カテゴリ:歴史のとびら( 9 )

 心理学者のフランクルはユダヤ人であるというだけで、アウシュビッツへと送られた。しかし彼は生きぬいた。ほとんどの囚人たちがガス室に送られたにもかかわらず。なぜ彼は生きぬくことができたのか。彼の記述からその答えをさぐってみよう。
 アウシュビッツは、ワルシャワの南西約257㎞に位置する人口1万2000人の小さな町で、戦前にはポーランド以外の国ではまったく知られていなかった。ここで1万人の人間が毎日ガス室に送られ、300万人以上が殺された。
 貨車から下ろされた囚人たちは、男女別に1列に並ばされ、1人の親衛隊の高級将校の前に進む。そして、彼の右手人差し指の少しの左右への動きが、囚人たちの生命を決するのである。それは「最初の選択」だった。
 90%の者は、労働不能者と見なされて右へと振り分けられた。彼らは停車場のプラットフォームから直接ガスかまどのある火葬場に連れて行かれ、「浴室」と書かれた所へ一片の石鹸を手におしつけられる。そして、その「浴室」で毒ガスのシャワーを浴びせられるのである。
 「生命が助かろうと思うならば、たった1つだけ方法がある。」---フランクルに対してある『先輩』は、こう忠告した。「それは労働が可能だという印象を与えることだ。君たちがちょっとしたつまらない傷や靴ずれでびっこをひくだけで、もうおしまいだぞ。誰か親衛隊員がそれを見つけ、そいつのそばにくるように合図し、そして翌日はガス行きはうけあいだ。ひげを剃れ、そしていつもまっすぐに立って歩け、そうすればガスの心配をする必要はない。」
 繊細な性質の人間が、しばしば頑丈な身体の人々よりも収容所生活をよりよく耐え得たのはなぜか。それは、恐ろしい周囲の世界から、精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。たとえば、愛する妻と心の中で語り合うことによって精神的な充足を得ることができる。フランクルは、極限状態の中で愛の尊さを再確認するのである。
 ユーモアも自己維持のための闘いにおける心の武器である。たとえ数秒、あるいは数分間だけのものであっても、心にゆとりを持ち、きびしい環境の外に自らを置くのに役立つ。
 収容所生活の末期には、1日に1回わずかなパンが配給されただけだった。フランクルはそれを1回で食べてしまわないで、朝起きたときのために残しておくことにした。収容所生活のもっとも恐ろしい瞬間である起床時に、前夜倹約しておいたパンを食べるというかすかな喜びを残しておくために。
そして、未来を失った者もまた滅亡していった。1944年のクリスマスと1945年の新年との間に収容所ではいまだかつてなかったほどの大量の死亡者が出ている。
 それは過酷な労働条件によっても、また悪化した栄養状態によっても、また悪天候や伝染疾患によっても説明され得るものではない。むしろこの大量死亡の原因は、単に囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという、素朴な希望に身をまかせた事実の中に求められる。
 彼は生きぬいた。そして彼の記述ほど、「人間とは何か」を考えさせるものはないであろう。
   参考文献 フランクル著 霜山徳爾訳 『夜と霧』みすず書房 1961年
 
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 イギリスBBC放送が制作した番組の中で、「蒸気機関車を発明したのは誰ですか」という質問が街頭で行われていた。そして、ほとんどの人たちが「スティブンスン」と答えていた。イギリス人でさえ蒸気機関車の発明者をスティブンスンと見なしているのであるから、日本の教科書にも彼の名前が書かれているのも当然のことであろう。
 蒸気機関が発明された初期のころから、発明家たちは、馬やロバで引っぱっていた車を、いつかは蒸気が動かすようになるだろうと思っていた。最初の蒸気機関車(今でいう蒸気自動車)は、1769年にフランス人クーニョによって作られたが、最初の実験でこの車は破損した。1801年トレヴィシックは高圧蒸気で動かす、もっと改良した車を公開した。それは道路上で毎時8~9マイル(約12.8~14.6㎞)の速度でしかなかった。それ以後開発は進んでいったが、これらの蒸気機関車は、陸上交通を支配することにはならず、独自の道路、すなわちレールの上を走ることによって成功することになったのである。
