第14回日本史講座まとめ①(荘園公領制の展開)

 第14回日本史講座は2月28日(土)午後2時より10名の受講者の参加で行われました。
 第6章 古代から中世へ
 新しい章の題名が「古代から中世へ」ということで、講座の初めに時代区分についてかなりの時間を割いて説明した。
 私が使っている教科書「三省堂 日本史B」でも時代区分は、原始・古代・中世・近世・近代・現代となっているが、ほとんどの教科書でもこのような時代区分が行われている。受講者に原始とはどのような時代かを問うてみたが、なかなか答が返ってこなかった。原始時代とは貧富や階級のない社会であり、階級が生まれて国家が誕生した頃から古代社会へと移行すると私は答えた。古代から中世への移行についても質問したが難しかったようだ。私は古代から中世の移行は、平安から鎌倉時代だと答えると、平安時代が古代に入るとは思わなかったという感想が受講者の中から出てきた。さらに中世から近世、近代、現代の時代区分について説明し、さらに世界史でも時代区分の説明をしたがここでは省略する。
 説明が終わったあとで受講者から、時代区分の指標となるものは何なのかという鋭い質問が出された。これについて私はマルクスの古代奴隷制、中世農奴制、近代資本主義というとらえ方があると紹介しておいた。
Ⅰ 荘園公領制の展開
1 大名田堵の登場と開発の推進
 平安時代後期になると、次の時代への新たな動きがはっきり現れるようになった。なかでも、田堵は農業生産をにない、次の時代へ移行する原動力となった。田堵の堵は垣根という意味で、荘園の一部を垣根で区画して請作(うけさく)したところからこの名がある。田堵は現地での農業生産の担い手として、荒廃田や灌漑施設の開削(かいさく)や整備を進めた。田堵のなかには隷属農民を従えながら村落を形成して大規模な耕作地を持つ大名田堵とよばれる有力者も現れた。
 このような大名田堵や地方豪族は、荒廃田や原野の開墾を国司に申請し、定額の年貢を納める条件で開発した。彼らはしだいに耕作地を私領化して開発領主へと成長した。開発領主は、それらの耕地を周辺の農民に耕作させて地代をとるという新しい経営方式によって、経営規模をさらに大きくしていった。
2 国衙領と荘園
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(東京法令「日本史のアーカイブより)
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(東京書籍「図説日本史」より)

1) 新しい徴税方式
 朝廷は、開発領主らによる私領の形成を好ましく思わなかった。しかし、11世紀中頃になると、財源不足から、開発領主らによる私領化を認める代わりに、公田と同じ額の年貢を徴収するように方針を転換し、私領と公田をあわせて公領(国衙領)として編成しなおした。
 国衙は、開発領主の私領を中心に、公領を郷(ごう)・保(ほ)という新たな行政単位に分け、開発領主を郷司職(ごうじしき)・保司職(ほじしき)などに任命して、開発の推進と徴税を請け負わせるようにした。開発領主は、この権限を利用して、領域内の農民や村落に対する支配を確立していった。そして、彼らはその職を代々世襲し、多くは国衙の行政を担当する在庁官人(ざいちょうかんじん)となった。

2) 寄進地系荘園の成立
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(東京書籍「図説日本史」より)
 開発領主のなかには、在庁官人にならず、自分たちの権益を国衙の支配や他の領主の侵害から守るために、自分が荘官になり現地での支配を続けることを条件にして、私領を貴族や寺院・神社に荘園として寄進する物も現れた。
 寄進を受けた貴族や寺院・神社は領家(りょうけ)とよばれたが、その地位を安定させるために、さらに上級の貴族らに寄進した。それを本家8ほんけ)といい、権門勢家(けんもんせいけ)とよばれる天皇家や摂関家・大寺院・大神社などに集中した。こうした寄進によって成立した荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)といい、寄進を受けた領家や本家を荘園領主とよんでいる。
 官省符荘(かんしょうふしょう)として租税免除の特権(不輸の権)を獲得した荘園では、それを根拠に、国衙(国司)が徴税を行うために田地を調査する検田使(けんでんし)や追捕使(ついぶし)の立ち入りを拒否する不入の権を獲得することもあった。このように、田堵の農業経営の拡大から生まれた荘園と国衙領(公領)からなる土地制度を荘園公領制とよんでいる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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by YAMATAKE1949 | 2015-03-18 11:03 | 日本史講座 | Comments(0)