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第33回日本史講座まとめ③ (キリシタン禁制)

5 キリシタン禁制
1) キリシタン禁制
 家康は、はじめは貿易による利益を重視し、貿易と布教活動とを一体とするポルトガルやスペインのキリスト教宣教師の活動を黙認していた。その結果、1610年頃にはキリシタン信者の数は70万人に達しており、家臣のなかにも信者がいることを知った家康は、1612年、天領にキリスト教の信仰を禁じる禁教令を出し、翌1613年にはこれを全国に広げた。
 禁教令を出した背景には、神の教えを絶対とし、その掟にはずれることは、たとえ支配者の命令でも従わないというキリシタンの強い信仰と団結とは、封建支配者にとって重大な脅威であった。また、遅れてやって来たオランダ人が敵対するスペインやポルトガルに領土的野心があると幕府に中傷したことも、禁教令を出す要因となった。 
2) 元和の大殉教
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 禁教令により、教会の破壊・信徒の改宗を強行し、それに従わなかった高山右近ら140余名を、翌年マニラやマカオに追放するという措置をとった。
 偶然にも日本史講座の行われた2016年1月23日の朝日新聞に、前日の22日に高山右近がローマ教会によって福者(ふくしゃ)と認定されたという記事が載っていた。福者というのはカトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号である。高山右近は摂津高槻の城主で、父の影響を受けてキリシタンシン大名となったが、禁教令により大名の地位を捨てて信仰を守り、マニラで病死した人物である。
 2代将軍徳川秀忠もこの方針を受けつぎ、1622年には55人に及ぶ宣教師・信者を長崎で処刑したが、これを元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)と呼ぶ。この処刑は火刑25名で斬首30名であり、4歳の子どもまで殺された。この殉教者たちは1868年、ローマ教皇ピウス9世によって福者と認定された。
by YAMATAKE1949 | 2016-01-26 09:53 | 日本史講座