 蒸気機関車が登場するはるか前、16世紀ごろから重い鉱石を運搬するのに、トロッコに木製のレールが用いられていた。やがて1767年に鋳鉄レールにかわり、19世紀の中ごろ、本格的な鋼鉄レールが発明されるまでこれが使用されていた。
 最初の鉄道用機関車を設計したのは、サイミントンとマードックであり、1784年のことであった。そして、貨物輸送のために蒸気機関車を走らせる鉄道は、1801年ワンズウァースとクロイドンとの間に開通した。
 しかし、より本格的な蒸気機関車はトレヴィシックによって作られた。彼は高圧の「トラム・エンジン」を設計し、1804年ウェールズのマーサーからアバーサイノンまでの試運転に成功した。
 しかし、彼の作った「機関車号」は経済的ではなかった。これより以後、機関車の設計と実験がたくさん行われたが、それらも完全ではなかった。なぜなら、燃料の効率が悪いために大型の蒸気機関が必要であり、その重さに耐えられずにレールが破損してしまったからである。
 鉄道に対する抗議も出てきた。王立学会のある委員会は、列車の速度が毎時30マイル(約48.3㎞)を超えると車室に空気が入らなくて、乗客を窒息させるだろうという結論を出した。またある委員会は鉄道沿線の牛が、ほえたてる怪物に恐れて、乳の出が少なくなるだろうと主張した。
 スティブンスンが蒸気機関車を製造したのは、トレヴィシックより10年遅く、1814年ごろである。しかし、1825年には最初の公共鉄道をストックーダーリントン間に走らせ、さらに1829年「ロケット号」を製作し、リヴァプールで行われた競争に勝利をおさめた。
 スティブンスンの成功の原因は、蒸気シリンダのピストンを機関車の車輪に直結して、燃料から得られる出力を最大限にしたことと、当時のレールの改良が進んでいたことであった。
 そして、鉄道事業にも成功したスティブンスンは、やがて「蒸気機関車の父」として名前を残した。一方、鉄道事業に失敗したトレヴィシックは、蒸気機関車から手を引き、やがて極貧の中で死んでいき、多くの人たちから忘れ去られていったのである。
    参考文献 RJ.フォーブズ著・田中実訳 『技術の歴史』 岩波書店 1956年
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 売国奴か愛国的英雄か。朝鮮の歴史上、金玉均ほどその歴史的評価の分かれている人物も少ない。彼はどのような人物で、なぜこのように歴史的評価が分かれるのか。
 金玉均は1851年2月朝鮮半島の忠清南道公州郡に生まれた。彼の家柄は、上層両班(ヤンパン)貴族に属したが、父は任官しなかったためあまり裕福ではなかった。6歳のときに叔父の養子となり、名門官僚貴族の生活に入った。
 1872年、22歳で李氏朝鮮の科挙試験に首席で及第し、官僚エリートコースにのり、諸官職を歴任した。このころ実学思想の影響を受けて近代的科学精神を身につけ、1881年以降来日し、福沢諭吉などの影響を受けて朝鮮の近代的革新を志すようになった。
 19世紀末、朝鮮で権力を握っていたのは、王妃閔氏一族であった。この勢力は清朝と手を結び、封建的支配を維持させようとするもので、守旧派あるいは事大党と呼ばれる。
 金玉均は、朝鮮の近代的改革をおこなうためには、閔氏一族を打倒する以外にないと考え、朴泳孝・洪英埴などの名門貴族出身者とともに開化派を組織した。そして、清仏戦争で清軍が打撃を受けた1884年に行動を起こすことを決定するのである。
 彼らの計画は次のようなものであった。郵政局の新築竣工パーティー時に隣の建物に放火し、その混乱を利用して、パーティーに出席していた閔氏一族を暗殺する。そして、国王を保護し、その間に新政府の綱領を発表する。もし清軍が行動を起こした時には、日本駐留軍がこれを迎え撃つ。日本の駐朝公使である竹添進一郎も協力を約束した。
 1884年、12月4日、クーデターは計画通りに実施され、12月6日には14カ条の新政府綱領が発表された。しかし、閔氏の要請を受けた清軍は、袁世凱の指揮で12月6日午後3時ごろ攻撃を開始した。当時、ソウルには清軍2000あまりが駐在し、日本軍はわずか200あまりであった。多数の清軍の侵入に驚いた日本軍は、約束を破って逃亡し、残された約100名の開化派の軍隊が最後まで戦ったが敗れ、金玉均の政権は文字通り「三日天下」に終わった。これが「甲申政変」と呼ばれるものである。
