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イブン=バトゥータと鄭和①

●旅の王者 イブン=バトゥータ●
 アメリカの雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』1991年12月号の特集は「旅の王者 イブン=バトゥータ」であった。それは、イブン=バトゥータ(1304~77年)の足跡をたどった旅行記である。従来、世界の旅行家というとマルコ=ポーロなどがあげられていたことを思えば、イスラーム教徒の彼がとりあげられたことは、意義のあることだろう。
 イブン=バトゥータの足跡を知ることができるものとして、『三大陸周遊記』がある。この書物は、彼が旅を終えたあと、学者であるイブン=ジュザイイに語り伝えられたものである。現代の研究者にも、その記述は貴重な内容のものであることが認められている。
 イスラームの歴史学者である前島信次氏によると、「イブン=バトゥータとはその家系を示す名で、本名はムハンマド、父はアブダルラーという人であった。この一家は実はルワータというベルベル人の一族に属し、もとは今のリビア地方におり、後にモロッコに移ったもので、今でもかの地にはイブン=バトゥータと名乗る人々がいるそうである。ゆえに純粋のアラビア人ではないのであるが、アラビア文化に同化したために広い意味でのアラブ族といってさしつかえないであろう。また本人も自らアラブ族だといっている」と述べている。
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イブン・バトゥータの旅行路(「東京書籍 新選世界史B」より)
 旅行記によると彼が旅に出かけた期間は、1335年の22歳から、1354年の51歳までの29年間にわたる。この29年間に彼が旅したルートを大きく分けると次のようになる。
① 1325~1327年 モロッコからメッカへの巡礼の旅
② 1328~1331年 メッカ滞在。東アフリカ、アラビア南岸を旅行
③ 1332~1333年 小アジアから中央アジアをこえてインダス河畔の旅
④ 1334~1341年 デリー滞在(法官としてトゥグルック王に仕える)
⑤ 1342~1345年 カリカット・セイロン・ベンガル・スマトラをへて泉州・大都(北京)の旅
⑥ 1346~1350年 南海経由でインド・バグダッド・メッカ・カイロを経てモロッコへの旅
⑦ 1351~1354年 スペイン訪問、サハラの奥地への旅
 29年間にもわたるアジア・アフリカ・ヨーロッパの旅の目的は何であったのか。彼はその動機について、「わたくしがふるさとのタンジール(モロッコ)を出たのは聖地メッカの巡礼をおこなった後、メジナなる預言者の御墓に詣でるためであった。1人の同行者もなく、キャラバンの群に加わるのでもなく、ただ聖地を訪れるのだとの希望に胸をふくらませ、固い決意をひめて旅路に出た」と述べている。聖地への巡礼がそもそもの動機であった。それだけではとどまらなかった。聖地からはるかに遠い世界に旅立たせたその理由は、未知の世界へのあこがれと、あくなき探究心であったように思われる。
 経済力もないイブン=バトゥータが単独でこのような大旅行ができたのはなぜだろうか。その答えは14世紀のイスラーム社会のネットワークの広がりにあるようだ。彼が旅した世界は、中国をのぞいてほとんどの国がイスラーム世界であり、しかも当時の中国はイスラーム教徒に寛大な元王朝の時代であった。旅行記によると彼はデリーや故郷のモロッコで法官となっている。それは彼がイスラーム教の神学者であり法学者でもあったということだ。このような人が、その頃のスペイン、モロッコからインドに連なるイスラーム世界を歩けばいたるところで厚遇され、衣食や旅費に困ることはなかったのであろう。中国に行っても広東や泉州のようなイスラーム教徒の居留地があるところでは、何の不自由もなかったのである。
by YAMATAKE1949 | 2012-03-29 10:17 | その他