フランス革命をどう教えるか⑥

5)共和政の成立
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(資料7)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① (資料7)で処刑されているのは誰ですか。
問② なぜ処刑されたのですか。
問③ 彼の処刑によってフランスの政治はどのようにかわりましたか。
問④ 彼は処刑されるべきであったと思いますか。
問⑤ 彼の処刑の歴史的意味について考えよう。
(解説)小林氏の前掲書によると、国民公会では約400名の平原派がいて議場の真ん中に座っており、それをはさんでジロンド派が右にそして左にジャコバン派が座っていた。それぞれ約150名から200名ほどにまとまって座っていた。保守派を右派、革新派を左派と呼ぶのはここからきている。ジャコバン派というのはジャコバン=クラブからきた呼び名で、ジャコバン派の最も急進的な一派は議場の高い位置に席を占めていたので、山岳派(モンタニャール)ともいわれるが、この山岳派をさしてジャコバン派と呼ぶことも多い。このような党派は現在のような政党ではなく、分類不可能な行動をとる者もいた。
6)ジャコバン派の独裁
(解説)
遅塚氏の前掲書によると、国民公会では、はじめジロンド派が平原派を取り込んで優勢であったが、93年1月に国王の裁判に際して、即時処刑を主張する山岳派が優勢となった。さらに、同年春、イギリスが第1回対仏大同盟による戦局の悪化と反革命派の内乱の激化という、内外の深刻な危機を前にして、山岳派はパリの民衆を動員して議会に圧力をかけ、ジロンド派の主要な議員を議会から追放し、ジャコバン派独裁と呼ばれる政治状況が生まれた。しかし、小林氏の前掲書によると、ジロンド派追放の焦点となったのは、累進強制公債であった。累進強制公債は「革命税」と呼ばれ、臨時的な強制借りあげで集めた資金を、ヨーロッパ全体を相手とする戦争のための軍事費と、どん底に落ちた下層民の生活救済に使うものであった。これに対してジロンド派が徹底的に反対し、国民公会の議決に破れると、徹底的に反抗し、それに対する反撃として、山岳派、ジャコバンクラブが、その他の過激派の勢力と手を組み、パリの武装市民を動員して国民公会を包囲した。その圧力によって、ジロンド派追放を国民公会に決議させたのであると指摘している。『理解しやすい 世界史B』によると、ジロンド派を追放したのち、「ロベスピエールを中心にマラー・ダントン・エベールらを指導者とする、ジャコバン派の独裁がはじまった」とあり、次に「ジャコバン派は、強力な独裁体制を樹立するために、いっさいの権力を公安委員会に集中した。警察機関として保安委員会を設け、さらに革命裁判所を設置して、政敵や反革命の容疑者を容赦なく弾圧・処刑し、いわゆる恐怖政治を現出した。恐怖政治は、革命裁判所による治安維持だけでなく、きびしい経済統制をもふくむ、一種の戦時非常態勢であった。」とある。しかし、小林氏前掲書によると、「いわゆるジャコバン派の独裁はなかった」と主張する。「たしかに、公安委員会は、臨時行政会議と称する事実上の内閣を監視し、指導して、強力な権力を発動した。しかし、保安委員会は公安委員会から独立していて、警察権力を発動した。今日の言葉でいうならば、警察権力を内閣から除外したことになる。これではたして独裁といえるかどうか。…財政委員会は、当時実質的な大蔵省であり、国家財政の収入支出はすべてここを通して行なわれた。公安委員会にまかされた資金は、取るに足らない額であった。したがって個人や企業との契約にたいして、国家の資金を支払うかどうかの決定は、公安委員会の権限にあったのではなくて、財政委員会の権限にあった。…しかも、この財政委員会は、ジャコバン派の指導権のもとに入ったことがなかったのである。…このようにみてくると、どこに独裁があったのか疑わしくなる。事実は、公安、保安、財政の三委員会の権力であった。三つの権力機関の存在と独裁という言葉とは矛盾する。…この時期の権力の性格を正確に表現すると、ジャコバン派と、平原派の連合政権と定義できる。」と指摘している。しかし、遅塚氏の前掲書によると、公安委員会が国家権力の中枢機関として「革命政府」を指導し、憲法で保障される基本的な人権や三権分立は、一時棚上げされた。と指摘しており、やはり独裁政治は行われていたと考えられる.