 なぜ北朝鮮では、金玉均を高く評価するのか。その理由は、金日成の次のような発言が背景にある。「よその国にはみなブルジョア革命運動があるのに、なぜわが国の歴史にだけそれがないのか。中国には康有為や梁啓超のようなブルジョア革命家がいるのに、わが国にはいないのか。わが国にいたとすれば金玉均をあげることができる」と。これ以後、北朝鮮では、「甲申政変」をブルジョア民主主義革命と位置づけ、金玉均は愛国的英雄と評価されるようになった。
 一方、日本の朝鮮支配を徹底的に批判しようとする日本の歴史学者の中には、金玉均は日本の朝鮮侵略に手を貸した売国奴とうつるのである。金玉均の評価は、このようにその立場によってまったく相反するものとなってしまった。
 さて、クーデターに失敗した金玉均は命からがら日本に亡命した。しかし、政変の失敗のゆえに日本政府に厄介者扱いされ、日本を追い出されてついに1894年3月28日、上海で朝鮮国王の刺客に殺されるのである。遺体は朝鮮に送還され「大逆無道」の罪人として死体を引き裂く極刑に処された。

参考文献 梶村秀樹著 『朝鮮近代史と金玉均の評価』(『思想』1966年12月号) 岩波書店
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 1989年4月、日本で消費税が初めて導入された。そして、その年の参議員選挙では自民党が大敗し、参議院における与野党の勢力が逆転し、現在と同じようなねじれ国会という現象が現れた。消費税導入に対する国民の不満の現れである。
 消費税反対の闘いは、ドイツ三月革命の一つであるウィーン革命にも現れた。1848年3月、ウィーンの学生たちが検閲の廃止、国民軍の復活、憲法制定などを要求した請願書への回答を求めて身分制議会の会場へと押し掛けた。これをきっかけとして民衆と軍隊の衝突へと進んだ。この闘いは、市民革命の政治的課題を国王に約束させることによって収束に向かう。
 ウィーン革命には、もう一つ別の革命が存在した。それは、市外区の労働者の革命である。この頃、ウィーの都市構造は、市壁や外柵によって、貴族・金持ち市民が住み、商業を中心とする市内区と、小市民的手工業者および労働者が住み、製造業を中心とする市外区とに区分されていた。そして、市内区の革命は、政治的ないし経済的機構の改革に向けられていたのに対して、市外区の革命は、労働者の日常生活に密着した社会的なものであった。
 革命が進展すると、労働者たちは不正をおこなうパン屋・肉屋・高利貸しなどへの攻撃へと向かった。そして、その攻撃の方法は、「猫ばやし」と呼ばれるものであった。それは、もともとウィーン河畔劇場の芝居からおこったもので、市内区の革命においては一つの儀式であった。学生たちは銃を楽器にかえて、目指す相手の家に押しかけて音楽を奏でることにより、「この者は反動である」というレッテルを貼る。だが銃を持たない労働者にとっては、「猫ばやし」はりっぱな武器であった。相手が謝罪し、何らかの罪のつぐないをおこなわなければ、窓に向かって投石し、その財産を破壊し、ときには暴力行為にまで発展した。
 市外区の革命の中心となったのは、消費税廃止の闘いであった。ウィーンの消費税は、1829年に導入された。各市門には、消費税徴収所が設けられ、市内区・市外区を問わず、ウィーンに運び込まれるあらゆる消費物資に対して、定められた関税を課していた。それはパン・野菜・卵・肉・ワインなど、もっとも基本的な日常品にまで及び、間接税収入の5分の1を占めていた。
 三月革命が起こると、市内区の革命から排除された労働者たちは消費税徴収所を襲い、事実上消費税は廃止された。しかし革命が収束すると、政府は一定の譲歩をしながらも消費税を再開した。
 消費税の問題は思わぬ形で解決する。10月にハンガリー革命の鎮圧に派遣される軍隊に反乱が起こり、革命化した政府は、反革命軍に対抗するために労働者の力を借りざるを得なくなった。そのため労働者に武器が与えられ、彼らは「遊撃軍」として組織されることとなった。この日に、食料品に対する消費税が廃止されたのである。つまり、労働者自らの革命の力によって消費税は廃止されたのである。
         参考文献 増谷英樹著 『ビラの中の革命』東京大学出版会 1987年
