ポーランド旅行記21(ワルシャワ③)
私たちは午前7時30分にバスで世界遺産ワルシャワ観光へと向かった。私たちを案内してくれたのは現地ガイドのアレキサンドラさんで、彼女も日本語がとても上手で聡明な感じの女性だった。
最初に訪れたのはゲットー英雄記念碑のある場所だった。
ナチスのユダヤ人虐殺が行われるまで、ポーランドはユダヤ人の天国であったとガイドのアレキサンドラさんは指摘する。当時のポーランド人口の三分の一はユダヤ人だったそうだ。ユダヤ人はポーランドの経済だけでなく文化にも大きな影響を与えた。なぜポーランドにユダヤ人が多かったのかというと、他のヨーロッパの国々でユダヤ人の迫害が起こったが、ポーランドでは伝統的に民族的に寛容な政策をとってきたため、そのような迫害はなかったからである。ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。
1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻によってワルシャワはドイツ軍に占領された。そしてナチスは1940年にワルシャワにゲットーをつくり40万人のユダヤ人が隔離された。ゲットーでの生活空間は劣悪で、1941年3月には人口44万5000人、面積3.36km²、一人あたりの面積7.55m²しかなかった。ゲットーは、飢えと不衛生に苦しめられ、ゲットーの食糧配給は一日180カロリー程度しかなかった。
1942年1月にワルシャワゲットーのユダヤ人はワルシャワから北東90㎞にあるトレブリンカ強制収容所への移送が決定された。1942年7月から9月にかけて最初の移送作戦が行われ、約30万人のゲットー住民が移送されてガス室で殺害された。この移送作戦によりワルシャワ・ゲットーの住民数はせいぜい7万人になった。1942年10月末に「ユダヤ人戦闘組織」が創設され、1943年1月にナチスの第二次移送作戦が開始されると、ゲットー内でナチスSS(親衛隊)に対するゲリラ闘争が開始された。1943年4月19日にワルシャワのSS部隊がゲットーを包囲して攻撃してくると、ユダヤ人レジスタンスの粘り強い抵抗の末、ついにドイツ軍はゲットーから一時撤収した。これはドイツ軍占領下のワルシャワにおいて起こった初めての大規模反乱であった。しかしユダヤ人たちの勝利は4月19日だけだった。4月20日にはドイツ国防軍ワルシャワ応援部隊によってゲットーの徹底的な攻撃が開始され、5月中頃までにゲットーは完全に破壊された。ゲットー英雄記念碑はポーランドがソ連に解放されて社会主義となった時代に造られたものである。