第6回日本史講座のまとめ③(官僚制度のしくみ)

3 官僚制度のしくみ
1) 官位相当の制
 唐の律令制度をまねてつくられた日本の官僚制度ではあったが、そのなかには日本独自のものが取り入れられていた。畿内の有力豪族らが朝廷の官僚として編成され、家柄や能力におうじて初位(そい)から一位までの位階(いかい)をそれぞれあたえられ、位に相当する官職に任じられたがこれを官位相当の制と呼ぶ。貴族と呼ばれたのは五位以上の者で、その定員は、100人以下だった。そのなかでも、三位(さんみ)以上の者は公卿(くぎょう)と呼ばれた。官人は税を免除され、公卿ら上級官人には位階や官職におうじて、田や封戸(ふこ)が支給された。詳しく説明すると、位にたいして田が支給される位田(いでん)。官人の地位にたいして田が支給される職田(しきでん)。位にたいして封戸(ふこ)という農民の戸の納める税が支給される位封(いふ)。官人の地位にたいして封戸(ふこ)が支給される職封(しょくほう)。さらにすべての官人には春と秋に季禄(きろく)として絹や布や鍬(くわ)などが支給された。
a0226578_10381915.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
[#IMAGE|a0226578_10395923.jpg|201410/14/78/|mid|578|693#(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
a0226578_1041625.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
a0226578_104365.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 蔭位の制(おんいのせい)
 上級官人にはさまざまな特権があたえられ、その待遇には下級官人と格段の差があった。さらに、貴族の子や公卿の場合はその孫までは、21歳になると自動的に一定の位階につくことが保証されていたが、これを蔭位の制(おんいのせい)と呼ぶ。中・下級官人や郡司の子弟らは、都では大学に、地方では国学にそれぞれ入学して、律令の研究をする学科である明法道(みょうぼうどう)や儒教の研究をする学科である明経道(みょうぎょうどう)、さらに中国の『史記』や『漢書』などを研究する学科である紀伝道(きでんどう)などを学び、試験をうけて官人に登用された。しかし、彼らは優秀な成績で大学を出ても、最高位でも正八位からであり、貴族の子弟のあつかいとはかけはなれていた。
a0226578_1044371.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 官僚制度は有能な人材を登用することを目的としていたものの、じっさいには、大化改新以前からの畿内の有力豪族が上級官人となり、一般庶民が下級官人にされることはなかった。
 中国でも上級官人を貴族が独占していた。そのためその弊害を打破するために隋の時代に学科試験による官吏任用制度が初めて実施されたが、これが後に科挙と呼ばれる制度であり唐代に制度が整った。しかし、唐の時代はまだ貴族の勢力が強く、重要な官僚のポストは貴族が占めていた。唐が滅亡し、宋の時代には貴族が没落していたということもあるが、すべて官僚になるためには科挙試験を受けなければならなくなった。身分や家柄などにとらわれず、科挙という学科試験に合格すれば、だれでも高級官僚になり富と地位を獲得することができる。科挙制度は、まことに平等で優れた制度ではあったが、その学科試験は『四書五経』などの古い儒教や漢詩などの教養をためされたものであり、中国の優秀な人たちは、科挙に合格するためにそればかり勉強をしたために、実用的な学問があまり発展しなかったという弊害も出てきたのである。科挙試験の弊害が、中国の近代化を遅らした要因の一つになったと思われる。
a0226578_10443968.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2014-10-14 10:45 | 日本史講座 | Comments(0)