カテゴリ:未分類( 16 )

4)辛亥革命
 この頃、東アジアでは大きな変動が起こっていた。強大な専制帝国を誇っていた清国では義和団事件以後、満州民族の清朝を倒して漢民族による民族国家を建設しようとする革命運動がしだいに活発となった。
a0226578_09040728.jpg
(第一学習者「最新世界史図表」より)
 その指導者となった孫文は、1905年に中国革命同盟会を東京で結成し、民族の独立・民権の伸張・民生の安定のいわゆる三民主義を唱えて革命運動を進めた。1911年の武漢暴動をきっかけに、各地で革命が勃発し、1912年1月1日南京で中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統に選ばれた。清朝政府はすでに力を失い、幼少の宣統帝は退位してついに清朝は滅亡した。これが辛亥革命である。
a0226578_09012332.jpg
(東京法令「ビジュアル世界史」より)
 しかし、こののちも国内では軍閥が割拠してその圧力の下で初代大総統となった袁世凱は革命派の国民党を弾圧し、孫文は日本に亡命した。中国国内では、欧米や日本などの列強にそれぞれ支援された軍閥が地方ごとに割拠して混乱がつづくことになった。
a0226578_09055166.jpg
(東京法令「ビジュアル世界史」より)

[PR]
by YAMATAKE1949 | 2017-04-28 09:06 | Comments(0)
Ⅰ 日清戦争
1 条約改正
1)列強の対立
 不凍港を求めて南下政策を進めるロシアは、1885年、イギリスの保護国であったアフガニスタンに侵攻し軍事衝突を起こした。これに対して、イギリスはアフガニスタン支援につとめるとともに、ロシアの東アジア進出を警戒して朝鮮の巨文島(きょぶんとう)を占領した。ロシアも朝鮮へ接近したため、朝鮮は列強の対立の場所となった。
2)日英通商航海条約
a0226578_10120543.jpg
 日露の対立を利用して日本は、中断していた条約改正交渉を日英間で再開した。1893年、第2次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光は、裁判権などの回復をめざして青木周蔵にロンドンで交渉させ、1894年7月、日英通商航海条約を結び、さらにアメリカなど他の列強とも条約改正に成功した。この結果、日本は治外法権の完全撤廃、最恵国待遇の相互平等、さらに清との戦争に際してイギリスに日本寄りの中立的立場を期待できるようになった。
2 甲午農民戦争
1)朝鮮における反日感情の高まり
 朝鮮では凶作時も日本商人が米や大豆などを買い占めたため、反日感情が高まった。朝鮮政府は一部地方で防穀令(ぼうこくれい)を出して、穀物輸出を禁止したが、日本商人が反発して紛糾し、経済混乱がつづいた。さらに増税や役人の不正が加わり、政府への反発も強まった。
2)甲午農民戦争

 朝鮮では、キリスト教が流入し西学とよば
a0226578_10184348.jpg

れていた。これに反発した崔済愚(さいせいぐう)は仏教・道教などをもとにした民間宗教を創始し、東学とよび農民たちの間に広まった。東学の影響を受けた全琫準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民は1894年、不正役人の追放、封建制度の改革、外国人商人の行商禁止などを求めて蜂起すると、反乱は全国に拡大していったが、これを甲午農民戦争とよぶ。 これに対して、日本政府は朝鮮出兵の準備を急いだ。そして、清が朝鮮政府の要請に応じて出兵すると、日本もただちに出兵して、日清両国間の緊張は高まった。

[PR]
by YAMATAKE1949 | 2017-04-02 10:30 | Comments(0)
a0226578_9183574.jpg
御幸森天神宮
