第61回日本史講座まとめ⑤(原敬内閣と普選運動のたかまり)
1 原敬内閣と普選運動のたかまり
1)原敬内閣の成立
米騒動をきっかけに、寺内内閣が倒れると、山県有朋らの元老は、軍人や官僚による政治支配の困難さを痛感し、1918年、議会多数派である政友会の総裁原敬を後継首班に指名した。原内閣は、陸軍・海軍・外務の三大臣をのぞく全閣僚が政党員で構成された本格的な政党内閣であった。国民にも好意的に受け入れられた原内閣は、外交では、軍閥の段祺瑞政権への支援を打ち切って21か条の要求で関係が悪化した中国との関係改善に努め、アメリカやイギリスと強調する姿勢を示した。内政では、元老や軍部・貴族院らと妥協しながら、軍備増強に努めるとともに、実業家や地主らの支持を広げるために、大学令の公布などの高等教育の拡充や、地方鉄道の建設、産業の奨励、港湾の整備などの、地方への利益誘導を行う積極政策を進めた。
2)普選運動の高まり
1919年、納税資格を問わない普通選挙の実施を要求する運動(普選運動)が、大都市を中心に全国でもりあがった。これに対して、原内閣は、有権者の納税資格を直接国税10円から3円に引き下げて政友会を支持する小地主や上層自作農民らの有権者を増やし、与党に有利な小選挙区制を導入して1920年の総選挙に圧勝した。
3)原内閣以降の政治
原内閣の末期、普選運動への抑圧や戦後恐慌による積極政策の挫折に加え、汚職事件がおき、国民の不満が高まるなか、1921年に原首相は暗殺された。この後、政友会の高橋是清内閣が成立したが半年余りで倒れ、さらに政友会に支持された海軍閥の加藤友三郎内閣・第2次山本権兵衛内閣がつづいた。