第4回日本史講座のまとめ①(渡来人と大陸文化の移入)

 第4回日本史講座は、9月13日(土)午後2時より受講者7名で行われました。
4 渡来人と大陸文化の移入
1) 帰化人と渡来人
 私たちの学生時代には、渡来人とはいわないで帰化人と習った。今のほとんどの教科書は渡来人と記述されてあるが、なぜ帰化人から渡来人と呼び名が代わったのか。コンピューターで帰化人を検索したところ、帰化人とは「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」と書かれていた。帰化人という呼び名は、戦前の皇国史観にもとづいて、日本の朝鮮支配を合理化するものであった。そのような理由から帰化人から、単に朝鮮半島から渡ってきたという渡来人という呼び名が使われている。
2) 先進文化の流入
 5世紀後半になると、朝鮮半島南部から渡来人が日本列島へと移住し、仏教や儒教、医術や易(占い)さらに漢字などの先進文化をもたらした。
 仏教は前6世紀頃にインドで成立したが、中国で盛んとなったのは南北朝の北魏時代(386~534年)であり、その後南朝にも普及し、隋・唐時代には大発展をとげた。仏教は朝鮮半島でも盛んとなり、日本列島へと伝わった。教科書によると、「欽明天皇のころ、百済の聖明王が教典や仏像をヤマト王権におくったことをもって仏教公伝(こうでん)としている。その年次については、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』の538年説と、『日本書紀』の552年説がある。」と書かれている。仏教は単に宗教という面だけでなく、教典に書かれている漢字、仏像彫刻や寺院の建築など総合的な文化としての意義を持っていたのではないかと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 渡来人の役割
 ヤマト王権や地方豪族は、渡来人を積極的に活用して、政治力や経済力を飛躍的に高めていった。ヤマト王権は彼らを近畿に住まわせ、韓鍛冶部(からかぬちべ)・陶作部(すえつくりべ)・錦織部(にしごりべ)・史部(ふひとべ)などに組織した。韓鍛冶部(からかぬちべ)とは鉄鋼技術者であり、陶作部(すえつくりべ)とは朝鮮半島渡来の窯で焼きあげる須恵器(すえき)の技術者である。また、錦織部(にしごりべ)は養蚕や織物の技術者で今年の全米オープンテニスで準優勝をとげた錦織の名前はここからきているのであろう。史部(ふひとべ)は記録や出納(すいとう)・外交文書の作成に従事した者であろう。ヤマト王権はこれらの渡来人の技術者集団を品部(しなべ)として組織し、彼らの代表者には姓(かばね)が与えられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 特に西文氏(かわちのふみし)や東漢氏(やまとのあやし)・秦氏(はたし)らは、その後、氏族として厚遇された。教科書には、「『古事記』や『日本書紀』によると、西文氏(かわちのふみし)の祖とされる王仁(わに)は『論語』や『千字文』を伝え、東漢氏(やまとのあやし)は文筆にすぐれ、秦氏の祖とされる弓月君(ゆみずきのきみ)は機織り・養蚕の技法を伝えたとされている。)と書かれている。この記述に王仁(わに)という名前が出てきたが、この人物については、以前に私がこのブログで書いたことがある。それはフィールドワーク「大阪とコリア⑥」で御幸森天神宮を訪れた時に、この神宮の石碑に『難波津の歌』があったがこの歌を作った人物こそ王仁(わに)博士であった。
『難波津の歌』というのは、「難波津に 咲くやこの花冬籠もり 今は春べと 咲くやこの花」という歌である。
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万葉仮名・和文・ハングルで書かれた「難波津の歌」の碑
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by YAMATAKE1949 | 2014-09-14 10:48 | 日本史講座 | Comments(0)