 次に私たちは御幸森天神宮を訪れた。志賀さんの資料によると、「伝承では、仁徳大王が鷹狩、または、近隣の渡来人の状況を視察のために来た(御幸した)折りに、この地の森で休憩したので、御幸森という地名になったと言われています。神社の記録では406年に仁徳大王を祭神に神社が作られたとされます。」とある。また、この神社とコリアとの関係について、「仁徳大王の即位に関わった百済出身の王仁博士が作ったとされる『難波津の歌』がハングルで書かれたものが兵庫県竜野の旧家から発見されました。2009年に『日本と韓国・朝鮮の平和共存と共生の願い』を込めて、コリアタウンの住民などにより、御幸森天神宮の境内に、万葉仮名・和文・ハングルで『難波津の歌』を記した碑が建てられました。」と資料にある。「難波津の歌」というのは、「難波津に 咲くやこの花冬籠もり 今は春べと 咲くやこの花」という歌である。この歌は応神天皇の死後、大雀命(おおさざきのみこと)と菟道稚郎子(うじのわきいらつのみこ)とがお互いに皇位を譲り合って3年間ほど空位となり、結果的に大雀命(おおさざきのみこと)が跡を継いで仁徳大王となったさいに、その治世の繁栄を願って王仁博士が詠んだ歌である。古来、書道の手習いとして用いられ、「誰でも知っている歌」の代名詞となっていた。ずっと時代が下って江戸時代に、この「難波津の歌」を、対馬の通訳がハングルに翻訳して、それを朝鮮通信使に贈呈したが、その墨書が竜野で発見されたのである。
a0226578_10191491.jpg
万葉仮名・和文・ハングルで書かれた「難波津の歌」の碑 
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2013-04-08 10:20 | Comments(0)
2 魏晋南北朝時代の社会と文化

(魏晋南北朝時代は政治的には混乱した時代であったが、社会や文化の面では発展した時代であった。しかし、時間の制約もあり、土地制度については、魏の屯田制、西晋の占田・課田制には触れず、北魏の均田制のみ簡単に触れる。)
T    この時代の農民は、五胡の侵入や戦乱によって土地を失い、豪族の奴隷や流民になる者が多かった。これは各王朝にとってどのような問題をもたらしましたか。
S    税を負担する農民が没落して国家の財政が苦しくなった。
T    それでは、このような問題を解決するために、各王朝はどのような政策を行う必要があったでしょうか。
S    豪族の大土地所有をおさえて、農民を育てることによって税を確保する必要があった。
T    このような制度を導入したのが北魏であり、一定の土地を農民に均しく割り当てたので均田制と呼んだ。この制度は北朝をへて、隋や唐にうけつがれ、さらに日本にも影響を与えましたが、日本ではこのような土地制度を何と呼ばれましたか。
S    班田制です。
a0226578_9184266.jpg
(「東京書籍 新選世界史」より)
T    魏の時代に推薦制による官僚採用制度が実施されましたが、何と呼ばれる制度ですか。
S    九品中正法です。
T    この制度は、中正官を各地に派遣し、官僚を一品から九品に分け、すぐれた人物を中央の官僚に採用しようとした制度ですが、この制度でどのような結果をもたらしましたか。
S    有力な豪族たちがこの制度を利用して王朝の高官を独占し、子孫に引き継がれ門閥貴族となりました。
T    江南地方に東晋王朝が成立すると、このような貴族たちはどのような行動をとりましたか。
S    華北で五胡の支配を嫌って、農民とともに江南に移住する貴族たちが多かった。
T    その結果、江南地方の開発が進み、産業も発達して人口も増加しました。さて、南朝では、このような貴族たちが中心となった文化が発達しましたが、このような貴族文化を何と呼びますか。
S    六朝文化です。
T    六朝文化というのは、南朝に成立した六つの王朝をという意味ですが、南朝は、宋王朝を含めて四王朝が建国したといいましたが、東晋を入れても一つ足りませんね、後の王朝とはどこを指しますか。
S    三国時代に江南に建国した呉を指します。
