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ベネルクス3国旅行記35 (アムステルダム観光⑤)

 私たち夫婦はペギン会修道院の前の道を通ってアムステルダム大学へと歩いた。
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(アムステルダム大学)
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(アムステルダム大学)
 この大学は1632年に教会所属として設立された。初期の学生数は6人で、講義は教授の自宅でおこなわれることも多かったといわれる。17世紀後半には、哲学のほかに、法学、医学、宗教学が追加された。
 私たち夫婦はさらにアムステルダムの散策を続けた。
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(運河の街並み)
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(小さな跳ね橋)
運河の向こうに南教会の塔が見えた。
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(塔が見える運河)
 南教会は1611年に建てられたアムステルダム最初のプロテスタントの教会である。当時、随一の建築家で彫刻家であったヘンドリック・ケイセルの作である。すぐ近くに住んでいたレンブラントも、この教会の塔が跳ね橋の向こうにのぞく美しい絵を残している。また、『夜警』は、この教会の中で描かれた。とガイドブックに書かれている。
 しばらく歩くとスピノザの像が見えた。
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(スピノザの像)
 スピノザは17世紀のオランダの哲学者で、デカルトやライプニッツと並ぶ合理主義哲学者と知られている。彼はアムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれたが、両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れ、オランダに移住してきた人達であった。
 私たち夫婦はアムステル川が見える場所へとやって来た。
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(アムステル川)
 再びマヘレの跳ね橋が見えた。
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(マヘレの跳ね橋が見える)
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(マヘレの跳ね橋)
 私たち夫婦はアムステルダムミュージックシアターの前を歩いた。
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(ミュージックシアター)
 観光局によるとこのミュージックシアターは「アムステルダムでも最高級の文化スポットと言えるでしょう。オランダ・ナショナルバレエ団と、『ザ・ネザーランド・オペラ』の本拠地ですが、世界各国のアーティストやカンパニーの上演もあります。」と書かれている。
 次に私たち夫婦はユダヤ歴史博物館の前へとやって来た。
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(ユダヤ歴史博物館)
 観光局によると、「アムステルダムは、早くも16世紀の初頭以来、大勢のユダヤ人の故郷となっています。当時多くのユダヤ人がスペインやポルトガルの宗教裁判から避難してきました。ユダヤ人の入植地にあるユダヤ歴史博物館では、ユダヤ人の信仰と歴史について語られています。」と書かれている。
 次に私たち夫婦はレンブラントの家へと歩いた。
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(レンブラントの家)
 ガイドブックによると、「レンブラントが1639年の33歳の時から、20年後に破産して人に売り渡すまで住んでいた所。」と書かれている。
 さらに私たち夫婦は涙の塔へと歩いた。
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(涙の塔)
 ガイドブックによると、「1480年に建てられたこの塔は当時アムステルダム港の突端にあり、これから危険な航海に出る男たちを見送って女たちが涙を流したといわれている。」と書かれている。
 涙の塔の近くにはアムステルダム中央駅があり、私たちのフリータイムもここで終わった。
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(中央駅)
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(中央駅)
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(中央駅)
 中央駅から聖ニコラス教会がきれいに見えた。
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(聖ニコラス教会)
 私たちは午後8時30分に集合し、バスでホテルへと戻った。
 翌日は午前10時45分にホテルを出発し空港へと向かった。午後1時50分の関空行きの直行便に乗り、約11時間のフライトで、関空に着いたのは翌日の午前8時30分であった。
 「ベネルクス3国旅行記」もいよいよこれで終わりですが、最後に簡単な感想を書きます。
 ベネルクスは、ベルギーとネーデルランド(オランダは俗称)とルクセンブルクを合わせた言葉で、言葉や宗教も違うが、それぞれ同じような歴史をたどったよく似た国々である。思った以上に歴史的な文化遺産が残されており、きれいな街を散策するだけでも大変楽しかった。今回はさらにいくつもの美術館に案内されて素晴らしい絵画を鑑賞できた。さらにこの時期だけにしか見られない美しい花園を、天気のよい日に見学できたことは本当に幸運であった。また、現地ガイドさんや添乗員さんの話の中で、この国のシステムのすばらしさには感心した。特に福祉や教育が進んでおり、医療や教育費は一切無料である。また、ベネルクスの大学は受験がない。誰でも大学にはいることができるし年齢制限もない。しかし、日本の大学とは違い、勉強しなければ進級できない。1週間に1度落とすためのテストがあり、簡単に卒業できない。
 また、労働者の権利が非常に認められており、バスの運転手さんの労働時間も保障され、バスのエンジンが動けば自動的にタコメーターが作動する。そのため必ず休憩をとらなければならないシステムになっている。もちろん安全性の確保というねらいもあるが、労働者の権利を確保することに重点がかかっている。もし違反すれば経営者に信じられないような罰金が課せられる。日本では利益追求が優先され、労働者の権利は守られず、スキーバスで多くの若者が生命を失うという悲惨な事故をおこしている。
 ヨーロッパ旅行でいつも思うことは、ヨーロッパでは建康で文化的にいかに快適に生活するかを優先的に考えているのに対して、日本では企業の利益を第一に考えている。若者は残業で身体をすり減らしているが、果たして日本は文化的に本当に先進国と言えるのか疑問である。
 さて、いよいよ旅行記も終わりです。長い間ブログを読んでいただいて、ダンキュウ(ありがとう)(オランダ語)、それでは皆さんトット・ツィーンス(さようなら)(オランダ語)
 
by YAMATAKE1949 | 2016-06-04 11:45 | 旅行記