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 辞書によると、ダッチワイフには二つの意味がある。一つは竹夫人(南洋地方で暑熱の苦を軽減するため寝床で使う藤製などの手足載せ用まくら)とあり、もう一つは性的な目的で用いる代用女性人形とある。有名なのは後者の意味である。
 なぜ代用女性人形にダッチという名がつけられたのか。ダッチと名のつくものはこの他に、ダッチアカウントあるいはダッチペイ(割り勘)・ダッチコンサート(騒音)・ダッチバター(人造バター)・ダッチロール(ものすごい横揺れ)などがあり、ダッチは悪いものの代名詞として英語で使われている。
 英語の語源辞典によると、ダッチとは、ライン川の河口地方に住むドイツ人一般、あるいはドイツ語を意味することばで、古代ローマ人がそう呼んでいた。その起源はケルト語に由来するが、時代がくだるに従って、オランダを指すようになっていった。オランダは俗称で、公式にはネーデルランド王国である。ネーデルランドとは低地を意味する言葉で、なぜオランダと呼ぶのかと言うと、オランダは、七つの州から成り立っておりその中心となった州名がホラントであったことから、オランダと呼ばれるようになったのである。では、なぜダッチが悪いものの代名詞となったのか。
 オランダが彗星(すいせい)のごとく登場してきたのは、スペインから事実上の独立を達成した16世紀末から17世紀はじめのことである。オランダ商人は、スペインが握っていた東西両インド貿易になぐりこみをかけ、1595年には、最初のオランダ商船隊がジャワに到着する。
 1602年、オランダ各地の都市に生まれていた東インド貿易商社が合併されて、株式会社の起源と言われるオランダ東インド会社が設立された。この東インド会社は、イギリスに比べ10倍の資金を集め、17世紀のオランダの繁栄を築いたのである。
 当時、アジア貿易でもっとも利益のあったものがスパイスである。とくにクローブやナツメグは高価であり、コショウの10倍の値段で取引されていた。そして、クローブやナツメグの主産地がモルッカ諸島やバンダ諸島など、いわゆる香料諸島と呼ばれる島々であった。
 オランダは、香料貿易を独占するために、これらの島々に艦隊を送り、土着君主にせまってオランダとの単独取引契約を結ばせた。このような過程で起こったのが1623年の「アンボン虐殺事件」である。
 この事件は、イギリスがアンボン島にあるオランダの城塞を奪取する陰謀をおこなったとして、イギリス人10名とそれに加担した日本人9名が斬首の刑に処せられたものである。しかし、この事件は、オランダ側がイギリス勢力を打倒し、香料諸島を独占しようと企てたでっち上げ事件であり、のちのちまでイギリスがオランダを憎む原因となった。
 オランダの世界商業の覇権に対して、市民革命を達成したイギリスは、強引に戦いを挑んできた。それが、1651年にクロムウエルが出した「航海条令」である。これをきっかけとして、1674年までに3回の蘭英戦争がおこなわれ、イギリスの勝利に終わるのである。
 オランダの敗北の要因には、海軍力の弱さや分権的な政治体制があげられる。それと関連して、次のような理由がある。オランダ商人は、商業貿易で獲得した富を自国に投資せず、より利潤の高い投資先を求め、敵国であるイギリスに投資した。イギリスはその資金で海軍力を充実させることができ、オランダに勝利をおさめることができたのである。
 ダッチワイフということばの背景には、このようなイギリスとオランダとの対立の歴史がある。
          参考文献  浅田實著 『東インド会社』 講談社現代新書 1989年
 
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 昔ばなしは、その時代に応じた解釈がおこなわれるものである。たとえば、「桃太郎」にもそれが言える。この物語は、江戸中期ごろにほぼ現在の形式にまとめられたものである。ただし、桃太郎は桃から生まれたのではなく、桃を食べたおじいさん、おばあさんが若がえることにより、子ともが生まれたという原型が残っている。
 戦前の「桃太郎」は、日本の帝国主義支配に利用された。鬼ケ島は植民地で桃太郎は日本であると見なされ、日本の植民地支配を正当化する解釈がおこなわれた。