T    さて、この貴族文化が隋や唐の文化に受けつがれていき、日本の文化にも大きな影響を与えたのですが、貴族文化とは具体的にどのようなものを指しますか、
S    詩・書道・絵画などです。
T    六朝文化を代表する詩人で、「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす」という有名な「帰去来の辞」を詠んだ詩人は誰ですか。
S    陶淵明です。
T    皆さんの中に芸術で書道を選択した人はいませんか。六朝文化を代表する書道家で、唐や宋の時代にも、さらに日本の奈良時代にも書道の手本となった人物は誰ですか。
S    王羲之です。
a0226578_9305953.jpg
(「東京書籍 新選世界史」より)
T    教科書に「女史箴図」が載っていますが、これを書いた人物は唐代以降、名画の祖といわれました。さて、六朝文化を代表する画家は誰ですか。
S    顧愷之です。
a0226578_9334077.jpg
(「東京書籍 新選世界史」より)
T    さて、中国三大宗教とは何を指すか知っていますか。
S    儒教・仏教・道教です。
T    儒教はこの時代あまりふるわなかったのですが、仏教は発展しました。仏教はどこから始まったのですか
S    インドです。
T    仏教は漢の時代に西域から伝えられたが、この時代に戦乱と社会不安を背景にして広まった。東晋の人で、仏典を求めてインドを訪れ、『仏国記』を書いた人物は誰ですか。
S    法顕です。
T    仏教は、南朝では貴族を中心に信仰されたが、北朝では国家の統治と結びついて大規模に導入された。教科書に「雲崗の石仏」の写真が載せてありますが、中国の三大石窟寺院とは、雲崗以外に何を指しますか。
a0226578_947435.jpg
雲崗の石仏(北魏の都平城の近くに、約1㎞にわたって53の石窟洞がつくられた。写真は第20洞の本尊で、高さ13.44m。現在は壁に柱の跡をのこすだけで、本尊は露出している。敦煌、竜門とあわせ、中国の三大石窟寺院とよばれる。)(「東京書籍 新選世界史」より)
S    敦煌・竜門石窟寺院です。
T    このような石窟寺院は、インドの影響を受けたものですが、それはどこですか。
S    アジャンタやエローラ石窟寺院です。
T    また、不老長生と現世の福利を説く道教が成立したのはこのころです。道教は北魏の誰によって宗教として成立したのですか。
S    寇謙之です。
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-10-14 09:09 | Comments(0)
 [2]
 鄭和の南海遠征はどのような航路をたどったのか
 鄭和の年譜と詳しい記録の残っている第7回の航海記録をみながら、彼の航海のあとを地図の上でたどっていくと、彼の航海がいかに大規模なものであったかがわかる。鄭和は、27、800名の乗員を乗せた62隻の船隊を率いて、東南アジアの諸国から、インド洋・ペルシャ湾のちには紅海沿岸をへてアフリカ東海岸にいたる海域を舞台として活躍している。彼の海上活動は、1405年から1433年における29年間に、7回にもわたりくりひろげられ、訪問国は30数カ国にものぼったといわれている。鄭和の乗った主力船の大きさは、現在の8000トンクラスに匹敵し、1498年に喜望峰をまわってカリカットに到達したバスコ・ダ・ガマの船が120トンで、しかも3隻にすぎなかったことと比較すると、鄭和の船団の規模がいかに大きかったかがわかる。
 
 <資料2>鄭和の船と航海路
a0226578_10572070.jpg
(東京法令「世界史のミュージアム」より)
a0226578_10422482.jpg

[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-08-06 10:52 | Comments(0)
   Ⅱ ルネサンス
1 ヒューマニズムとルネサンス
a0226578_7253685.jpg
