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第42回日本史講座のまとめ② (江戸町人の文化①)

 Ⅲ 江戸町人の文化
1 文人趣味と新しい学問・思想の形成
1) 儒学
 儒学では、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞(こぶんじ)学派が大きな影響を与えた。荻生徂徠は聖人の道は経世済民の人為的な道であるとして、この確立を将軍に期待した。彼が吉宗に奉った「政談」は、封建社会が商業資本によって食い荒らされたことを論じ、強い復古主義を唱え、武士の帰農と町人の利殖抑制を説いた。しかし、現実の商業資本の発達はとうてい抑えることはできず、徂徠の継承者太宰春台は、「経済録」において、諸藩は積極的に経済活動を行うべきだという政策論を提言した。しかし春台ののち、経世学としての発展性はなく、服部南郭(なんかく)を中心とする詩文鑑賞に重きを置く派がこの学派の主流となっていった。
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(東京書籍「日本史図説」より)
2) 国学
 儒学がしだいに形式化していったのに対し、歌学の革新からはじまった日本の古典研究は、しだいに文学趣味から脱して復古主義的思想の学、国学として体系をととのえはじめた。その立場をはじめて明らかにしたのは京都の神官荷田春満(かだのあずままろ)であった。彼は「古事記」や「日本書紀」の研究を通じて神道思想を取り入れた復古主義を唱えた。ついで、遠江(静岡県)の神官賀茂真淵(かものまぶち)は、「万葉集」の研究を中心として、儒教や仏教などの外来思想が伝来する前の上代人の精神にたちもどることを説いた。国学の大成者は伊勢松阪の商家に生まれ、医者を生業とした本居宣長である。彼は「万葉集」「古今和歌集」「源氏物語」などの古典研究を大成するとともに、34年間をかけて大作「古事記伝」を69歳にして完成させた。宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。71歳で亡くなる10日前まで患者の治療にあたっていたことが記録されている。宣長は、「古事記」をはじめとする古典にみられる「真心(まごころ)」に人間の真情を求め、古代日本の精神に立ち返ることを主張した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 蘭学
 一方、漢訳洋書(かんやくようしょ)の輸入制限がゆるめられると、西洋の知識や学問への関心が高まり、医者やオランダ通詞(つうじ)らを中心に蘭学が発展した。医師の前野良沢(りょうたく)や杉田玄白(げんぱく)らは、人体解剖に立ち会って西洋の解剖書どおりに人間の体が成り立っていることに驚き、1774年にオランダ語訳のドイツの解剖書『ターへル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を完成させ、西洋医学を摂取する道が開かれた。杉田玄白は、苦労して翻訳した『解体新書』の苦心談を『蘭学事始(らんがくことはじめ)』に著した。
 『解体新書』をきっかけに、蘭学は医学・本草学・天文学・地理学などの分野で急速な発達をみせるようになった。仙台藩医大槻玄沢(おおつきげんたく)はオランダ語の入門書『蘭学階梯(かいてい)』を著し、玄沢に学んだ稲村三伯(さんぱく)は日本初の蘭和辞書『ハルマ和解(わげ)』を完成させた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
4)自然科学
 自然科学に関する翻訳も長崎のオランダ通詞らによって行われた。本木良永(よしなが)はコペルニクスの地動説を紹介し、志筑忠雄(しづきただお)は『暦象新書(れきしょうしんしょ)を著してニュートンの物理学などを紹介した。
 本草学(ほんぞうがく)がさかんになったが、高松藩の下級武士の家に生まれた平賀源内(ひらがげんない)は本草学だけでなく、旺盛な好奇心から「エレキテル(摩擦起電機)(まさつきでんき)」を製造して人々を驚かせ、絵画や文芸にも才能を発揮した。
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(東京書籍「日本史図説」より)
by YAMATAKE1949 | 2016-06-28 08:56 | 日本史講座