第54回日本史講座のまとめ①(初期議会)
5 初期議会
1) 帝国議会開設時の内閣の特徴
帝国議会の開設は、政府と政党にとって新しい共通の政治的舞台の幕開けであった。総選挙が近づくにつれ、選挙権を持つ地主ら旧民権家の活動は活発になった。
これを警戒した黒田清隆首相は、政府は政党や議会の意志には左右されないとする超然主義の立場を表明し、政党への牽制をはかった。このように帝国議会開設時の内閣の特徴は国会の議席数と関係なく内閣はつくられた。これを非政党内閣と呼ぶ。
当時の内閣総理大臣(首相)を担当したのは長州出身の伊藤博文、山県有朋、桂太郎、であり、薩摩出身の黒田清隆、松方正義などであり、このような内閣を藩閥内閣と呼んでいる。
2) 帝国議会の開催
1890年、初の総選挙が行われ、立憲自由党と立憲改進党の2党が圧勝した。
第一議会は、行政費削減・地租軽減を要求する民党と、軍備増強予算の成立をねらう第1次山県有朋内閣との間で紛糾した。日本の独立を確保するために、朝鮮半島を勢力範囲に置くことを力説する山県首相は、立憲自由党の一部を買収してかろうじて予算案を成立させた。
1891年の第2議会では民党が軍艦建造費の削減を要求したため、第1次松方正義内閣は議会を解散して対抗した。さらに政府は、1892年の総選挙で品川弥二郎内務大臣を中心に、死者25人、負傷者388人を出す強引な選挙干渉を行ったが、民党側が勝ち、松方内閣は世論の強い批判を浴びて退陣した。第4議会では、第2次伊藤内閣は、軍備増強をはかるために政府と議会は協力せよという天皇の詔勅によって、予算案を成立させた。
3) 民党の変化
1893年の第5議会以後も、予算案などで政府と民党との対立はつづくが、日本の領土を拡大して国家の独立と発展を行なおうという国権論が強まるなか、条約改正の要求が自由党を中心に重視されるようになった。