フランス旅行記28 (パリ フリータイム④ ヴォージュ広場)
1789年7月14日、パリ民衆はバスティーユ牢獄を襲撃したが、これがフランス革命のはじまりとなった。
バスティーユ牢獄を襲撃したのは、この牢獄が政治犯を監禁する絶対王政の弾圧の象徴となっていたからであると、私は高校時代に習った。しかしそうではなく、本当の理由は、武器・弾薬が牢獄に保管されているので民衆はそれを手に入れようとしてバスティーユ牢獄を襲撃したのである。
革命後バスティーユ牢獄は解体され、現在の広場となった。私は広場と呼ばれているから、公園のようにベンチがあり、市民の憩いの場所となっていると思ったが全く違った。広場の中央には1830年の7月革命の犠牲となった市民に捧げられた「7月革命記念柱」があるだけだ。
バスティーユ広場から私たちが次に向かったのはヴォージュ広場である。広場に向かって歩いていると、小さなデモ隊を見かけた。
デモ隊は国連の旗やアフリカのどこかの国旗を持っていた。パリではたくさんの黒人を見かけたが、なかには地下鉄で物乞いをしている人もいた。彼らはフランスで貧しい生活を強いられているのであろう。
バスティーユ広場から10分ほど歩いてヴォージュ広場に到着した。
これは1612年、ブルボン朝の創始者アンリ4世が造ったという、パリで最も古く、最も美しい広場である。最初の名称は、「ロワイヤル(王)広場」であったが、フランス革命により1800年に「ヴォージュ」と改称された。
「ヴォージュ」とは、フランス東部の地方の名で、当時、ヴォージュ県が最も速く税金を納めていたため感謝の意を表して、この名称がつけられた。アンリ4世はこの「王の広場」を取り囲む建物は全て同じ造りにしようと考えた。広場を囲む36の邸宅には、多くの貴族や政治家や作家が住むようになった。最も著名な人物は、ヴィクトル・ユゴーで、そこには「ヴィクトル・ユゴー記念館」がある。
広場の中央にはルイ13世の騎馬像が設置されていた。
現在、広場を囲む建物の1階部分はアーケード付きの回廊となっていて、画廊、レストランなどが並んでいる。