イタリア旅行記9 (アマルフィ②)
私たち夫婦はアマルフィの坂を上っていった。あと7分ほど歩くと紙の博物館がある。なぜアマルフィで製紙が盛んだったかというと、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でここにもたらされたからである。しかし、アマルフィの散策時間があまりないので、紙の博物館をあきらめて海岸へと降りてきた。
海岸から古い塔がみえたが、あれはイスラームの侵略を防ぐための見張りの塔である。当時イスラームのことをサラセンと呼んでいた。
海岸では寒いのに海水浴をしている人達がいた。
海岸に面した市庁舎の建物の壁には共和国時代のアマルフィを描いたタイル画があった。
海岸の広場には羅針盤の発明者だといられているフラビア・ジョイアの像が置かれていた。
さらに海岸広場には旧市街への入口となっているポルタマリーナ(海の門)があり、そこにも海の覇者として活躍したアマルフィ共和国時代の地中海の地図を描いたタイル画があった。
私たちは午後5時に集合しバスで再びナポリへと向かった。バスは午後7時頃にはナポリの町に入ったが、ナポリの町で救急車を見かけた。救急車にはヘビのマークがついていたが、添乗員さんの話によると、ポンペイの遺跡にも医者はヘビのマークがついていると。ナポリには多数の売春宿があり、その横にはヘビのマークのついた部屋があった。当時は文字を読めない人が多いので絵で何の商売かをあらわしたとのことである。
私たちはレストランでの夕食後、ホテルに戻ったのは午後8時30分であった。明日はいよいよポンペイの見学であり楽しみだ。