ベネルクス3国旅行記3 (ハーグ②)

 現地ガイドの中川さんによると、都市ハーグの人口は約50万人で、毎年2~3万人増加しているとのことである。しかし、ネットで調べてみると2008年の統計では約48万人となっており、8年前から2万人増えたに過ぎない。最近では不法滞在者や難民が増えており、都市人口が増加していることは間違いないであろう。
 私たちはビネンホフの近くにあるマウリッツハイス美術館へと歩いた。
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(マウリッツハイス美術館)
 マウリッツハイス美術館の前には近代的なエレベーターがあった。
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(マウリッツハイス美術館の前のエレベーター)
 マウリッツハウスは17世紀半ば、ヤーコプ・ファン・カンペンの設計で建てられたもので、オランダ古典様式建築の代表作とされている。この建物はオランダ領ブラジルの総督であったヨハン・マウリッツ伯爵の私邸であったが、19世紀にオランダ国王は王室の絵画などを収蔵するためにこの建物を買い取り、現在は王立美術館となっている。
 この美術館は、17世紀オランダ・フランドル絵画の名作が収められている。おもなコレクションは、フェルメール、レンブラント、ルーベンス、ファンアイク、ヤン・ステーンなどの作品である。私はここで日本語版の『マウリッツハイス』というガイドブックを購入したので、以後の絵画の解説はおもにガイドブックと作品の解説がないものはネットを使っている。
 現地ガイドの中川さんの案内により、最初に鑑賞した作品はヨハネス・フェルメールの『ディアナとニンフたち』である。
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(ディアナとニンフたち)
 ガイドブックにはこの作品に対する解説がないのでネットを参考にする。この作品は、1655から1656年頃にキャンパスで油彩で描かれたフェルメールの最初期の作品ではないかとされている。ディアナとはローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神であり、ニンフとはギリシア神話の精霊のことである。女神ディアナの、神話でよく知られているドラマティックなエピソードを描いているのではなく、女性とその侍女が身づくろいをしているような静謐な印象を与える作品である。このような、女性の静謐な個人的な瞬間を切り取ったように見える作風は、年を経るにつれてフェルメールの作品に色濃く表れるようになっていった。
 次の作品はフェルメールで最も有名な『真珠の耳飾りの少女』である。
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(真珠の耳飾りの少女)
 ガイドブックには、「耳にかけた真珠と同じように目を輝かせ、口を半分開けたこの若い女性は誰であろうか。ある作家はフェルメールの娘の一人であると言い、・・・下女フリートであると考えている。白絵具の点が印象的な立体感を与える真珠については、象徴的重要性を見出すものが多いが、美徳の寓意であろうか、それとも逆に淫欲であろうか。実際はこのタブローは肖像画ではなく、空想上の姿「トロニー」(顔)を描いている。この様式は、1630年頃レンブラントのアトリエで出現した。肖像画と歴史画の間のこれら習作は、異国風の豪華な服を着たモデルが想像上の東洋を想起していると言われることが多い。フェルメールのすべての技量が、一筆一筆をじっくり熟慮したようなこのカンヴァス画に集中している。地味で抽象的な背景とともに描かれたモデルはカンヴァスの右側にやや寄っており、内面から輝きを放っているような顔を際立たせている。」と書かれている。
 次もフェルメールの作品で『デルフトの眺望』である。
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『デルフトの眺望』
 フェルメールが制作した作品は35点しか残されておらず、その中でも風景画は特に少ない。ネットによると「この風景画はフェルメールが生まれて生涯を過ごしたデルフトの街並みを描いた風景画であるが、街の前景に影を、後景に光を当てる光彩描写や、理想的な美しさを求め現実の街の姿を変革し描いた表現は、同時代に制作された風景画の中でも特筆に値する出来栄えを示している。画面中央の石橋の左右に配されるスヒーダム門(時計塔)、ロッテルダム門は本来この視点からだと平行に見えるはずであるが、構図的により調和性を求めたフェルメールは、右側のロッテルダム門を外側を向くように再構成している。また17世紀当時デルフトの象徴であり同地の英雄オラニエ公ウィリアムが埋葬された新教会は、朝日に照らされ画面内で最も輝きを放っている。本作は描かれた16世紀当時から評価が高く、1696年におこなわれた画家作品の競売では最高価格200ギルダーで、1822年にマウリッツハイス美術館が購入した際には2900ギルダーの値がつけられたことが資料に残されている。」と書かれている。
