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クロムウェル⑩

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(清水書院「クロムウェルとピューリタン革命」より)
(解説)前回の続き
 また、クロムウェルはスペイン戦争へと向かう。その根底には、カトリックを信仰の敵とみなすピューリタン的な感情が強く働いていたことは事実であるが、それだけに留まらない現実的な配慮があった。その一つはイギリスの貿易増大と市場拡大という経済的な要求に根ざすものであった。クロムウェルの外交政策は、西ヨーロッパの片隅に位置した農業中心の一島国を世界貿易の覇者に押し上げる転換に貢献したのであった。
 1653年、クロムウェルはみずから終身の護国卿に就任して、武力による独裁体制を確立した。かれは大逆法を制定して、この政体を改めようとするものを大逆罪として処罰することを定めた。さらにピューリタンが望んだ道徳に関する立法については、闘鶏、決闘、さらに飲酒、競馬も禁止されてしまった。このような政府に対して議会が反発すると、クロムウェルは議会を解散し軍政官制度とよばれる軍人の政治を開始した。しかし反政府運動はさらに活発となり、このような情勢の中でクロムウェルは59歳で病死した。
 かれの死後、1660年にチャールズ2世が即位し王政復古がおこなわれると、クロムウェルは「国王殺し」としてその墓をあばかれ、死骸と首はさらしものにされた。クロムウェルは「悪人」と「狂信家」であるというイメージはその後18世紀まで続いたが、19世紀になって「英雄」として再評価され、かれの銅像は、今なおロンドンの議事堂のそばに立っている。
  【8】おわりに
  クロムウェルを通してピューリタン革命を学習してきたが、もう一度この革命の意義について次の二点について押さえておきたい。第一に、この革命によってイギリス絶対王政が倒され、共和制が実現されたことである。もちろんすぐに王政復古によって共和制は打倒され、現在もイギリス王政は存続している。しかし絶対王政を打倒して共和制を樹立したという経験は、後のアメリカ独立革命やフランス革命などに大きな影響を与えていったということである。第二に、革命によって成立したクロムウェルの政府がおこなった外交政策によって、イギリスは、「西ヨーロッパの片隅に位置した農業中心の一島国を世界貿易の覇者に押し上げる転換に貢献した」ということである。
 このような世界市場を支配していたからこそ、イギリスから産業革命を達成することができたのである。このように、ピューリタン革命は歴史上重要な革命であったことを確認しておこう。
(参考文献)
 今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院 1984
 今井宏『岩波講座世界史(15)イギリス革命』1969年
 浜林正夫『イギリス市民革命史』未来社1989年
by YAMATAKE1949 | 2013-03-16 10:21 | 人物世界史