第36回日本史講座まとめ③ (江戸時代の国際関係)
1) 中国の変動
中国では李自成の乱によって明朝が滅亡すると、中国東北地方(満州)に建国したしていた女真族の清が乱に乗じて中国に進出し、北京を都として中国を統一した。明に好意的であった幕府は清との対立をさけ、国内体制を整備するとともに、沿岸防備や貿易の管理・対外関係の制限を厳しくした。
2) 四つの窓口
鎖国成立以降の日本と外国や他民族とのつながりは、オランダ・中国と貿易だけを行う長崎口と、朝鮮との対馬口、琉球との薩摩口、蝦夷地との松前口の4か所になった。幕府は長崎だけを直轄支配したが、それ以外は朝鮮や琉球・アイヌとつながりの深かった宗(そう)、島津、松前の各外様大名に支配させた。
3) 長崎貿易
長崎のオランダ人は、長崎奉行に監視されながら、狭い出島で不自由な取り引きと生活を強いられたが、アジア各地のオランダ商館と比べて治安がよく、貿易額も圧倒的に多かった。また、長崎町内に雑居していた中国人も、1688年、漢訳のキリスト教関係の書籍の流入など密貿易を恐れる幕府によって、唐人屋敷に移されるようになったが、貿易はいぜん活発で、オランダをしのぐほどの貿易額となった。
4) 朝鮮との関係
日朝貿易は、己酉約条(きゆうやくじょう)に基づいて、釜山の倭館(わかん)に常駐する宗氏の家臣をとおして、朝鮮から米や木綿・朝鮮人参が、対馬(日本)からは東南アジアの胡椒や薬剤・染料の蘇木(そぼく)・銅・錫などが交易された。また朝鮮からは、将軍の代替わりを祝う朝鮮通信使が1607年から1811年の間に12回来日したが、使節団一行は、彼らから大陸の学術情報を得ようとする日本の人々に歓迎された。