2015年 12月 09日 ( 1 )

3 北山文化と禅
1) 金閣
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 足利義満が南北朝の合体を実現させて、幕府が政治の実権を握るようになると、伝統的な公家文化を取り入れながらも、武家を中心とする文化が花開いた。
 義満が京都北山の山荘に建てた金閣は、1層が伝統的な寝殿造り、2層が和様の仏堂、3層が禅宗様式という建築様式で、この文化の特徴を示していることから、室町時代初期の文化を北山文化と呼んでいる。
2) 禅宗
 禅宗の中でも臨済宗は、夢窓疎石が足利尊氏の保護を受けて以降、幕府との結びつきを深めて栄えた。幕府は、宋の官寺(かんじ)の制度にならって京都と鎌倉に五山の制をたて、それに次ぐ格式の寺院として十刹(じっさつ)の制を定めた。京都五山とは南禅寺・天龍寺・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺・万寿寺で、鎌倉五山とは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺である。
3) 学問・文芸
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 外交文書に漢文が用いられていたこともあって、義満は義堂周信(ぎどうしゅうしん)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らの臨済僧を政治・外交の担当者として登用した。多くの禅僧が中国で学んでいたので、彼らは中国の文化を持ち帰って広め、この時代の文化に大きな影響を与え、禅の文化が生まれた。五山の禅寺は学問・文化の中心となり、五山僧らは水墨画や漢詩文にも業績を残した。水墨画では明兆(みんちょう)・如拙(じょせつ)・周文らが有名である。

4 新しい芸能・文芸の広まり
1) 猿楽能・狂言
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(東京書籍「図説日本史」より)
 南北朝の頃、寺院や神社・農村で行われていた見世物的な芸能であった猿楽・田楽は、各地に座をつくりながら、歌舞・演劇の形をとる能として芸術性を高めていった。なかでも、大和の観世座から出た観阿弥・世阿弥父子が、足利将軍の保護を受けて芸を発展させ、芸術性の高い猿楽能を完成させ、謡曲や能楽の理論書である『風姿花伝(花伝書)』を残した。
 能のあいまに演じられる狂言は当時の民衆世界をうつしだし、権力者を鋭く風刺して、民衆の演劇として多くの人々にもてはやされた。
2) 民衆芸能
 京都の鴨川は、河原者(かわらもの)と呼ばれる身分の低い芸能民や非人の生活の場で、民衆芸能の中心地であった。彼らは、正月に家々を訪れる千秋万歳(せんずまんざい)や曲芸、手品をみせる放下(ほうか)、田楽から出たササラ摺(ずり)、さらに松囃子(ばやし)というような風流をこらした踊りなどで民衆を楽しませ、その後、この踊りは盆踊りになった。また、幸若舞(こうわかまい)・古浄瑠璃・小歌などが民衆に愛好され、小歌の歌集である『閑吟集(かんぎんしゅう)』も編まれた。
3) 庶民文芸
 豊かな空想を働かせた短編集である御伽草子(おとぎぞうし)も人々に親しまれた。連歌はますますさかんになり、和歌と対等な地位を得た。宗祇(そうぎ)や東常縁(とうのつねより)が正風連歌(しょうふうれんが)を確立し、宗祇により『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』が編まれた。これに対して、山崎宗鑑(やまざきそうかん)は俳諧連歌をつくり、より自由な気風に基づく『犬筑波集』を編集した。
 
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