 ミケランジェロ「ダヴィデ」(東京法令『世界史のミュージアム』より)
 上の作品「ダヴィデ」は、旧約聖書にでてくる英雄である。旧約聖書によると、羊飼いの少年ダヴィデは、侵略してきた怪物ゴリアテを倒し、ヘブライ王国を守り、のちにヘブライ王国の王となった人物である。
 この作品をミケランジェロに依頼したのは、都市国家フィレンツェの市民たちであった。それは、フィレンツェに君臨していたメジチ家を追放し、自由都市国家フィレンツェの自由と自治を勝ち取った象徴として、フィレンツェの市庁舎の前に設置されたものであった。
 このような自治都市・自由都市国家フィレンツェには多くの芸術家があらわれた。「ヴィーナスの誕生」のボッティチェリや万能の天才で「モナ・リザ」で有名なレオナルド・ダ・ビンチ、さらに「聖母子像」のラファエロなどの多くの天才がフィレンツェで活躍したのである。
 なぜジェノヴァやピサあるいはヴェネチアではなくフィレンツェにイタリアルネサンスが花開いたのであろうか。その理由はフィレンツェが他の都市とは違い、毛織物を中心とする産業都市国家であったことである。他の都市は商業が盛んであり、大商人が都市国家を牛耳っていたのに対して、フィレンツェは、産業都市であり、親方・職人など労働者の自治権が強く、封建的な束縛からの解放を求めるエネルギーが強かったことがすばらしい作品を生みだしたと言えるのである。
 14世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパの各地で人間に対する考え方が大きく変化した。神中心のキリスト教の人間観とは異なるものが芽生えてきた。そして、人間のあり方を考えるためにキリスト教以前のギリシアやローマの古典作品の研究がおこなわれたが、これがヒューマニズム(人文主義)である。
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-07-27 07:25 | Comments(3)
3 琉球王国
 14世紀はじめに、豪族が北山・中山・南山王国を確立し、各王国は明に朝貢した。15世紀前半に、中山王が統一し琉球王国が成立した。那覇は中継貿易の拠点となり、15世紀は琉球の大交易時代となった。
 17世紀のはじめ、薩摩藩の島津氏に征服された。薩摩藩は中国との貿易の利益を得るために、琉球王国の体制を残し、明・清の朝貢国として存続した。
4 日本の武家政権
 元寇以後、鎌倉幕府は衰退し、南北朝の動乱を経て室町幕府が成立した。幕府は倭寇の取り締まりを強め、明に朝貢して勘合貿易をおこなった。15世紀には戦国時代に入り、16世紀にはポルトガル人によって鉄砲が伝来した。
 織豊政権を経て17世紀はじめに江戸幕府が成立し、キリシタンの禁止と貿易の独占のために鎖国令が出された。
 朝鮮とは、対馬の宗氏を通じて国交を回復し、朝鮮通信使が来日した。江戸時代に、日本が正式に国交を結んでいたのは朝鮮国だけであり、幕府は朝鮮通信使の接待に莫大な費用を費やしたといわれている。ところで、朝鮮通信使が行なわれたもともとの理由は、秀吉の朝鮮侵略によって、たくさんの朝鮮人が日本に連れてこられたが、このような人たちを朝鮮に連れ戻すというのが最初の任務であった。この時、日本に連行された人たちの中に、陶磁器の技術者がいた。彼らによって有田焼・九谷焼などの日本の陶磁器が始まったのである。
a0226578_619416.jpg
朝鮮通信使絵巻(長崎県立対馬歴史民俗資料館) 朝鮮は幕末まで日本が唯一正式な外交関係を維持した国で、使節団として来日したのが通信使であった。通信使は1607年から1811年まで12回来日し、その応接に江戸幕府は多額の経費をあてた。この背景には、将軍の権威を高めることと、朝鮮を通して東アジアの国際社会に結び付く意図があった。(東京書籍『新選 世界史B』より)
 Ⅲ 東南アジアの大航海時代
1 海の文明と港市国家
