人気ブログランキング | 話題のタグを見る

第4回日本史講座のまとめ④(推古朝の政治)

2 推古朝の政治
1)蘇我氏の勢力拡大
 朝廷のなかで、勢力を強めたのは大臣(おおおみ)の蘇我氏であった。蘇我氏は朝廷の財政権をにぎり、渡来人を重用(ちょうよう)するとともに大王家(おおきみけ)と婚姻関係をむすんで政治力を増していった。6世紀末、蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教導入に反対する物部氏(もののべし)との争いに勝ち、政治を主導するようになった。587年に稲目の子の蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)を攻め滅ぼし、592年にはみずから擁立した崇峻(すしゅん)大王を暗殺して、蘇我氏が政治を独占した。
第4回日本史講座のまとめ④(推古朝の政治)_a0226578_1131261.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 天皇の称号について
 日本史の教科書では、天皇という称号は崇峻(すしゅん)から記述されているのがほとんどである。しかし、天皇の称号がいつから始まったかについては、推古朝のころから使われたとする考えと、国内で強い支配権を持ち始めた天武朝のころに成立したとする考えの二説がある。ウィキペデアでは、日本で最初に天皇と称された人物は天武天皇であると記述されているが、私もその考えに賛成である。そのため、教科書の記述とは違って、天武朝までは天皇という称号を使わずに大王と記述する。
3) 推古朝の成立
 592年、馬子の姪(めい)にあたる推古大王が蘇我氏の本拠地である飛鳥(あすか)で即位した。翌年、推古大王は甥(おい)の厩戸皇子(うまやどのみこ)を摂政とし、蘇我氏とともに政治にあたらせたとされている。
しかし、なぜこの頃に日本で最初の女帝が誕生したのか。「日本書紀」によると、蘇我馬子は自分が擁立した崇峻が自分を嫌っていることを知り暗殺させたのである。だから独裁権をにぎった馬子にとって自分に逆らわない人物が必要であり、女性である自分の姪を大王に就けたのではないかと考えられる。
4) 聖徳太子伝説
 推古大王の甥にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を摂政としたとされているが、当時は摂政という制度はまだなかったのであり、政治は馬子が独占していたのである。ところが、日本の歴史では、厩戸皇子(うまやどのみこ)が「蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。」と書かれている。この厩戸皇子(うまやどのみこ)が聖徳太子であり、私たち年配者には1万円札でおなじみのスーパースターである。ところで聖徳太子という名称はいつ頃からあらわれたのかというと、8世紀中頃に編纂された『懐風藻(かいふうそう)』が最初であるといわれており、厩戸皇子(うまやどのみこ)が死んでから100年以上も経(た)っている。「皇室と蘇我氏の関係系図」を見ると明らかなように、厩戸皇子(うまやどのみこ)は蘇我氏との結びつきが大変強いことがわかる。厩戸皇子(うまやどのみこ)という名前の由来はたくさんあるが、私はそのなかの「母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説」が最も正しいのではないかと思う。客観的に考えて、絶大な権力をにぎった蘇我馬子をおさえて、厩戸皇子(うまやどのみこ)が政治を指導したとはとうてい考えられない。馬子は自分が擁立した大王でも暗殺する人物であり、まして皇子は彼のもとで育てられたのである。だから皇子は馬子のロボットでしかなかったであろう。それではなぜ、後に皇子はスーパースターとして「日本書紀」に登場するようになったのか。その理由は、「大化の改新」のところでも触れるが、蘇我氏を倒し、さらに「壬申の乱」に勝利して有力豪族を押さえた天武天皇にとって、天皇を中心とする中央集権体制の端緒となった推古朝の政治改革の指導者が蘇我馬子では都合が悪い。そこで厩戸皇子(うまやどのみこ)が政治改革の指導者として描かれるようになり、やがて聖徳太子伝説を生み出していったのではないかと思われる。
第4回日本史講座のまとめ④(推古朝の政治)_a0226578_11334754.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
5) 推古朝の政治改革
 推古朝では、朝鮮半島での勢力回復をめざすとともに、内政では、603年に冠位十二階の制をさだめて、個人の功績や才能に応じて位(くらい)を与えるようにし、有力氏族が政治をとりおこなう氏姓制度(しせいせいど)の弊害をなくそうとした。また、604年に厩戸皇子(うまやどのみこ)がさだめたとされる憲法十七条には仏教や儒教の考えがとりいれられ、大王のもとに支配を秩序づけることや、官僚として勤務する心がまえなどが説かれた。このように推古朝の政治は、国内を統一しようとするもので、この姿勢はその後の政権に引きつがれた。
第4回日本史講座のまとめ④(推古朝の政治)_a0226578_11341757.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
第4回日本史講座のまとめ④(推古朝の政治)_a0226578_11343939.jpg
(三省堂「日本史B」より)
by YAMATAKE1949 | 2014-09-17 11:35 | 日本史講座