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第21回日本史講座まとめ②(鎌倉新仏教)

 Ⅴ 鎌倉文化
1 貴族文化と武家文化の融合
1) 鎌倉文化の特色
 鎌倉幕府の成立は、政治・経済の分野だけでなく、文化の面でも新たな傾向を生み出した。文化の担い手はいぜん貴族が中心であったが、幕府の政治的な権威の高まりによって、武家社会の生活倫理や価値観が社会や文化の面にも影響を与えるようになった。また、貴族の側でも政治的な後退のなかで、歴史や文化の変化を直視し、現実的な理解をめざそうという傾向が生まれた。
2) 災害と祭礼・信仰
 一方、この時代の人々は、いぜん気候によって生産や生活が左右され、天然痘やはしかなどの病気も周期的におこったため、それを神仏の罰やたたりのせいとして恐怖した。人々は、病気や飢饉、神仏の罰から逃れ、自分を救済するために、神や仏を深く信仰し、生産や季節の節目にはさまざまな祭礼を行った。朝廷や寺院・神社だけでなく、武家社会でも五節供(ごせっく)などの年中行事が定着した。五節供とは、1月7日を人日(じんじつ)、3月3日を上巳(しょうし)、5月5日を端午(たんご)、7月7日を七夕(たなばた)、9月9日を重陽(ちょうよう)を指す。これらの行事は中国から伝わったものである。民衆も五節供に生産や生活にもとづく祭礼などを取り入れた年中行事を行うようになった。

2 鎌倉新仏教
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 鎌倉時代でも、仏教界の中心はいぜん天台宗・真言宗や南都の諸宗であった。興福寺や東大寺・延暦寺などの大寺院は多数の荘園を持ち、朝廷や貴族らに強い影響力を持った。
 しかしこの時代になると、人々が出家せずに普通の生活をしながら念仏などの経文を唱えることによって救われると説く、民衆救済を目的とする新たな仏教があらわれるようになった。このような仏教を鎌倉新仏教と呼ぶ。
 新仏教のなかで最初にあらわれたのは法然(ほうねん)の浄土宗であった。彼は身分・男女の性別にかかわらず、阿弥陀仏を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」(念仏)をとなえれば極楽往生できると教え、武士や民衆の心をとらえた。
 法然の弟子の親鸞(しんらん)は、どんな煩悩(ぼんのう)の深い悪人であっても、阿弥陀仏を信じる心をおこしさえすればただちに往生することができるとする悪人正機(あくにんしょうき)を説き、農民らの支持をえて、浄土真宗という教団の基礎をつくった。
 同じく阿弥陀仏への信仰を説いて時宗(じしゅう)の祖となった一遍(いっぺん)は、各地で布教し、信心の有無や身分の上下、男女・善人悪人の区別なく、すべての人々が極楽往生できるとし、とくに乞食(こじき)・非人らのような民衆をひきつけた。
 安房(あわ)の漁民の家に生まれた日蓮(にちれん)は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と題目を唱えることで即身成仏(そくしんじょうぶつ)できると説き、関東の武士や商工業者に支持をえた。しかし、日蓮宗だけが正しい教えであると主張して他宗をきびしく批判したため、幕府や他宗派から迫害を受けることとなった。
 関東で大きな勢力をもったのは、戒律と坐禅(ざぜん)による修行によって悟(さと)りを開くことができるとする禅宗であった。栄西は、宋で二度にわたって禅をおさめて臨済宗(りんざいしゅう)を伝え、将軍の源頼家や北条政子ら幕府の保護を受けた。
 道元(どうげん)は宋で禅を学んで曹洞宗(そうとうしゅう)を開き、ひたすら座禅すること(只管打坐)(しかんだざ)を説き、越前永平寺にこもって弟子を養成し、北陸の武士らの支持を集めた。

 次回の第22回日本史講座は、6月27日(土)午後2時より行う予定です。
by YAMATAKE1949 | 2015-06-16 08:42 | 日本史講座