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鄭和②

<資料と解説>
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 鄭和はどのような生い立ちで、なぜ大監になれたのか
(資料1)鄭和の生い立ち
 『明史』によると、「鄭和、雲南人、世に謂う所の三保(宝)大監なり。初め燕王の藩邸につかえ、起兵の功ありてより、大監に累擢せられる」と記述されている。鄭和は、1371年の混陽にイスラム教徒の移住民の子として生まれた。鄭和の「鄭」という姓は、後に永楽帝によって与えられたものであり、彼の本来の姓は「馬」であった。父親の碑文によると、彼の一族(馬)は、曾祖父の拝顔(バヤン)の代に雲南に移住 し、祖父の名も父親の名もおなじ哈只(ハジ)である。彼の父親は温氏と結婚し、兄の文銘、和のほか、四女をもうけた。曾祖父の拝顔はモンゴル風の名前であり、和の家系はモンゴル系ではなかったのかという説もある。「哈只」(ハジ)は、 メッカに巡礼したことのあるイスラム教徒に与えられる尊称であった。1371年、和が1歳の時に、雲南の隣の四川に「夏」という国を建てていた明昇が明軍に降伏し、勢いに乗った明軍の雲南侵入は時間の問題だった。そうした最中に、和の父親が病没した。1381年になると、明軍が雲南に侵入を開始し、翌年に征服を完成させた。戦いの中で和は明軍の捕虜となった。1383年頃に、和が13歳の時に北京の燕王の下に宦官として届けられたといわれている。和がどのような経過で宦官になったのかについては明確な記述はない。「靖難の変」の時、鄭和はすでに29歳であり、見違えるような堂々たる体格の持ち主に成長していた。「靖難の変」で、和は燕王の側近として軍功を上げ、永楽帝と強い信頼の絆で結ばれることになった。『明史』も、「起兵の功有りてより」と、軍功が鄭和が抜擢されるきっかけになったことを指摘している。また『明史』は、「豊躯偉貌 にして、弁は博く機敏」と、和が恵まれた体格、威厳のある風貌、優れた弁舌、機敏な判断力、行動力を持っており、指揮官としての卓越した素質の持ち主であったことを簡潔に記してい る。彼は、「靖難の変」であげた数々 の戦功が評価され、「大監」に任ぜられた。(宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書より抜粋)
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明代のアジア(絵は、鄭和が遠征のときに乗った船。)(東京書籍「新選 世界史B」より)
(解説)
  資料にあるように鄭和の生い立ちは悲惨なものであったが、幸運にも永楽帝に見いだされて、軍功により大監という宦官の長官の地位に就くことができたのである。そして「南海遠征」の提督に抜擢されるのであるが、なぜ永楽帝は重要な職務に宦官を任命したのか。その理由として、永楽帝は「靖難の変」により甥の皇帝をその地位から奪ったため、彼の一族を遠ざける必要があったこと。さらに当時勢力を持っていた官僚を押さえて皇帝の独裁政治を行なうためには、皇帝の秘書的な地位にある宦官に頼らざるを得なかったからである。


 
by YAMATAKE1949 | 2012-08-03 06:42 | 人物世界史