 14世紀、東南アジアの海域には、各種の香辛料や金や銀を求めて、インド、西アジア、ヨーロッパ、中国などから多数の商人が来航した。沿岸や河川に港市が形成された。港市は、海上の東西交易と内陸部を結ぶ接点で、国際交易を基盤とし、後背を支配する国家、港市国家が成立した。
 17世紀までの東南アジアの商業時代のにないてとなった。港市国家の国王は、中国に朝貢貿易をおこない、イスラーム教を受容してムスリム商人を招いた。このようにして現在のインドネシアは、世界で最もイスラーム教徒の多い国となった。
2 マラッカ王国とジャワ・スマトラ
 マレー半島ではマラッカ王国が、明の朝貢国となった。国王がイスラーム教に改宗すると、ムスリム商人をはじめ、各地の商人が来航した。香辛料・陶磁器・絹・綿などの交易で繁栄し、マラッカは、数十の言語が語られる国際交易都市となった。イブン・バツータや鄭和もマラッカ海峡を通って活躍したが、私がこの地を訪れたときに、イブン・バツータや鄭和がここを訪れたという碑が残されていた。
 マラッカ王国は、インド洋交易に進出したポルトガルに滅ぼされた。ムスリム商人たちは、群島部の港に移り、スマトラ島のアチェ王国、ジャワ島のバンテン王国やマタラム王国などが台頭した。これらの国家では、コショウなどの特産品の栽培を推進し、中継品を含め、国際交易によって繁栄した。アラビア文字を用いたマレー語が共通語となり、歴史書や物語が著された。西アジアからウラマー(法学者)やスーフィー(聖者)が往来しモスクや学校が建設され、民衆にイスラーム文化が浸透していった。
3 大陸部の国々
 大陸部では、タイ・ミャンマー人が、平野部に進出し、海外交易と結び付いた国家を建設した。
タイでは、スコータイ朝を併合したアユタヤ朝が、クメール人のアンコール朝を滅ぼし、現在のタイ領にあたる領域を支配した。国王は上座部仏教を保護し、王室貿易や軍隊に中国人や日本人などの外国人を登用して権力を強化した。
 首都アユタヤには、ポルトガルや日本船である朱印船が往来し、日本人町ができ、山田長政は国王の傭兵隊長として重用された。彼はタイ南部のリゴール太守にまで出世したが、王一族に妬まれ、後に毒殺された。
 ミャンマー(ビルマ)ではトゥングー朝が全土を統一し、イギリスやオランダとの交易によって繁栄をむかえた。18世紀に成立したコンバウン朝は、アユタヤ朝を滅ぼし、清朝を撃退して領土を拡大した。
a0226578_72103.jpg
上の図は、タイの日本人傭兵隊、17世紀のはじめ頃、タイの首都には1500人以上の日本人が居住していたといわれる。
下の絵は、朱印船で、渡航許可(朱印状)をもった日本の貿易船。東南アジアなどで交易を行った。
(東京書籍『新選 世界史B』より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-06-11 06:25 | Comments(0)
第20回世界史講座は6月9日(土)午後2時より、「東アジア諸国の発展」「東南アジアの大航海時代」をテーマにおこなわれました。受講者は7名でした。
8 明清時代の文化
 明の時代には、朱子学が官学とされたが、王陽明は知行合一を唱え陽明学をはじめた。陽明学は日本にも影響を与えた。陽明学者で大坂町奉行の元与力であった大塩平八郎は、1836年、天保の大飢饉の際、窮民の救済策を上申したが入れられず、蔵書を売却して窮民を救い、翌年挙兵したが鎮圧された。このように陽明学は行動的な学問として発展したのである。しかし、清朝の時代になると、清朝は満州族(女真族)であったために思想統制が厳しく、古典を文献学的・実証的に研究する考証学がさかんとなった。
 16世紀末からマテオ・リッチらイエズス会の宣教師が活動した。彼らは中国の支配者層に受け入れてもらうために天文・暦学・数学などの西洋の学術を中国に紹介した。また、中国服を着用したり、中国名を名乗るなど中国の風俗習慣を尊重した。このようなイエズス会の布教の仕方に反発した他の宣教師たちは、これをローマ教皇に訴えた。するとローマ教皇はこのようなイエズス会の布教方法を異端とした。これに対して清朝は、キリスト教の布教を禁止したが、これを典礼問題と呼んでいる。
