2015年 12月 20日 ( 1 )

3 秀吉の外交と朝鮮侵略
1) 秀吉の外交とキリシタン弾圧
 秀吉は積極的な外交政策をとったが、それは、海外貿易の利を自己の手におさめて統一政権の勢威の拡大をはかろうとするものであった。1588年に海賊取締令を発した秀吉は、1592年、長崎・京都・堺の商人に朱印状を出して貿易の発展を期待した。しかし、キリスト教に対しては弾圧政策をとった。信長は延暦寺・本願寺などの寺院勢力打倒のためもあってキリスト教を積極的に保護し、秀吉もはじめはこれを継承していたので、キリスト教はめざましい布教をみせた。信者の数は数十万にのぼり、キリシタン大名も10氏をこえた。このような情勢のなか、1587年、九州の平定途上に、突然バテレン追放令(宣教師追放令)を発した。その背景には、九州北部では布教をめぐる紛争があり、領主に対して信者たちが服従せず、大村領の長崎はイエズス会に寄進されており、ポルトガル船は日本人を奴隷として南方に売買するといった事情があったので、秀吉は統一支配の妨げになると考えてこの法令を発したのである。さらに、1596年のサン=フェリッペ号事件がおこった。これは、スペイン船が土佐に漂着したとき、船員が世界地図を示してスペインは植民地にするために宣教師を派遣していると発言した。これをきっかけとして秀吉は宣教師・信者のいっせい逮捕を命令した。こうして宣教師・信者26名が長崎で磔(はりつけ)にされるという26聖人の大殉教がおこった。
 秀吉の積極外交は南方にまで向けられ、1591年にはインドのゴアのポルトガル総督に貿易を促した。さらにフィリピンのマニラのスペイン政庁や台湾にも朝貢するようにせまったが、彼らはこれに応じなかった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)朝鮮侵略
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(東京書籍「図説日本史」より)
 秀吉の強硬政策は、ついに朝鮮・明との戦端を開くことに発展する。1587年の九州出兵中、秀吉は朝鮮に日本への服属と明への先導を強要し、出兵計画をすすめた。1592年、秀吉は肥前の名護屋(なごや)に本営を置き、15万人あまりの大軍を朝鮮に送った。日本軍は釜山から北部へ兵を進めたが、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍や明の援軍、義兵の反撃と抵抗にあって苦戦し、明との講話により休戦したが、これを日本では文禄の役(ぶんろくのえき)と、朝鮮では壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ぶ。
 講和交渉は秀吉の要求が入れられなかったために決裂した。そこで秀吉は、1598年に朝鮮半島の半分を領土にする目的で、14万人あまりの大軍を朝鮮に送った。日本軍はまたも苦戦を強いられ、翌1598年、秀吉の病死をきっかけに全軍が朝鮮から撤退したが、これを日本では慶長の役(けいちょうのえき)、朝鮮では丁酉倭乱(ていゆうわらん)と呼ぶ。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 前後7ヵ年にわたった朝鮮出兵は莫大な労力と経費とをつぎ込みながら、何ら得るところなく終了し、その失敗はそのまま豊臣政権の崩壊につながった。一方、朝鮮では耕地の荒廃や人口の減少をもたらしただけでなく、日本軍は仏像や金属活字などの文化財を略奪し、陶工や学者をはじめ2~3万人の人々を日本に連行するなど、多大な苦痛を与えた。朝鮮から連行された陶工により、日本では肥前の有田焼・薩摩焼き・筑前の高取焼きなどなどが始まるとともに、活字印刷も伝わった。このように朝鮮人の犠牲のもとに日本文化が発展したことをおさえておく必要がある。
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 大阪の民話に「大坂城の虎」というお話があり、私は「秀吉の朝鮮侵略」の授業ではいつもこの話を生徒に伝えている。秀吉は朝鮮の侵略が思わしく行かないのを隠すためでもあろうか、自己の権威を示すために朝鮮から生きた虎を持ってこさせて大阪城に檻を作って虎を飼うことにした。しかし、虎の食欲はものすごいもので、しかも生の肉しか食べない。そこで大阪の犬を生きたまま虎の檻に入れて餌とした。檻に入れられた犬は虎の恐ろしさにおびえて、抵抗することもなく食われてしまった。ところが、リキという犬が餌として檻に入れられたが、根性のある犬で恐れることなく虎の急所である首にかぶりついた。虎は苦しくなり爪でリキを離そうとするがなかなか離れない、とうとうリキは鋭い虎の爪で死に絶えたが、のどをかまれた虎はとうとう死んでしまった。飼い犬を虎に差し出す必要がなくなった大阪の住民たちは喜び、リキのためにお墓を作って弔ってやったというお話である。
 実際に生きた虎を持ってこさせという史料はないが、虎の肝は身体によいからということで、加藤清正などに虎狩りをさせたことは事実であるらしい。この話は強大な虎のような秀吉に対する、大阪民衆の抵抗という意味が隠されているのではないかと私は考えるがどうでしょうか。
 次回の第32回日本史講座は、来年の1月9日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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