2 第2次護憲運動と三派内閣の成立
1)清浦内閣の成立
a0226578_09222382.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
 1923年に第2次山本内閣が虎の門事件という無政府主義者による摂政の宮(のちの昭和天皇)を狙撃した事件の責任をとって総辞職すると、貴族院・官僚勢力をバックとした清浦圭吾が内閣を組織した.しかし、政友会・憲政会・革新俱楽部は護憲三派を結成し、世論の支持をえて普選断行・貴族院改革・行政整理・政党内閣の実現などを叫んで清浦内閣打倒をめざす第2次護憲運動を展開した。
a0226578_09235751.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
2)護憲三派内閣の成立
 1924年5月の総選挙で護憲三派は圧倒的な勝利をおさめ、清浦内閣は総辞職し、第一党となった憲政会総裁の加藤高明が首相となって護憲三派を与党とする内閣を組織した。
a0226578_09245842.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第1次加藤内閣は、小作調停法を制定し、不十分ながら貴族院改革や、行財政整理を手掛けた。陸軍でも軍縮が行われ、兵員数を削減し、かわりに戦車や機関銃などの兵器の近代化を行った。また、あまった現役将校を中等学校や高等学校に配属して軍事教練を指導させ、青年訓練所をもうけて在郷軍人による軍事教練をはじめるなど、若者に軍事教育を行う体制がつくられた。外交では幣原喜重郎外務大臣は、中国東北地方(満州)などの日本の権益を維持し続けながらも、中国や英米との協調外交を進め、1925年にはソ連と国交を開いた。
 そして、元老による後継内閣首班指名は続いたが、加藤内閣以後、1932年の五・一五事件で犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺されるまで、衆議院で多数議席をもつ政党を中心に政党総裁が組閣する政党内額が慣例となったが、これを憲政の常道とよぶ。


 次回の第62回日本史講座は、6月24日(土)午後2時よりおこなう予定です。

[PR]