a0226578_741110.jpg
           左がマテオ・リッチで右が弟子の徐光啓(東京書籍『新選世界史B』より)
 
 Ⅱ 東アジア諸国の発展
1 ヴェトナム王朝の独立
 13世紀に成立した陳朝がモンゴルの侵略を撃退し、民族意識の高まりで独自の文字チェノムを使用した。陳朝滅亡後、明の永楽帝がヴェトナムを一時支配したが、黎氏が明軍をやぶって黎朝を建国した。16世紀に黎朝が南北に分裂後、19世紀はじめに阮朝が成立した。阮朝は国号を越南としたが、これがヴェトナムとよばれる由来となった。この王朝は、清朝に朝貢するとともに、南部ではタイと対立した。
2 朝鮮王朝
 倭寇で活躍した李成桂が14世紀末に高麗を倒して朝鮮王朝(李朝)を建国し、漢城(現在のソウル)を都とした。李朝は明に朝貢し、科挙にもとづく官僚制を整備し、仏教にかわって朱子学を重んじた。15世紀に、ハングルと呼ばれる独自の文字を作った。この文字は、第四代の世宗が民衆にも文字が必要と考え学者を集め発明された文字で、世界的にも珍しい文字である。李朝では高麗以来の両班(ヤンパン)が地主や高級官僚として実権を握った。16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮に侵略したが、李舜臣らの活躍でこれを撃退した。朝鮮ではこれを壬辰・丁酉の倭乱(じんしん・ていゆうのわらん)と呼んでいる。
a0226578_829571.jpg
 世宗王と彼が刊行させたハングルの概説書。(東京法令『世界史のミュージアム』より)
a0226578_8402751.jpg
李舜臣と亀甲船
李舜臣は大砲を装備した亀甲船を駆使して日本水軍を打ち破った。最後の海戦で戦死したが、現在も韓国では護国の英雄として尊敬されている。李舜臣の銅像は韓国各地に建てられているが、すべてが日本の方向を向いているといわれる。(東京法令『世界史のミュージアム』より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-06-10 07:30 | Comments(2)
 第19回世界史講座は5月26日(土)午後2時より、「明清帝国の繁栄」をテーマにおこなわれました。受講者は7名でした。
 第7章 アジア諸地域世界の繁栄と成熟
  Ⅰ 明清帝国の繁栄
1 明の建国
 紅巾の乱の指導者の一人であった朱元璋は、地主勢力と手を結び、1368年、南京を都とする明を建国した。元をモンゴル高原へ押し戻し、再び漢民族の王朝が成立した。
 朱元璋は皇帝となり洪武帝と名乗った。彼は宰相制度を廃止し、官僚と軍隊を皇帝が直接支配する皇帝独裁体制を樹立した。
 農民を、税をとる民戸と兵士を出す軍戸とに区分した。民戸には、里甲制、軍戸には衛所制をしいて支配した。土地台帳である魚鱗図冊や租税台帳である賦役黄冊をつくらせ徴税し、父母への孝行や目上への尊敬など6か条の教訓である六諭を定めて人民を教化した。六諭は日本にも影響を与えた。江戸時代に幕府が六諭の奨励をうながしただけではなく、明治になると教育勅語にも取り入れられた。
2 永楽帝の拡張政策
 洪武帝の死後、永楽帝がクーデターにより皇帝となり、都を北京に移してモンゴル高原の遊牧諸民族にそなえた。
 永楽帝は、積極的な対外政策を実施し、モンゴル高原の遠征やヴェトナムを一時併合した。海上交易では海禁政策をおこなった。それは、貿易を皇帝が統制するもので、事実上の鎖国政策である。その背景には倭寇と呼ばれる海賊に対処するためでもあった。一方、永楽帝は宦官の鄭和に南海遠征を命じた。この大艦隊の艦隊数は208隻、乗組員の数は2万7000人を超えていた。南海遠征は7回も行われ、東南アジア諸国に朝貢をうながした。永楽帝が鄭和に南海遠征を行わせた理由は、明が漢民族の国家であり、中華思想にもとづいて東南アジア諸国に中国への朝貢を促す必要があったからであると言われている。
a0226578_18315585.jpg
