ウィーン体制をどう教えるか②

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(資料②)(「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」より)
問① 地図を見て、ウィーン会議後、領土を拡大したのはどのような国々だと考えられるか。
問② ナポレオン戦争前にはあったが、ウィーン会議後復活しなかった国はどこか。
問③ この地図から、ウィーン体制とはどのような性格を持っていたかを考えよう。
(解説)
 問①は、戦勝国の領土が拡大されたことである。さらにウィーン議定書によれば、ロシアはワルシャワ公国の大部分を併合してポーランド王国をつくり、ロシア皇帝が王位を兼ねる。さらにフィンランドを併合する。プロイセンはザクセンの北部・ラインラント・ワルシャワ公国の一部を得る。オランダはオーストリア領南ネーデルラントを併合し、ネーデルラント王国と称する。オーストリアは南ネーデルラントを放棄するかわりに、ヴェネツィア・ロンバルディアを得る。イギリスはケープ植民地・セイロン島・マルタ島を得る。問②は、神聖ローマ帝国で、ドイツではオーストリア・プロイセンをふくむ35の諸邦国と4つの自由市とが集まって、ドイツ連邦を形成する。問③は、ヨーロッパの列強が民族解放運動を押さえ込んで領土を拡大し、列強間の勢力均衡と平和主義を基調とするもので、革命運動や民族解放運動を押さえ込む保守反動的な体制である。
 ウィーン体制について、斉藤孝氏は「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」のなかで、「正統主義を原則とするウィーン体制も、神聖ローマ帝国をもはや再現することなく、フランスの復古王政が市民社会の理念をも含む憲法をもつことを認め、また、ヨーロッパの領土的処理においても現実的利害に基づく顧慮を優先させていたのであった。そのような意味ではウィーン体制は単純な復古そのものではなかった。」と指摘する。
2 ウィーン体制の維持
問 ウィーン体制を維持するために作られた組織を二つあげなさい。またそれは、それぞれどのような組織だったのか調べてみよう。
(解説)
 ウィーン体制は、革命の方向に逆行する、復古主義的な国際政治体制であった。これを維持していくには、各国の指導者が協調をはかって、諸国内に台頭しつつある自由主義運動を抑圧しなければならなかった。ウィーン体制の指導者メッテルニヒは、神聖同盟と四国同盟を利用して、体制の維持をはかった。
 神聖同盟は、1815年9月、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で成立したが、それはキリスト教の正義・友愛の精神をもって、列国君主が強調し、平和の維持をはかろうとするものである。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国以外の全ヨーロッパの君主が参加した、保守的な国際協調精神のあらわれといえる。
 四国同盟は、1815年11月、メッテルニヒの提唱により、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの4か国の間で成立したが、1818年にはフランスもこれに加盟し五国同盟となった。これは、ヨーロッパの現状維持とウィーン体制の擁護を目的とし、自由主義・国民主義運動を抑圧した。
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by YAMATAKE1949 | 2015-12-31 09:20 | 授業実践 | Comments(0)