2015年 12月 16日 ( 1 )

 第30回日本史講座は予定を変更して12月5日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
 Ⅱ 南蛮貿易と東アジア
1 ヨーロッパ人の来航
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1) ヨーロッパ人のアジア進出
 15・16世紀の覇者はスペインとポルトガルであった。この両国が強大となったのは、レコンキスタ(国土回復運動)でイベリア半島のイスラム教徒を追い払い、15世紀には諸侯を抑えて強大な王権を樹立したためである。この両国が、当時の商業活動の中心であった地中海の入口の位置を占めたこと、ルネサンスにおける科学技術の進歩とりわけ羅針盤の発明、地理学、航海術の発達などがあったこと、東方貿易が盛んとなり市民階級の経済的欲求、特に香料を求めるなどの条件によって、両国は積極的にアジアへの新航路の発見に努めたのである。
 その結果、スペインはアメリカ大陸の金銀を独占し、アジアではフィリピン諸島を領有し、マニラを根拠地として商業活動を営んだ。一方、ポルトガルはインド西岸のゴアを拠点として東南アジアとの香辛料貿易で巨利をえ、16世紀はじめには中国進出をはかった。明は朝貢貿易以外に正式の貿易を認めなかったので、密貿易を行った。
2) 南蛮貿易
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1543年、明の寧波(にんぽう)に向かうポルトガル人の乗った中国船が、九州の種子島に漂着して鉄砲をもたらした。以後、ポルトガル船は肥前の平戸や長崎、豊後の府内、薩摩の坊津(ぼうのつ)などに来航し、スペインもまた、マニラを拠点に1584年から貿易に参加するようになった。日本では、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人と呼んだので、彼らによる東アジア貿易を南蛮貿易と呼んでいる。
 ポルトガルは、倭寇討伐の功績で明からマカオを割譲され、ここを拠点に南蛮貿易に力を入れた。彼らは大きな商船を使って、中国産の生糸・絹織物を中心に鉄砲、火薬、砂糖、薬品、などを日本の銀と交換するという中継貿易で莫大な利益をあげた。
 肥前の長崎は天然の良港で、戦国大名大村純忠(すみただ)の保護もあって、ポルトガル船がたびたび来航し、堺・京都・博多などの豪商らがさかんに取り引きを行い、平戸とともに貿易港として急速に発展した。武器や武具などの調達をとおして戦国大名と結びついた豪商は、貿易で莫大な利益をえた。そのため、貿易の利益の大きさを知った豪商や戦国大名らのなかには、やがてマカオなど東南アジアに進出する者まであらわれた。
 その結果ポルトガル文化の影響は強く現代の日本語の中にも入り込んでいる。コップ、ジョウロ、ミイラ、ビスケット、カッパ、カルタ、カステラ、コンペイトウ、パン、シャボン、タバコ、天ぷらなどはみなポルトガル語由来の言葉である。まだその他にもたくさんあり書ききれない。天ぷらは塩、胡椒などで下味をするという意味で、ビスケットは二度焼いたパンという意味だ。おんぶというのもポルトガル語の肩という言葉から来ている。また、ピンキリは、ピンがポルトガル語の始めという意味で、キリはポルトガル語のクルス、つまり十字架を意味し終わりをあらわす。
 以上のようにいかにポルトガル文化が日本に大きな影響を与えたかがわかるが、その反対に日本文化が現代のポルトガルに影響を与えたものはないかと、私がポルトガル旅行をしたときに現地のガイドに質問をしたことがある。しばらく考えた後にガイドが答えたのは「過労死」という言葉だった。
2 イエズス会の日本布教
1) キリスト教の伝来
 1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、はじめてキリスト教を伝えた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) キリシタンの広がり
 その後、宣教師がつぎつぎと来日し、教会やコレジオ(宣教師養成学校)・セミナリオ(神学校)、病院などを建て、医療活動や社会事業を行いながら、キリスト教徒(キリシタン)を増やしていった。
 九州では、彼らの布教活動が貿易と一体であったことを知った大名のなかには、みずから洗礼を受けるキリシタン大名があらわれた。1582年にはイエズス会のイタリア人宣教師ヴァリニャーニのすすめで、キリシタン大名の大村純忠や豊後の大友義鎮(よししげ)、肥前の有馬晴信は、4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣したが、これを天正遣欧使節と呼ぶ。こうして、九州や畿内を中心に信者が急速に増え、約15万人に達したといわれている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 
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