当時としてはイスラーム教の持つ文化の高さにあったのではないか。ゲルマン人がキリスト教を受け入れた背景や日本人が仏教を受け入れたのもそのような理由であると思われる。次に、イスラーム帝国は、他の宗教も認めたが、人頭税などの税を課した。そのためイスラーム教に改宗すればそのような税を免れることができるという理由ではないかと考えられる。さらに、唯一神であるイスラーム教の持つ魅力にあったのではないか。以上が私の答えですが、間違っていたなら訂正してください。
 次の第15回世界史講座は、3月3日(土)午後2時に行ないます、多数ご参加ください。
by YAMATAKE1949 | 2012-02-28 11:08 | 世界史講座