第8回日本史講座のまとめ①(人民の負担)

 第8回日本史講座は、11月8日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
4) 人民の負担
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(東京書籍「図説日本史」より)
 日本の律令制度は唐の制度をまねたものであり、税制度である租庸調も同じように唐の制度と基本的には同じであるが、やはり日本の社会にあったように変更されている。
 租は公民の男女とも田一段につき稲2束(そく)2把(わ)を負担したが、これは収穫量の約3%にあたり、地方の財源となった。
 公民の男性は年齢に応じて、正丁(せいてい)・次丁(じてい)または老丁(ろうてい)・少丁(しょうてい)または中男(ちゅうなん)に分けられた。正丁は21から60歳の男性、次丁または老丁は61歳から65歳の男性、少丁または中男は17歳から20歳の男性である。
 調は正丁には、絹・糸・綿・布などの産物から一種類を、次丁には正丁の2分の1を、少丁には正丁の4分の1を負担させたが、これは中央の財源となった。庸は正丁には都での労役10日または、麻布(あさぬの)で2丈6尺、米では6斗、次丁には正丁の2分のを負担させたが、これも中央の財源となった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 さらに雑徭(ぞうよう)は正丁には、地方での60日以下の労役が、次丁には正丁の2分の1が、少丁には正丁の4分の1を負担させた。地方での労役とは土木事業や雑用に使役された。
 兵士役(へいしやく)は、正丁の3人のうち1人の割合で徴収され、軍団の兵士や北九州防備の防人(さきもり)、京を警備する衛士(えじ)として強制的に送られた。防人の由来は、663年の白村江(はくすきえ)の戦いで敗北した大和政権が九州各地の岬を防備したところ、岬を守る岬守(みさきもり)からきているといわれている。
 人民の負担はそれにとどまらなかった。中央官庁の雑役に従事する労役である仕丁(しちょう)や調・庸を京まで運ぶ運脚(うんきゃく)も農民の義務であり、食費などはすべて自己負担であった。また海や山で暮らす海民(かいみん)や山民(さんみん)には天皇の食前に供する贄(にえ)という産物を税として納めさせた。
 一方、国や郡の役所である国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)の財源として、農民に国や郡の倉に貯蔵している稲(正税)(しょうぜい)を春に貸し付けて秋に利息を付けて返済させる出挙(すいこ)と呼ばれる制度を設け、しだいに強制するようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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by YAMATAKE1949 | 2014-11-09 10:21 | 日本史講座 | Comments(0)