第51回日本史講座のまとめ② (自由民権運動)

2 自由民権運動
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 民衆側の動き
 1874年、民撰議院設立建白書が新聞に報道されると大反響をよんだ。板垣は同年、郷里の土佐に帰り、片岡健吉、林有造らの同志を集めて立志社を結成し、自由民権思想の普及に努めた。翌年、立志社を中心に全国の民権派結社の代表が大阪に集まって愛国社を設立した。
2) 政府の懐柔(アメ)と弾圧(ムチ)の政策
 これに対して政府は1875年、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を出して言論による政府攻撃を封じる一方で、大久保利通と伊藤博文が板垣や台湾出兵に反対して参議を辞職した木戸孝允と大阪で個別に会談し、妥協案を示しながら2人の政府復帰をはかった。この合意にもとづいて政府は、漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)を公表し、立憲体制採用方針を示した。また、憲法草案を起草する元老院と、最上級の裁判所である大審院を設置して、三権分立の体裁を整えようとした。さらに政府は、地方の実情を政治に反映させるために府知事・県令からなる地方官会議を設けた。
 1876年に各地で大規模な地租改正反対一揆が起きると、翌年には地租を地価の3%から2.5%に減税して、自由民権運動の沈静化をはかった。
3) 民権運動の発展と弾圧
 1877年に立志社の片岡健吉が国会の開設・地租の引き下げ・条約改正の実現を求める建白書を政府に提出すると、豪農や都市の商工業者らの運動と結びついて、自由民権運動は全国に広がり、担い手は士族から豪農・商工業者らに移っていった。
 この動きに対して政府は、1878年に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三新法を制定し、府県会と戸長公選を決定した。1880年には国会期成同盟が組織され、翌年からは各地で私擬憲法(しぎけんぽう)という民間の憲法草案がつくられるほどになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 これに対して、政府は、1880年に集会条例を出して、政治結社の結成や演説会などを警察署の許可制にして取り締まりの強化をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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by YAMATAKE1949 | 2016-12-13 10:32 | 日本史講座 | Comments(0)