7)93年憲法の制定と革命政策の実施
(解説)
 国民公会は、ジロンド派を追放した後の93年6月に、93年憲法を制定した。この憲法は遅塚氏によると、成人男子の直接普通選挙が実現され、人権宣言の「人間は権利において平等である」との理念がやっと実現されたこと。さらに93年憲法は人民の蜂起(反乱)の権利つまり抵抗権を承認したことにより、直接民主制を認めたものであること。さらに現在でいう生存権を認め今日の福祉国家の理念を先取りしたものであったと指摘している。93年憲法は平和の到来までその実施が延期され、94年のテルミドール反動でついに実施されないまま終わった。しかし、この憲法と草の根のデモクラシーと言える新しい政治文化が、全国的に広がり、その後のフランスに重要な遺産として残った。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1871年のパリ・コミューンに継承されたと遅塚氏は指摘する。
 『理解しやすい 世界史B』によると、ジャコバン派独裁のもとで行われた政策として、①封建的地代の無償廃止、②自作農の創設(国外に逃亡した亡命貴族や教会の土地・財産を没収、それを分割売却して自作農の成立を促した。)③その他として、革命暦の制定・メートル法の採用・最高価格令による経済統制・徴兵制による近代的国民軍の編成・キリスト教を排斥して理性崇拝の宗教の創設・普通教育の開始、などをおこなったとしている。しかし、封建的地代の無償廃止は、小林氏や遅塚氏も述べているように、1792年のジロンド派政府によって提出されたものを再度確認したものである。私は今までこの政策はジャコバン派によって初めて提出されたものであると思っていた。そして、これによって農民が土地を手に入れて小土地所有者となったものと思いこんでいた。しかし実際は、貢租(年貢)の支払いが廃止されただけで、小作農や貧農は自分の土地を獲得できなかった。また、小林氏によると、「国有財産の売却は、ほんのわずかの小土地所有農民の形成を実現しただけで、あとは大土地所有、あるいは中規模所有を再生したに過ぎない。」そして小林氏によれば、フランス革命によって小土地所有農民は形成されなかったのであると指摘している。
4 革命の終結
1)恐怖政治
 (解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「1973年の後半には、①戦局の悪化、②マラー暗殺後の急進派エベールと穏健派ダントンとの対立、アシニア紙幣の乱発によるインフレーションの激化など、共和国は危機に陥り、ロベスピエールは、ダントン・エベールらの政敵を処刑、独裁化をすすめた。」とある。しかし、小林氏の前掲書によれば、「エベール派が…国民公会全体にたいする反乱を宣言し、武装蜂起を呼びかけた。この運動は国民公会の平原派もジャコバン派も含めて、もろともに打倒しようというものであり、ロベスピエールも公安委員会全体も打倒すべき目標とされた。…エベール派の反乱は成功せず、3月21日エベールとエベール派の指導者が逮捕され、…処刑された。」また、「公安委員会と保安委員会によると、ダントン派議員が腐敗議員の集合体であり、その頂点にダントンがいるという認識であった。」とし、ダントンの逮捕に対してロベスピエールはむしろためらったために逮捕令が遅れたと指摘し、「ロベスピエールがダントンらの政敵を粛正したと書いて、それをロベスピエール個人の行為であるかのようにいう表現は正しくない…」そして、当時ダントン派議員は権力の中枢にいなかったので彼らを粛正してみても、独裁の強化にはつながらなかった」と主張する。確かに恐怖政治をロベスピエール個人の責任にすることはできないが、この頃に恐怖政治が行われたことは間違いない。遅塚氏の前掲書によると、93年3月から94年8月までに、各地の革命裁判所で処刑された者は合計1万6594人で、その他に裁判なしで処刑されたり獄死した者を加えると、恐怖政治の犠牲者の総数は、3万5千から4万人に達すると指摘している。
2)テルミドールのクーデター
(解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「恐怖政治への不満が高まり、農民のなかにも、保守化し、革命の進展を望まぬ者もふえた。」とある。しかし、小林氏や遅塚氏よれば、94年の春、共和国軍の勝利によって内外の反革命派の脅威が薄らいだので独裁や恐怖政治をつづける必要がなくなったことをあげている。また、農民が土地を手に入れてこれ以上の革命を望まず保守化したことについても、農民は土地を手に入れることができなかったとして農民の保守化も小林氏は批判している。それではロベスピエール派の失脚の要因は何か、小林氏によると、ヴァントーズ法(反革命容疑者の財産を無料で貧民に分け与える)を実行に移そうとしたことが、国民公会の中で孤立し、山岳派の多数をも敵にまわしてしまったことが原因であると指摘する。
このような理由で1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ロベスピエールは反対派に捕らえられ、翌日処刑され、革命の急進的発展と恐怖政治は終わった。
5 フランス革命の歴史的意義
① 啓蒙思想で主張された自由・平等などの人権を求めて民衆がブルジョワとともに闘いに参加して「フランス人権宣言」や実施はされなかったが「93年憲法」が制定されたことは、フランスだけでなく世界に大きな影響を与え、その理念は今の国連憲章や日本国憲法の中に生きていること。
② フランス革命は、普通教育の普及、度量衡にメートル法の採用、徴兵制などにより、フランス人としての意識を高め、国民国家を推し進めた。しかし、一方で革命戦争は、従来の絶対君主による戦争とは異なり、国民戦争の性格をもつようになった。
③ フランス革命と明治維新との違い
 フランス革命は封建的な体制を倒す市民革命(ブルジョワ革命)であり、明治維新も幕藩体制という封建的な体制を倒す点では一致していた。しかし、根本的に違うのは、フランス革命は自由・平等などの人権を求めた闘いであったこと。そのような闘いであったことにより民衆も参加したのである。しかし、明治維新には自由・平等などの人権を求めた闘いでは全くなかったこと。そもそも維新を起こした下級武士の中にはそのような思想はなかった。明治維新の思想的な影響を与えた吉田松陰や橋本左内にも人権思想はなかった。むしろ維新によって生まれた明治政府は、日本で初めて人権思想をとなえた自由民権運動を武力で弾圧した。その結果、日本人には人権意識が弱く、本当の意味で民主主義が定着するのは第二次世界大戦後のことであると私は考える。
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by YAMATAKE1949 | 2015-12-29 10:24 | 授業実践 | Comments(0)