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第15回世界史講座のまとめ①(ゲルマンの大移動・フランク王国)

第15回世界史講座は3月3日(土)のお雛祭りの日の午後2時より「西ヨーロッパ世界の形成」をテーマとして行なわれました。受講者は6名でした。
 1 ゲルマン民族の大移動
 以前に古代ギリシア・ローマ時代を学習してきたが、この世界はヨーロッパ世界ではなく「地中海世界」であり、ヨーロッパ世界の形成はゲルマン民族の大移動からはじまる。
 ローマ帝国の北方に定住していたゲルマン民族の社会については、彼らは部族社会であり、部族内の重要な事項は、自由民の成年男性による民会で決定されていたことが分かっている。文字を知らなかったゲルマン人について、なぜそのようなことが分かるのか。それは、文字を知らなかった倭人の社会について、邪馬台国の卑弥呼などのことを我々が知っているのと同じである。つまり、当時の中国人の書いた「魏志倭人伝」が残されていたのと同じで、ローマ人が書いた「ゲルマニア」という書物からわかるのである。ゲルマン人が定住する以前にはケルト人が住んでいたが、彼らはゲルマン人に追いやられ、イギリスのアイルランドやスコットランドへと移住していったのである。
 375年に、匈奴の一派であるといわれているアジア系のフン族がヨーロッパに侵入すると、ゲルマン民族は大移動をはじめ、数十万人といわれるゲルマン人がローマ帝国領内にはいりこみ、イベリア半島には、西ゴート王国、イタリアには東ゴート王国とランゴバルド王国などが成立した。このような混乱の中で、476年に西ローマ帝国はゲルマンの傭兵隊長であったオドアケルによって滅ぼされた。
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ゲルマン民族の大移動(「東京書籍 新選世界史B」より)
 2 フランクの発展
 ゲルマン民族の建てた国家は多くは滅んだが、メロビング家のクローヴィスは、諸部族を統一してフランク王国を建国した。ゲルマン諸部族の多くがローマ帝国で異端とされたアリウス派のキリスト教を信仰していたのに対し、クローヴィスはローマ教会の教義を受け入れ、ローマ人に支持されて他のゲルマン国家を次々に打ち破った。
 8世紀前半、カロリング家のカール・マルテルは、イベリア半島から北上してきたイスラーム軍をトゥール・ポアティエ間の戦いで撃退した。さらにカールの子ピピンは、北イタリアで領土を奪い、ローマ教皇に領土を寄進した。フランク王国は西ローマ皇帝にかわる教会の保護者として認められた。ピピンの子カール大帝は、800年にローマ教皇からローマ帝国の冠を受けて、西ヨーロッパ全体の支配者となった。
 3 西ヨーロッパ諸国の形成
 カール大帝の死後、9世紀前半に帝国は東フランク、西フランクと中間部に分かれ、東フランクは後にドイツ、西フランクはフランスに相当する。中間部の国は間もなく滅び、統一国家はうまれなかった。現在、ここにはオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・イタリアがならぶ。
 8世紀頃、スカンディナビア半島周辺から、ノルマン人が来て、交易や略奪を行なった。ノルマンの由来は、北方のノースのゲルマン人という意味で、彼らは巧みに船を操り、バイキングと呼ばれる海賊行為を行なった。彼らは入江(バイク)から攻めてきたのでバイキングと呼ばれた。彼らは現在の北欧諸国の他、北フランスのノルマンディー公国や地中海のシチリア王国などを建国した。
 ノルマンディー公国のウィリアムは、1066年にイングランドを征服して王となり、ノルマン朝のウィリアム1世となった。イングランドはゲルマン民族の大移動のなかで、アングル族とサクソン族が七王国を建国していたので、ノルマン征服王朝と呼ばれ、ヨーロッパ封建社会の中で、比較的王権が強かった。現在の英語の中にもアングル・サクソンを原語とするものとノルマンを原語とするものに分かれているといわれている。牛は英語でカウ、豚はピッグ、ところが牛肉はビーフ、豚肉はポークである。カウやピッグはアングル・サクソンを原語とし、ビーフやポークはノルマンを原語とする。なぜなら、征服されたアングル・サクソンは牛や豚を養い、その肉を食べるのが征服したノルマンであるから。
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ノルマン人の軍団(「東京書籍 新選世界史B」より)
 9世紀には東方からマジャール人が、地中海沿岸ではイスラーム諸王朝が侵入した。こうした外敵の襲来に対しては、地域ごとに土地の有力者である領主が対抗した。領主は部下とともに武装して、外敵から自分の領地を守り、領内では裁判権や徴税権を用いて君臨した。東西フランク王国は名目的なものとなり、領主の支配する領土は政治的・経済的に自立した。そして、領主たちの中で、実力のある者が王に選ばれた。
 東フランクでは、オットー1世がマジャール人を撃退し、イタリア半島に遠征してローマ教皇を助けたので、教皇は962年にローマ皇帝の冠を彼に与えた。以後、彼の後継者は神聖ローマ帝国の皇帝の地位につくことになった。西フランクではヴァイキングの撃退を指導したカペー家が王位についたが、王権は弱かった。
 領主は自分より有力な領主を主君とし、自分は主君の臣下となった。主君は臣下に封土の支配を保証し、その代わり家臣は、主君が戦争する時には主君の軍隊への参加が義務づけられた。こうした領主間の関係を封建的主従関係と呼ぶ。しかし、この主従関係はあくまで領主間の契約関係であり、同じキリスト教徒であるという前提にたち、契約は神に対して誓いを立てるのである。

 
by YAMATAKE1949 | 2012-03-05 09:43 | 世界史講座