2017年 05月 16日 ( 1 )

2 日本の参戦と中国侵略の強化
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)日本の参戦
 第一次世界大戦がはじまると、第2次大隈内閣や元老らは政治や経済のゆきづまりを打開する絶好の機会ととらえ、1914(大正3)年、日英同盟協約を口実にいち早く参戦した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)対華21か条の要求
 日本は、中国の山東半島や南太平洋にあるドイツの軍事拠点を占領し、翌1915年、袁世凱政権に21か条の要求をつきつけた。要求の内容は、山東省などでのドイツ権益の譲渡、南満州(中国東北地方)などでの権益の拡大、中国政府に日本人顧問を採用することなどであった。この要求に対し、中国国内では露骨な内政干渉として激しい抗議が起こり、アメリカなどからも強い非難の声が上がった。しかし日本は最後通牒を出し、日本人顧問採用の条項を除いた要求を中国政府に認めさせた。中国では要求を受諾した5月9日を国恥(こくち)記念日とし、これ以降、抗日運動が高まることになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 鹿野正道氏によると、「二十一か条要求はなにをのこしたのか。わたくしはこれを、日本が中国分割競争の参加者の立場から一歩すすめて、中国独占への方向をとりはじめた事件とみたい。その意味でこれは、近代日本の対中国政策史上の画期をなしている。一方、中国の側からみれば、それまで中国の分割あるいは中国植民地化の先頭にたってきたのは、アヘン戦争いらいのイギリスであった。しかし二十一か条要求を契機に、中国にとっての主要な敵は、イギリスから日本へかわったといってよかろう。」(小学館「日本の歴史27 大正デモクラシー」より)と指摘している。
3)寺内内閣の対中国政策
 1916年、日本はロシアと第4次日露協約を結び、満州での既得権益の相互確認と、中国へ新たに進出する国を共同で阻止することを取り決めた。この直後、大隈内閣は退陣して陸軍大将の寺内正毅(まさたけ)が超然内閣を組織した。寺内内閣は、袁世凱の死後、中国政府の実権を握った段祺瑞(だんきずい)に多額の援助を行って影響下におこうとした。1917年には中国市場の門戸開放・機会均等をアメリカに約束するかわりに、満州での日本の特殊権益を認めさせる石井-ランシング協定をアメリカと結んだ。

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