中央ヨーロッパ旅行記25(チェコ チェスキー・クルムロフ①)
私たちは午前8時にウィーンのホテルをバスで出発した。目的地はチェコの世界遺産チェスキー・クルムロフである。ウィーンから約289㎞、バスで約4時間30分の行程である。バスに表示されている外気の温度はマイナス7度である。
車中では添乗員さんがハプスブルク家の歴史を教えてくれた。
オーストリアは10世紀頃からバーベンベルグ家が治めていたが、13世紀に当主の男系が絶えて断絶する。当時、神聖ローマ皇帝は跡継ぎが決まらずに皇帝が死去した場合は、諸侯による選挙で選ばれていた。この時諸侯たちは、現在のスイスのバーゼルを拠点とする、あえて力のないおとなしい貴族、ハプスブルク伯爵を選出したのである。皇帝に選出されたルドルフは、ウィーンに拠点を移し、ハプスブルク家の祖となった。14世紀半ばには、ルクセンブルク家のカール4世が皇帝の座について、プラハを帝都に定めた。その後、再びハプスブルク家が皇帝に選出されるが、特にマクシミリアン1世の時代に政略結婚によってハプスブルク家は領土を拡大していった。「汝オーストリアよ、戦を止めて結婚せよ」という家訓を彼は残している。
バスはオーストリアを出国する手前のサービスエリアでトイレ休憩をとった。そこには皇后エリザベートが描かれてあるリキュールが、彼女の愛称シシーという名で売られていた。私はオーストリアのお土産に1本買うことにした。
バスは12時頃にチェスキー・クルムロフに到着した。
1992年、世界遺産に登録されたチェスキー・クルムロフの歴史は13世紀に始まる。
南ボヘミアの貴族ヴィトーコフ家が13世紀にヘラデクというところにゴシック式の小城を建設したのがこの町の始まりである。1302年にチェコの最も強大な貴族であるローゼンベルク家がこの町を支配し、町は華々しく発展した。
16世紀、特に領主ウィルヘルム・フォン・ローゼンベルクの時代には、ルネサンス様式の建物が数多く建築され、町は色彩鮮やかな華麗なるルネサンス都市へと変貌を遂げた。