 イギリスの昔ばなしを代表するものに「ジャックと豆の木」がある。この物語はジェイコブズという民俗学者が、大英帝国博物館の書庫に眠っていたアングローサクソン民俗の古来の原話を収集し、それを民話にしたもので、1890年に『イングランド民話集』という書名で出版され、多くの人たちに知られるようになった。
 この物語の中心は、貧しく勇敢なイギリス少年ジャックが、雲の上に住む人食い鬼から、1回目に金貨を2回目に金のたまごを産むめんどりを、3回目には金のハーブを奪い、最後には人食い鬼を殺してしまうというかなり残酷な物語である。ところが読者である子どもたちは、宝物を盗んだジャックを悪い少年だとは思わない。むしろ、人食い鬼が殺されて喜ぶのである。なぜなら人食い鬼は、少年を火であぶり食ってしまうという凶暴性を持っているから。
 『ジャックと豆の木』が出版された19世紀末のイギリスは、ヴィクトリア朝時代であった。この時代にイギリスは、アジア・アフリカなどの植民地を拡大し、大英帝国と呼ぶのにふさわしい時代となった。
 さて、この物語は、ヴィクトリア朝時代のイギリスの植民地支配を正当化する論理ときわめてよく似ている。
 人食い鬼の住む雲の上の世界とはアジア・アフリカの植民地で、人食い鬼は異教徒で異民族の植民地住民である。そして、当時のイギリス知識人の黒人や黄色人種への差別意識が、世界各国を植民地として支配することを正当化するようになった。
 植民地支配は、ジャックと同じように、はじめからうそや窃盗や略奪や殺害をめざしたものであった、とまでは言えない。しかし、ジャックがそうであったように、純粋な冒険心がうすれてやがて変質していった。甘美な音楽をかなでる金のハーブ、これはおそらく、人食い鬼の文化遺産のシンボルでもあったろう。だからジャックは、植民地の財宝や文化を収奪するさいには、それを正当化する口実が必要だった。それが、野蛮の典型と見られる食人の習慣だった。ジャック自身は、自らの目でそれを確かめたことは一度もなかったのにもかかわらず。
 この物語の再話者ジェイコブズは、被抑圧民族のユダヤ人であった。彼は、帝国主義的風潮が一世を風靡(ふうび)しているただなかで、ジャック=帝国主義者の素顔をあぶりだすことによって、時代の風潮に一矢を報いたかったのではないか、とイギリス近代史研究者の長島伸一氏は指摘する。
             参考文献 長島伸一著 『大英帝国』講談社現代新書 1989年
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 東アジア世界では、年を表すものに元号だけでなく干支が使われてきた。中国では「辛亥革命」
、朝鮮では秀吉の侵略を「壬辰の倭乱」、日本では「壬申の乱」など。
 さて、干支の使用は殷の時代にさかのぼることができる。それは殷虚からでてきた甲骨文字(こうこつもじ)の中に見られるからである。この頃は、「日」を表すのに使われており、年として使用されるのは戦国時代か前漢の初期であろうと言われている。
 干支は、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の十干(じゅっかん)と、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(いのしし)の十二支とを組み合わせたものであり、60年ごとに暦の上で同じものに還るから、人が満60歳になったとき還暦の祝いをする。また、干支の干は幹であり、支は枝ということばからきたものである。
 干支の十と十二との数はどこからきたのか、十二支は月の満ち欠けを見て決めたのであり、十干は五行説から出たものである。
 五行思想は中国の最古の書籍『書経』に、「一に曰(いわ)く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土」と出ている。これだと水・火・木・金・土の順になっているが、戦国時代の鄒衍(すうえん)という思想家は、五行の相勝説(そうしょうせつ)をとなえた。それは、五行相互の間は循環する関係があるという原則で、木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に、水は火に、土は水に、それぞれ勝つという説であり、終始五徳説とも呼ばれる。つまり、この原則で四季のうつりかわりから王朝の興亡交代まで説明しようとする。たとえば、各王朝はそれぞれ五行のひとつにあたる徳を持っているとして、相勝説によって古くからの王朝の興亡を説明する。