明代のアジア(地図中の絵は、鄭和が遠征の時に乗った船)(東京書籍 新選世界史Bより)
(鄭和については、このブログのカテゴリその他のイヴン=バトゥータと鄭和をぜひ読んでください。)(つづく)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-05-27 18:38 | Comments(0)
 Ⅱ モンゴル帝国の興亡
1 モンゴル帝国の成立
 13世紀はじめ、テムジンはモンゴル諸部族を統一し、部族長を集めた集会で大ハンの位に就き、チンギス・ハンと名のった。
 1227年、西夏を滅ぼし、彼の死後、華北を支配していた金を1234年に滅ぼした。また、西アジアにも遠征し、1258年にはアッバース朝を滅ぼした。やがてモンゴルは四ハン国に分裂し、西北モンゴルはオゴタイ・ハン国が、中央アジアにはチャガタイ・ハン国が、ロシアにはキプチャク・ハン国が、イランにはイル・ハン国が成立した。
2 元の中国支配
 13世紀後半に大ハンとなったフビライは、都を大都(現在の北京)に移し、中国風の元王朝を開いた。
 1279年、南宋を滅ぼし、中国全土を支配した。チベット、大理、ミャンマー、を征服し、高麗を一時属国とし、日本、ヴェトナム、ジャワにも遠征したが、失敗した。
 元寇が失敗した背景には次のような要因が考えられている。一つは、モンゴルが高麗の征服に対して、三別抄軍と呼ばれる高麗の軍隊が頑強に抵抗したことにより、モンゴル軍の勢いがそがれたと言われている。モンゴルは、日本遠征に対して高麗軍を派遣するが、高麗に対して船舶の建造を命じるが間に合わず、船底の平らな川船をも利用した。その結果川船は暴風には弱く、多くの船は沈没したのである。次に、当時の日本は鎌倉幕府の時代であり、武家政権が権力を握っていた。元寇と戦った武家たちは恩賞を得るために積極的に戦い、その結果、元寇は陸地に野営せずに船に戻り暴風にあったのである。
 モンゴルの中国支配は民族による身分支配がおこなわれていた。モンゴル人は官僚の要職を独占し、色目人(西域諸民族)に財政などの実務に当たらせ、漢人(金の支配下にあった人々)や南人(南宋の支配下にあった人々)などを区別して支配した。特に南人が最下層に置かれたのは、南宋がモンゴルに最後まで抵抗したからである。
 儒学は軽んじられ、科挙も一時中止された。しかし、中国社会の仕組みには手を加えず、地主による大土地所有がさらに進んだ。
 江南と大都を結ぶ大運河が整備され、交鈔と呼ばれる紙幣を発行し、商工業は発展した。
 フビライの死後、帝位をめぐるる争いが続き政治が混乱した。また、チベット仏教(ラマ教)の保護に膨大な費用をかけたため、財政難をまねいた。その打開策として交鈔を乱発し経済は混乱した。
 14世紀中頃から、各地で反乱が起こったが、白蓮教徒が起こした紅巾の乱をきっかけに、元はモンゴル高原に退くこととなった。
3 元代の文化
 庶民文化が発達した。元曲と呼ばれる雑劇がはやり、『水滸伝』や『西遊記』『三国志演義』といった白話(口語)小説の形ができた。
 モンゴルの大帝国が形成されたことにより東西文化が交流し、イスラーム文化と学問が伝わった。
 Ⅲ ユーラシア諸地域の交流と再編
1 モンゴル帝国の出現とユーラシア大陸
 モンゴル帝国がユーラシア全域にまたがる支配を打ち立てたことは、それまでの諸地域間の交流を発展させた。モンゴル帝国が領内の駅伝制を整えたため、東西貿易が盛んとなった。
 この頃世界の諸効果が中国にやって来た。フビライに仕えたマルコ・ポーロの『東方見聞録』はヨーロッパの人々にアジアへの関心を高めた。
 モロッコ出身のイブン・バトゥータの旅行記は東南アジアや大都の様子を伝えた。
a0226578_10313478.jpg
交鈔(にせ札をつくるものは死刑に処することが記されている。)(東京書籍 『新選 世界史B』より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-05-15 10:31 | Comments(2)