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弁髪とチーパオ②

●弁髪の強制と抵抗●
 17世紀の中頃、再び中国は異民族の支配下に入る。満州族清朝の成立である。この王朝ほど自分たちの風俗を漢族に強制した民族はない。1645年に北京を支配した清朝は、まもなく弁髪令を出している。しかし、漢族の抵抗が激しいとみた清朝はいったんこれを緩めたが、江南地方がほぼ平定された翌年の6月には、再び厳しい弁髪令を出した。
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 満州族の弁髪スタイルは、頭のいただきからまわりの髪を全部剃り落とし、後頭部の髪だけを長くのばしてそれを編むというもので、英語ではこれをピッグテイル(豚のしっぽ)と呼んでいる。古来中国では、父母から受けた身体髪膚(はっぷ)を傷つけないことが孝の始めとする儒教倫理が尊重されてきたため、髪を剃る弁髪令は漢族の大いなる反発を招いた。イエズス会の宣教師で約10年間中国南部に滞在したマルチン=マルチノは、漢族の抵抗について「清軍が新たに帰順した漢人に弁髪を強制するや否や、一切の漢人(兵士も市民も)は皆武器を執って起き、国家のためよりも、皇室のためよりも、むしろ自分の毛髪を保護せんがために、身命を賭して清軍に抵抗して、ついに彼らを撃退した」と述べている。
 弁髪は、幼少者をのぞいてすべての男子に強制された。髪を蓄えた者をみつけしだいに捕えて頭を剃り、抵抗するものがあれば、その首を切り落として竿にかけ、群衆の見せしめにした。そのため江南地方では、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」という有名な民謡が生まれた。このような激しい抵抗にもかかわらず、あえて清朝が弁髪令を実施した理由はどこにあったのか。
 どのような民族も自分たちの風俗には誇りをもっており、中国を支配した満州族も例外ではない。高い文化と伝統を持ち、圧倒的多数の漢族の風俗を認めたなら、少数である満州族の風俗はどのようになるだろうかと清朝は不安を感じたに違いない。なぜなら、ただでさえ漢族には中華思想が根強く残っており、異民族を蔑視する傾向があるからである。満州族が支配者であるということを漢族に認めさせるためにも、また漢族の異民族蔑視を打ち砕くためにも、彼らに満州族の風俗を強制する必要があったのだ。しかも中国には古来から、一代には一代の文物制度があるべきだというという理念がある。つまり新しい清朝の時代には新しい衣冠文物が当然備わらねばならず、全中国の民はそれに従うべきだという考え方である。このような理念を樹立するためにも弁髪令の実施は必要なことだと清朝はみたのであろう。
by YAMATAKE1949 | 2012-04-04 09:52 | その他