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ミケランジェロ(自由都市フィレンツェの芸術家)⑩

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(帝国書院「タペストリー」より)
(解説)
 メディチ家ではピエロが死にその後をついだのが弟のジュリアーノであった。彼はドイツ皇帝やスペイン王に巨額の金を与え、メディチ家のフィレンツェ支配権を援助させた。そして遂に1512年、スペイン軍の援助のもとにメディチ家が政権を掌握し、フィレンツェ自由都市憲法が廃止され、市民武装状態の解除を宣告し、共和政政府の要職にあった人物を追放した。マキャベリもこの時投獄され引退を強いられたのである。そして15年間メディチ家の独裁政治が行われた。
 1527年になるとドイツの皇帝カール5世のローマへの侵略が行われ、ローマは廃墟と化した。この「ローマ掠奪」の報せがフィレンツェにくると、フィレンツェの民衆は立ち上がり、遂にメディチ家を追放して共和政を復活させた。
 1529年になると、皇帝カール5世と教皇クレメンス7世が和睦した。皇帝はナポリとミラノの占領を教皇に認めさせ、一方、教皇にはフィレンツェにおけるメディチ家の権力回復を援助するという契約を取り交わした。フィレンツェは皇帝と教皇の連合軍を敵に回して英雄的な戦闘をしたのち3万人の犠牲者を出して降伏した。1530年8月12日、これが共和国最後の日となった。
 前の史料にあるようにこの時、ミケランジェロは防衛指揮官として祖国の防衛にあたった。彼は一時逃げ出したが、再び防衛に従事することになった。軍隊が入ってきて共和派が処刑されたときに、防衛長官であった彼も当然殺されるはずだった。教皇クレメンスは、ミケランジェロを捜しだし、教皇のための仕事をすることを条件に彼を許した。ミケランジェロはこの後、生涯自分が敵前逃亡したこと、また仲間が処刑されているときに隠れていたこと、また彼らの敵であった教皇に命乞いとしたこと、さらにルネサンスの精神である自由都市を裏切ったことによって罪の意識に苦しんだ。彼にとってフィレンツェは住むに耐えがたい場所となり、1534年以降、彼は永久に祖国を去った。
 この後、ミケランジェロの叙情詩には罪のなかに生きる苦しみが刻まれている。
 「わたしは死につつ生きる 
  わたしの肉体は魂の牢獄にすぎない。」(『フィレンツェ』文芸誌春秋より)
 以後、ミケランジェロは大作『最後の審判』を作成したが、そこには怒れるキリストが描かれているといわれる。そして晩年には『ピエタ』の製作に熱中し、かずかずの作品を残した。そこには彼が抱きつづけた苦悩が刻みつけられているのではないだろうか。
(参考文献)
 羽仁五郎『ミケランジェロ』(岩波新書 1939年)
 シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ』(岩波書店 1978年)
 若菜みどり『フィレンツェ』(文芸春秋 1994年)
by YAMATAKE1949 | 2013-01-12 11:00 | 人物世界史