2015年 01月 13日 ( 1 )

2 延喜の国政改革と田堵の登場
1) 延喜の国政改革
 891年に藤原基経が亡くなると、宇多天皇は関白をおかず、菅原道真を蔵人頭に登用して藤原氏をおさえようとした。つぎの醍醐天皇も藤原時平を左大臣、道真を右大臣に任じて、天皇親政をすすめた。10世紀前半の醍醐天皇から村上天皇までの時期は、摂政・関白をおくことが少なく、律令政治の再建が意図された時期で、のちに延喜・天暦(てんりゃく)の治(ち)と呼ばれている。菅原道真は遣唐使の中止を進言するなど政治力を発揮したが、これに脅威を感じた藤原時平は、901年、策謀によって道真を太宰府に左遷して、藤原氏の地位を強固なものとした。菅原氏は、道真の曾祖父の時、土師氏より菅原氏に氏を改めたものであり、中流の貴族であった。道真は幼少より詩歌に才能を見せるなど優秀な人物であり、藤原氏の権力を抑えようとする宇多天皇により重責を任されたが、藤原氏により太宰府に流されその地で亡くなった。死後、道真に関わる人物に次々と異変が相次いだ。政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死。左遷させた醍醐天皇の皇子やその息子が次々と病死。宮廷に落雷があり、それにより左遷に関連ある人物が多数死傷し、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩して亡くなった。当時、落雷の事件は道真の怨霊(おんりょう)による雷神(らいしん)と結びつけられ、京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以後、災害が起こるたびに道真の祟りと恐れられ、天神信仰が全国に広がっていった。また、道真は優れた学者・詩人であったことから、天神様は学問の神として信仰されるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 荘園の広がり
 中央貴族や寺院・神社と結びつき、彼らの権威を利用して国司の支配から逃れようとする富豪百姓らの動きは各地でますます活発になり、領有地などを荘園として、院宮王臣家にゆだねようとするようになった。そのため、902年、時平は班田のための口分田不足を阻止するために、貴族らの土地集積などを停止する目的で延喜の荘園整理令を発布した。しかし整理令は行政の妨げにならないものは国衙の判断で荘園としてもよいというものであったため、効果はあがらなかった。
3) 土地政策の転換
 そのため、時平のあとの弟の藤原忠平が政権を握ると、現実にみあった土地政策がとられた。朝廷は、すべての耕地を公田(こうでん)とし、富豪百姓に耕作をまかせ、耕作面積に応じて徴税するようにした。公田は彼らの名前をつけた名(みょう)・名田(みょうでん)ごとに編成され、名を耕作し租税を納める富豪百姓は、農業経営の専門家という意味で田堵(たと)と呼ばれた。
 この結果、戸籍に登録された農民から人ごとに租庸調を徴収するという律令支配の原則は崩れ、租にかわる官物(かんもつ)と調・庸にかわる臨時雑役(ぞうやく)などの租税が名の面積に応じて土地ごとに徴税されることになった。
4) 荘園の変化
 このころの荘園は田堵に耕作をまかせて、輸租田(ゆそでん)として国衙に租を納めていたが、土地政策の変更にともなって、荘園も形をかえた。荘園を所有する貴族や寺院・神社は大領主となり、国司や郡司の権限をしのぐ権勢を背景に、租免除の特権である不輸の権を獲得した。さらに、田地ごとに官物にあたる年貢と臨時雑役にあたる公事(くじ)を田堵から徴収する権利を朝廷から認可してもらった。この当時の荘園は、のちの耕地や村落、周辺の山や川などをひとまとまりの領域として持つ荘園とは異なり、田地ごとにそれぞれ年貢・公事の徴収を認められた土地の集まりであった。
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