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第67回日本史講座のまとめ①(第二次世界大戦の勃発)

 第67回日本史講座は、10月28日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
2 第二次世界大戦
1)ドイツの侵略
 1930年代後半に入るとヨーロッパではドイツの対外膨張政策は一段と活発となり、これをめぐってドイツはフランス・イギリスとの間で緊張がしだいに高まった。ドイツは1938年3月にはオーストリアを併合し、さらにドイツ人が多く住むチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合に乗り出し、割譲を要求した。イギリスは、戦争を避けるとともに、反共産主義のドイツやイタリアが反ソ連に向かうことを期待して、対外膨張を黙認する融和政策をとった。1938年、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4か国はミュンヘン会談を開き、ヒトラーの要求を容認した。しかし,翌1939年、ヒトラーはミュンヘン会談の取り決めをやぶってチェコスロヴァキアを解体し保護国とした。ソ連は英仏両国に不信感をいだき、1939年にドイツと独ソ不可侵条約を結んだが、これは人民戦線のもとで戦っている人々を失望させた。
 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵入すると、イギリスとフランスは宥和政策を放棄して、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
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(三省堂「世界史B」より)
2)日本の対応とソ連との軍事衝突
 1939年、近衛内閣は日中戦争終結の見通しが見られないまま総辞職した。近衛内閣に代わり、枢密院議長で右翼団体の国本社(こくほんしゃ)を主宰する平沼騏一郎内閣が成立した。
 日本軍は徐州や武漢、広東などを占領したが、1939年末に約100万人の兵士が派遣され、戦争は長期戦となった。日本は、アメリカやイギリスなどが蒋介石に支援物資を送るための援蒋ルートで、仏印(ふついん)(フランス領インドシナ)経由のルートの遮断のために、海南島を占領するとともに、英仏が行政権・警察権をもって共同管理する天津の租界を封鎖した。このため、アメリカは1939年に日米通商航海条約の廃棄を日本に通告した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 一方、満州とモンゴルとの国境をめぐって紛争が続いていたが、1938年に張鼓峰で軍事衝突し、1939年にはソ連・モンゴル両軍と戦って近代的装備にまさるソ連軍に敗北したが、この戦争を日本ではノモンハン事件とよび、ソ連ではハルハ河戦争とよぶ。この戦争での日本の悲惨な敗北の事実は国民には知らされず、この敗戦の責任者である関東軍司令部の参謀(陸軍中佐服部卓四郎・同少佐辻政信)は、やがて東京に帰りざいた。そのうえ、彼らは、今度はアメリカとの戦いに、日本を巻き込むための、有力な開戦論者となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 独ソ不可侵条約が結ばれると、平沼首相は「複雑怪奇」として、ヨーロッパ情勢の変化を理解できずに総辞職した。かわって、陸軍大将の阿部信行内閣が成立した。第二次世界大戦が勃発すると、安倍内閣はドイツとの同盟に消極的であったため、この戦争に介入しないことを宣言した。
 

by YAMATAKE1949 | 2017-10-31 10:21 | 日本史講座