2015年 01月 25日 ( 1 )

 第12回日本史講座は、1月24日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は8名でした。
4 摂関政治の展開
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)摂関政治の全盛期
 藤原忠平の頃、天皇が幼少の時には摂政に、元服後は関白に就任して、天皇の後見役として国政を主導するという摂関政治の基礎がつくられた。藤原北家は摂政・関白を独占して摂関家と呼ばれるようになり、10世紀後半から11世紀半ばにかけての北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
 969(安和2)年、醍醐天皇の第10皇子という高貴な身分であり、実力者であった左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が源満仲(みつなか)の密告によって失脚した安和(あんな)の変によって、北家主体の摂関政治が確立した。
 その後、北家内では、身内どうしではげしい権力争いがつづくが、藤原道長がこれに勝利した。彼は4人の娘をつぎつぎと皇后や皇太子妃とし、3天皇の外祖父として権勢をふるった。道長は、娘の威子(いし)が後一条天皇の后になった時、祝宴の席で、有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という歌をよみ、栄華ぶりを示した。その子の藤原頼道も、道長の外孫である後一条・後朱雀(すざく)・後冷泉(れいぜい)の三代天皇のもとで摂政・関白となって、およそ50年間、権勢をほこった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 律令政治の変容
 このころ、国政は摂政や関白を中心に公卿らが運営するようになり、詔(みことのり)や勅(ちょく)にかわって太政官が出す太政官官符(かんぷ)が増えていった。摂関家が官吏の任免権をもったため、人材登用を原則とする官人制はしだいにくずれ、特定の貴族や官人が官職を請け負い、世襲するようになった。
3) 刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)
 1019年、沿海州地方の女真(じょしん)が対馬や壱岐(いき)、北九州を来襲する事件が起きた。この時、太宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家(たかいえ)や地方武士らの活躍でようやくしずめることができた。女真は、約50隻の船で対馬や壱岐さらに筑前(ちくぜん)の海岸にも上陸して、住民を連れ去った。のちに高麗が一部の日本人を帰国させてきたため、女真が連れ去ったことがわかった。この事件を刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)と呼ぶのは、高麗では夷狄(いてき)のことを刀伊と呼んだことに由来する。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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