2015年 12月 18日 ( 1 )

 第31回日本史講座は12月12日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
2 豊臣政権の成立
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豊臣秀吉 (東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 天下統一の過程
 秀吉は尾張中村の農家に生まれたが、信長に仕えてしだいに重く用いられ、近江長浜の城主となり、本能寺の変の時には中国路にあって毛利氏の水軍と対陣していた。秀吉は直ちに毛利氏と和睦して京都に引き返し、山崎の戦いに明智光秀を倒し、さらに信長の重臣柴田勝家を1583年に賎ケ岳の戦いで破り信長の後継者となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 一方、秀吉は水陸交通の要地である石山本願寺の跡に大坂城を築き、全国統一へと乗り出した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 1584年、秀吉は徳川家康と尾張の小牧・長久手(ながくて)で戦ったが講話し、1585年に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を破って四国を支配下に入れた。さらに秀吉は、朝廷に接近して関白に任ぜられ、1586年には太政大臣となり、豊臣の姓を与えられた。秀吉は関白の地位を利用して天皇から全国の支配権をゆだねられたと称し、戦国大名どうしの戦争は私戦であるから直ちに停戦して、領土争いは秀吉の裁定に従うよう命令したが、これを惣無事令(そうぶじれい)と呼ぶ。これに抵抗した九州の島津義久(よしひさ)を1587年に屈服させ、1590年には小田原の北条氏政を滅ぼし、ついで奥羽(おうう)を勢力下におさめて全国を統一した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 経済基盤
 この間、秀吉は、1587年に京都に聚楽第(じゅらくだい)を新築し、翌年、後陽成ごようぜい)天皇を招いて、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。そして、その権威と武力を背景に支配地を拡大し、200万石の蔵入地(くらいりち)と呼ばれる直轄地を設けながら、大名のとりたてや配置替えを行った。さらに秀吉は、金山・銀山や京都・大阪・堺・伏見・長崎などの重要都市を直轄支配するとともに、天正大判などの貨幣を鋳造し、おもな街道に距離を示す一里塚を設置するなど、豊臣政権の経済の基礎を固めた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 政治機構
 秀吉は、本来の家臣というものが少なく、かつての同僚や先輩の諸大名をしだいに家臣に組み入れていったという事情や、政権の期間が短かったためもあって、みずから将軍として君臨し、強固な幕府を築くということは不可能であった。そのため豊臣政権は秀吉個人の独裁性が強く、全国支配のための政治機構を整備できなかった。晩年には、腹心の石田三成らを五奉行として実務を分担させ、徳川家康らを五大老として重要政務を合議で決定させる制度を整えようとしたが、彼らの間でしだいに対立が深まった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
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