イタリア旅行記23 (フィレンツェ③)
作者は国際ゴシック様式を代表する画家の一人で、イタリア絵画の伝統と、細密な写実表現を特色とする北方絵画の影響を受けた作品を残した。この作品は、メディチ家のライバルの大富豪バッラ・ストロッツィがサンタ・トリニタ教会の礼拝堂を飾るためにこの豪勢な絵を依頼したものである。
部屋を出て、廊下に出ると廊下の窓からアルノ川やドゥオーモのクーポラさらにヴェッキオ橋やフィレンツェの町並みが見えた。
第10~14室はボッティチェッリの部屋であった。ここには世界的に有名な「ヴィーナス誕生」や「春」などの作品が展示されていた。
ボッティチェッリは、初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家である。
「ボッティチェッリはこの作品を描くにあたって、古代の作家ホメロスとヴィルジニア、さらに彼の友人で詩人のポリッツィアーノの詩作からインスピレーションを受けており、キュテラ島からキプロス島にたどりつく神話の女神の別のエピソードを表現したものである」とガイドブックに書かれてある。
「この難解な寓意画はルクレツィオとオヴィディオの古典著作とポリッツィアーノの詩作の花で飾られた三美神とフローラを追いかけるゼフュロスのいる庭園の様子を叙述した詩編からとられた。」とガイドブックに書かれてある。
第35室は「ミケランジェロとフィレンツェ絵画」の部屋であった。ここにはミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者ヨハネ」の作品があった。
この作品は、「フィレンツェに現存するミケランジェロの唯一の絵で、壁画以外に彼が描いたと断定できる唯一の持ち運び可能な作品であるとされている。当作品はフィレンツェの商人アニョロ・ドーニと妻のマッダレーナのために、娘マリアの誕生の際に描かれたらしい。
第65室は「ブロズィーノとメディチ家」の部屋であった。ここにはブロズィーノの作品「エレオノーラ・トレドと息子ジョヴァンニの肖像」があった。
「この肖像画には、メディチ家のコジモ1世の妻エレオノーラ・トレドが第二子のジョヴァンニと共に描かれている。豊穣をシンボルとするザクロの模様が衣装を飾り、高く評価されていた母親の役割を暗示している。また、メディチ宮廷の肖像画家として活躍したブロズィーノによるヴェッキオ宮殿内の彼女の礼拝堂の天井のフレスコ画にもザクロのモチーフが見られる。」と書かれている。
第66室はラッファエッロの部屋であった。ここには有名な作品「ヒワの聖母」があった。
この作品は「商人ロレンツォ・ナージの発注で、サンドラ・カニジャーニとの婚礼の際に描かれたものであるが、1547年に邸宅が崩壊し、板絵は損傷を受けた。1504年の末からフィレンツェに滞在した若きラッファエッロは、レオナルド風の背景をバックに、前面中央に人物グループをすえた構図に初めて取り組んだ。聖母は本を手にして座っており、その膝のあいだに立つ息子イエスは幼い洗礼者聖ヨハネが手に持っているヒワ鳥をなでている。」と書かれている。
この部屋には「教皇レオ10世と枢機卿のジュリオ・デ・メディチとルイジ・デ・ロッシ」という作品があった。
「レオ10世の肖像画は1518年にローマからフィレンツェに運ばれた。近年の修復の結果、ラッファエッロではない別の画家が二人の枢機卿の姿を後に描き加えたのではないかという仮説が立てられている。」と書かれている。
第90室はカラヴァッジョの部屋であった。ここには「メドゥーサ」という作品があった。
カラヴァッジョはバロック期のイタリア人の画家で、その作品に見られる肉体面、精神面ともに人間本来の姿を写実的に描く手法と、光と陰の印象的な表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えた。しかし、彼の私生活は波瀾万丈で、暴れて拘置所に何回も送られたり、喧嘩で人を殺したりして、ローマ教皇から死刑の宣告を受けるほどの人物であった。
メドゥーサとはギリシア神話に登場するゴルゴーン(恐ろしいもの)3姉妹の三女にあたり、女支配者という意味である。この作品は、「ローマにいた呪われた画家カラヴァッジョが後援者デル・モンテ枢機卿からの注文でメディチ家の大公フェルディナへの寄贈品として制作した作品である。この凸状円形の小盾は1601年にペルシアのシャーから大公に贈られた近東製の鎧の片腕に付けられて、1631年にメディチ家の武器庫に展示された。」と書かれている。