 夏王朝は木徳だったので金徳の殷に代わられ、殷はさらに火徳を持つ周に敗れたという具合である。だから、周に代わるべきは水の徳でなければならないから、始皇帝はこの説を採用して、天の意思により水徳を持っておこった秦は、正統にして神聖な王朝であると主張した。
 ところが、前1世紀末頃の前漢時代になると、相勝説とは違って、木は火を生み、火は土を生み、土は金を、金は水を、水はさらに木を、それぞれ生むという説が出された。この説は相生説(そうせいせつ)と言われるが、この説も王朝の交代の根拠に利用された。漢が火徳とされていたところからみると、相勝説では自分の王朝を正統化しにくいので、改めて相生説をとなえたのであろう。
 さて、干支はこの相生説の順によるのである。十干の甲乙を一組にして木、丙丁を火、戊癸を土、庚辛を金、壬癸を水の五行に配し、その前のものを兄(え)とし、後のものは弟(と)として、甲はキノエ(木の兄)、乙はキノト(木の弟)、丙はヒノエ(火の兄)、丁はヒノト(火の弟)、戊はツチノエ(土の兄)、己はツチノト(土の弟)、庚はカノエ(金の兄)、辛はカノト(金の弟)、壬はミズノエ(水の兄)、癸はミズノト(水の弟)とするのである。そして、これと十二支を組み合わせて、たとえば丙午をヒノエウマと呼ぶのである。また、十干のことばの終わりはすべてエ・トであり、そこから干支をエトと呼ぶようになった。また、阪神タイガースの球場は、1924(大正13)年の甲子年(キノエネのとし)に造られ、十干十二支の最初の組み合わせにあたり、60年に一度の縁起の良い年だということから甲子園球場と名づけられたのである。
                参考文献 諸橋轍次 『十二支物語』 大修館書店 1968年
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 『三国志』は、中国だけでなく日本においても、小説・人形劇・まんが・アニメなどで今でも人気がある物語であり、その中でも諸葛孔明と並んで人気の高いのが関羽である。
 「関羽は、山西省の出身でいつ生まれたかは不明。劉備・張飛と兄弟の契(ちぎり)りを結び、蜀漢(しょくかん)の武将として活躍。一度魏の曹操に捕えられ帰順をすすめられたが、白馬の役で曹操のために敵の将顔良を斬って、再び劉備のもとへ帰る。208年の赤壁の戦いで、水軍を率いて大活躍し劉備が四川省の成都に根拠地をおくと、襄陽(じょうよう)太守となって、荊州(けいしゅう)の勢力拡張につとめた。魏・呉に恐れられ、結局両者のはさみ討ちにあって呉に捕えられても最後まで節を曲げなかったために、219年に殺された。」(『中国史人名事典』新人物往来社)
 この関羽が、宋代以降「関帝」と呼ばれる道教の神となって祀(まつ)られたが、とくに清朝時代に入って盛んとなった。それは、清軍が明軍と戦ったときに常に清軍を加護をしたという理由である。そのため、一般の人たちからも信仰され、小さな部落にまで関帝を祀った関帝廟(びょう)が作られるようになった。
 30年ほど前に台湾旅行に行ったとき、知人の社長宅に招待されたが、そこでも関羽が道教の神として祀られていた。台湾では今でも道教は熱心に信仰されている。
 さて、それでは道教とはどういうものなのか、窪徳忠氏によると、「古代の民間の信仰を基盤とし、神仙説を中心として、それに道家・易・五行・讖緯(しんい)・医学・占星などの説や巫(ふ)の信仰を加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた、不老長生を主な目的とする呪術宗教的傾向の強い現生利益的な自然宗教だ」と定義されている。
 このように道教は非常に幅の広いもので、唐代に観音信仰が盛んになって以来、観音を多くの神々の最上位におくなど、仏教との混同もおこなわれている。
 また、道教は日本人の生活の中にも相当とけ込んでいる。還暦のお祝い、子供の日に菖蒲を飾るお祝い、さらに丙午(ひのえうま)年の女は妻にするなといった習俗は、道教に由来している。
 さて、道教が仏教・キリスト教・イスラム教など他の宗教と異なる点は、徹底した現生利益を求めるところにある。そのために商人たちの信仰があつく、実は関羽も商売の神とされている。
