2016年 12月 12日 ( 1 )

 Ⅱ 士族の反乱と自由民権運動
1 士族の反乱
1) 武力での抵抗
 征韓論にやぶれて参議を辞職した西郷や江藤、板垣らが政府の外から有司専制を批判し始めると、政府の政策に不満を持つ士族たちが彼らのまわりに集まり始めた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 1874年、江藤新平は郷里の佐賀に帰って、不平士族を率いて佐賀の乱を起こした。江藤は新政府のなかでは急進的な民権論者で、保守的な大久保とは対立していた。彼は文部大補や司法卿となり学制や四民平等・警察制度などの近代化政策を推進した。特に江戸時代以来の古い刑法を廃止して近代的刑法を導入した。一方、対外的には強行派でありそのため征韓派に属し、下野すると板垣らとともに民撰議院設立建白書を提出していた。江藤が佐賀にはいると、対立していた大久保はみずから佐賀討伐の総師となって反乱を鎮圧した。江藤は逃亡して鹿児島の西郷に協力を求めるが断られ、高知へと向かい武装蜂起を説いたが受け入れられなかった。彼は高知でみずから作った写真手配制度により捕らえられた。皮肉にも制定者江藤本人が被適用者第1号となった。江藤は不当な裁判によって裁かれ、一切の反論が許されず、梟首(きょうしゅ)(晒し首ともいう)により、刎ねた首を3日間見せしめとしてさらしものとなった。
 ついで1876年には熊本の神風連(じんぷうれん)の乱や福岡の秋月の乱、山口萩の前参議前原一誠(まえばらいっせい)らによる萩の乱など、各地で士族の反乱が起こった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1877年に西郷が旧薩摩藩の士族らを率いて鹿児島で兵をあげると、九州各地で激しい戦闘となったがこの戦争は戊辰戦争以来の大きな内乱となった。8か月に近い歳月を費やして、ようやく反乱は鎮圧され、これによって士族の武力反乱は終わりを告げた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)士族反乱の要因
 このような士族反乱が起こった地域を見ると、肥前・長州・薩摩など明治維新で重要な役割を果たした藩が多い。彼ら士族たちは命をかけて幕府を倒し新政府を実現したが、一部の者だけが役人となって出世したが、逆に彼ら士族たちは新政府によって次々と特権を奪われていった。1873年の徴兵令は士族の不要を意味した。また、1876年の秩禄処分により、金禄公債の利息では一般の士族は生活できず、金禄公債を元手に商売した、いわゆる「士族の商法」によって没落する者が多くあらわれた。さらに同年に出された廃刀令により士族の特権を奪われた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 軍人勅諭
 1878年、西南戦争に派遣された兵士が恩賞への不満などから竹橋事件という反乱が起こった。これは近衛兵が起こした反乱で、衝撃を受けた政府は、1879年に天皇が軍隊の最高指揮権を持つことを定め、1882年には天皇への絶対的な忠誠を説く軍人勅諭を出し、徴兵した兵士を天皇の軍隊として教育するしくみをつくった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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