 次に案内されたのはレンブラントの部屋で、最初に鑑賞した作品はレンブラントの出世作となった『トゥルプ博士の解剖学講義』である。
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(トゥルプ博士の解剖学講義)
 ガイドブックによると、「レンブラントがこの作品を完成させたのは1632年のことである。画家人生初期に受けた大きな注文であり、生まれ故郷ライデンを離れる理由のひとつになった。解剖実演のために組合が毎年集まるウァーグの広間にはすでに、1603年、1619年、1625年の集団肖像画が3点かかっていた。レンブラントはそれら作品を知っていたので、指揮する外科医を主要な位置に置きながらもすべての参加者に光を当てなければならないなど、芸術的自由を抑圧する流儀の制約事項を理解していた。黒い帽子を被ったニコラス・トゥルプは、場面の右に君臨する。レンブラントは一番奥に立つ外科医フランス・ファン・ルーネンの帽子の描写は放棄し、修正痕で隠した。一方、土壇場で参加したヤコプ・コルフェルトを左に加えた。ハルトマン・ハルトマンズは参加者名簿を持っているが、名簿の名前は後に別人が加筆した。リストには記されていないが、死者の名前はアーリス・キントという1632年に絞首刑に処せられた累犯者で、解剖学研究用に組合に亡骸が渡された。レンブラントはこの肖像画を、描写されることを誇りに思う著名人を併置する以上の作品にした。力強い構図は、動かない死者の手、解剖している外科医の右手、説明している左の手と3本の手を象徴的に中央に集めている。外科医たちの注意は、ソクラテスの言葉「汝、自身を知れ」を例証するようなこの魔法の三角形に注がれている。」と書かれている。
 次にレンブラントの「自画像」を鑑賞した。
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(肖像画)
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(肖像画)
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(肖像画)
 ガイドブックによると、「レンブラントが署名し日付を記した最後の自画像。オランダ黄金時代の最も偉大な画家は1669年10月4日に63歳で没した。当時、この年齢まで生きる人々はまれであった。最初の妻サスキア・ファン・オイレンブルフは29歳で亡くなり、事実上の後妻ヘンドリッキェ・ストッフェルスは37歳で、一人息子ティトゥスは27歳になる前に天に召された。愛する者たちの死や、自分の芸術所蔵品を売ったあげく1656年に破産するなど1655年から1656年の金銭的困窮を経ても、レンブラントはエネルギーを失うことなく、晩年においてもアムステルダムで始めた画家活動の初期同様、盛んに制作に励んだ。現在ロンドンにあるレンブラントのもう一点の自画像に1669年と記されているのが見つかった。ラジオグラフィーで明らかになった粗描は、手にパンフレットと筆を持った制作中の本人を表している。髪がやや短く顔は丸いため、デン・ハーグで描いた自画像のほうが後と思われる。従ってマウリッツハイス所蔵のカンヴァス画は、レンブラントの最後の自画像となる。彼は自らを疲弊した姿で描くことが多かったとされるが、常にエネルギーに満ち生き生きとしたそのまなざしはレンブラントが残した多数の自画像ように鑑賞者の胸を打つ。」と書かれている。
 
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by YAMATAKE1949 | 2016-04-26 12:17 | 旅行記 | Comments(1)
Commented by desire_san at 2016-05-08 12:16
こんにちは。
私もオランダ~ベルギー~ルクセンブルグを旅してきましたので美しい写真と旅行記を思い出しながら懐かしく拝見しています。マウリッツハイス美術館は私も行きました。フェルメールの「7デルフトの眺望」とレンブラントの(トゥルプ博士の解剖学講義)が特に印象に残りました。

私はレンブラントの最高傑作『夜警』を一度見ておきたくアムステルダム国立美術館に行ってきました。期待していた以上にすばらしい作品で魅了されました。この『夜警』を見てレンブラント感が一新し改めてレンブランドの絵画の魅力についてまとめてみました、読んでくださると
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