 なぜ関羽が商売の神とされるようになったのか、それには次のようなエピソードがある。
「関羽を捕えた魏の曹操は多額の金銀を与えて歓待したが、彼はある夜金銀はそっくりそのままにして、同時に捕えられていた劉備の夫人を護って劉備のもとに逃げ帰った。」
 このように関羽は義にあつく信頼のおける人物であり、商人にとって信用が最も大切であること。また、関羽は金銭に淡白だったことが、逆説的に財神とされたのであろう。また彼は、金銭出納簿や算盤を作ったともされている。
 このように関羽=関帝は、軍神・財神とされたが、さらに災難を予知する神、無礼を許さぬ神、死者を蘇生させる神、地獄の長官、天界の南大門の守護神などさまざまな神とされた。また仏教にもとり入れられ、寺の守り神ともなっている。大変な人気者である。

               参考文献 窪徳忠 『道教史』 山川出版 1980年
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 酒は人類の歴史とともに古く、世界のあらゆる所で作られてきた。日本には日本酒、中国には老酒、フランスにはワイン、ドイツにはビール、ロシアにはウォッカ、そしてイギリスにはウィスキーがある。
 その中で一番古い酒は何か。おそらくワインであろう。ワインは人類がまだ農耕を知らない時代に、貴重な栄養源(とくに炭水化物)をとるために、ぶどうを容器に入れて保管しておくところから作られたものであると思われる。次に古いのはビールで、今から5000年ほど前に、メソポタミアのシュメール人たちによって作られていたという資料が残されている。
 さて、ウィスキーは、穀物を原料とした蒸留酒を樽に貯蔵した酒である。その歴史は、ワインやビールに比べはるかに新しく、今から1000年ほど前にアイルランドの錬金術師たちによって、はじめて作られたと言われる。彼らはこの蒸留酒を「ウィスゲ・バハ」(生命の水)と名づけ、これがウィスキーの語源になっている。アイルランドからスコットランドに蒸留の技術が伝わったのは、ヘンリー2世がアイルランドに遠征した時(1170年)と言われている。
 ウィスキーが名酒であると言われるのは、なんといっても、あの妖しく輝く琥珀色と特有の香りにある。ところが、この色と香りは、最初のころのウィスキーにはなかった。当初は蒸留した無色透明のものを、貯蔵熟成させずにそのまま飲んでいたのである。
 現在のウィスキーが誕生したのは、1790年代にイギリス政府が、ウィスキーの製造に必要な蒸留器の免許に15倍の税を課したことに由来する。
 18世紀のイギリスは、絶対主義国家として発展してきたフランスと、インドや北アメリカなどの植民地をめぐって激しく争っていた時代であった。
 このような戦争に勝利するために、イギリス政府は増税が必要となり、大衆の酒であったジン(トウモノコシと麦を原料とし、杜松(ねず)の実で香りをつけた蒸留酒)やウィスキーに目をつけたのである。すでに17世紀にはビールに大幅な課税がされていた。
 さて、スコットランドのウィスキー業者の一部は、この大幅な課税に反対して山に入り、密造酒を作るようになった。山の中に埋もれているピート(泥炭)を燃やすことにした。その上、できたウィスキーを一度に山から下ろすのは人目について危険であったため、貯めておいて少しずつ売ることにした。そのためにはたくさんの樽が必要であり、そこで使い捨てられていたシェリーの空き樽をもらってきて貯蔵することにした。
 この貯蔵したウィスキーは、シェリーの匂いをかすかに持った木香(きか)が移って、これまでにないすばらしい香りがつき、その上、樽からはみごとな琥珀の色が出てきて、味も熟成によって丸くなめらかなものに変わった。
 それ以来、スコッチ・ウィスキーは、ピートの煙をしみ込ませたモルト(大麦麦芽)を原料にし、20年以上使用したシェリーの古樽に貯蔵し、熟成させるようになったのである。
 つまり、現在のウィスキーは、1790年代にイギリス政府が行った課税に対する、業者の抵抗運動のなかで生まれたものなのである。
 (参考文献) 小泉武夫 『酒の話』 講談社現代新書 1982年
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