カテゴリ:授業実践( 107 )

6)南京条約
(資料f)
1.香港島の割譲 
2.賠償金2700万ドルを支払う
3.広州・福州・厦門・寧波・上海の五港開港
4.公行の廃止による貿易の完全自由化
追加条約により
①領事裁判権(治外法権)②片務的最恵国待遇 ③関税自主権喪失
(一橋出版 教科書 「世界の歴史B」)
問① 資料fは何と呼ばれる条約ですか。
問② この条約ではアヘンに対する条項がないのはなぜでしょうか、調べてみよう。
(解説)
①1842年8月29日、清朝全権大使らを南京沖の長江上の旗艦コーンウォリス号に呼びつけたイギリス軍は、南京条約を調印させた。②「南京条約には戦争の原因となったアヘンに関する条項がない、その貿易量は1839年の1年だけは激減したが、戦争中にまた急増し、戦後はさらに伸びている。条約締結の直前に双方の代表が『公然たる密輸』で合意していたからである。すなわち条約にはアヘン条項を入れないが、清朝官憲はアヘン密輸を取り締まらないという内容である。」(中央公論社「世界の歴史25」)
【課題】
① アヘン戦争を従来のようなとらえ方でよいのか。
  前回の原さんが紹介した浜下武志氏の「これまでアヘン戦争はもっぱらイギリス、アメリカ側の貿易利益を貫徹するための、閉鎖的なアジア各国を市場として開放するための戦争として理解されてきたからである。しかし、この朝貢政策の転換にみられるように、むしろ清朝が朝貢関係をそれ以前よりも緩やかにし、独自の重商主義政策をとろうとしていたということが考えられる。すなわち、朝貢政策を転換させることによって、清朝中央が急増する広東貿易に力をそそぎ、財をそこから吸収しようとしたということである。同時にこのことは、広東の地域主義として、貿易に特化し、かつ広東貿易を掌握しようとする地域の利害も大きく働いており、それが中央の財政政策に大きく影響を与えていたと思われる。いわゆる、アヘンの厳禁論と弛禁論との対立である。同時に、広東十三行の商人達が外国商人と密接に交易関係を結んでいたということも思いおこされるのである。これに対して清朝中央は重商政策に移行しようとし、そのために、独自の利益を追求しようとする広東地方の動きを、林則徐を派遣することによって中断させようとした、とみることもできよう。その意味ではアヘン焼却事件を、広東貿易の利益をめぐる中央と地方の衝突、北と南の対立としてみることも可能であろう。」(岩波講座 世界史講座20)という問題提起を議論してほしい。
② アヘン戦争における「三元里の民衆の闘い」をどのようにとらえればよいのか。民衆は闘ったけれどもむだであったのか、それ以後の中国史の中でどのような役割を果たしたのかという問題を議論してほしい。
【質疑・討論】
 先ず資料a(イギリス使節マカートニーの乾隆帝との会見)の風刺画は誰によって描かれたのかという質問が出された。ネットで調べてみるとイギリス人のギルレイによって英国内で描かれた風刺画であることがわかった。この絵によって当時のイギリス人が中国人に対して持っていたイメージがよくわかり、このような絵画や写真など視覚に訴えるものが授業には有効であるかを再確認した。
 次に原さんから、清朝末期に存在した「冊封・朝貢システム」が、アヘン戦争やペリー来航によってどのような変化を受けていくのかという観点が重要であると指摘された。かつての「冊封・朝貢システム」から主権国家の誕生という観点で東アジアの変化をみていく必要を強調された。しかし、私や志賀さんは清朝末期には冊封・朝貢は形骸化されており、そのようなシステムは存在しなかったのではないかという反論が出され、これをめぐって議論が進んだ。
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4)アヘン戦争
(資料e)
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(東洋文庫蔵)
問① 上の絵は何という戦争をあらわしたものですか。
問② この絵で破壊されているのは何という船で、どこの国のものですか。
問③ この絵の右側に小さく見える船は何という船で、どこの国のものですか。
問④ この戦争は2年間もかかって戦われたのはなぜですか、また、この戦争はどのような特色を持っていたのかを調べてみよう。
(解説)
 ①アヘン戦争 ②破壊されているのはジャンク船と呼ばれる中国の船である。③イギリスのメネシス号と呼ばれる蒸気船である。④「戦争は予想を超えて2年以上にわたった。1840年秋には戦場を広東省に移し、1841年夏まで釘付けになった。ここではイギリス軍が上陸して地上戦になったが、清朝正規軍は戦闘を回避することが多かった。イギリスは制海権を保持しており、41年1月、香港島を占領して永久居留地とし、香港政府樹立を宣言した。本国およびインドから援軍が到着し、1841年秋に戦場を長江下流域に移した。イギリス派遣軍はのべ約2万人にのぼった。」(中央公論社「世界の歴史25」)しかし、イギリス陸軍の80%はインド人兵士であり、アヘン戦争は一面でインド人と中国人の戦いという特色を持っていた。
5)三元里の民衆の闘い
問① イギリスの広州侵略に対してこの地域で『官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる』という民謡がひろがったが、民衆はどのような対応をしたのか、次の資料を読んで考えてみよう。
 (資料f)
「イギリス兵の暴行に怒った民衆は、『洋鬼をたおすために集まれ』という合図のもとに、手に手に鋤・鍬・棒をもち、『平英団』(イギリスを平らげる)という旗をたてて立ち上がった。彼らは、撤退するイギリス軍の一隊を三元里で包囲した。1000人余りのイギリス軍を2万人以上の民衆が何重にもとりかこんだ。おりからの豪雨のためイギリス軍は多くの死傷者をだした。急を聞いて広州からかけつけた清朝の役人は、包囲した民衆に向かって、すぐに解散しなければイギリスへの賠償金の負担を三元里の住民に負わせると言っておどしつけた。地主などの村の有力者は必死になって解散を呼びかけ、ついに平英団の旗はおろされた。しかし、農民の怒りは消えず、「官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる」という民謡がひろがるなど、イギリス人への反感と清朝に対する不信感はいっそう強くなった。」
(一橋出版 教科書 「世界の歴史B」より、この教科書のアヘン戦争の部分は私が執筆しました。)
(解説)
 三元里の民衆の闘いの背景には次のような歴史的経過があった。林則徐は、マカオで発行されていた外国新聞、書籍の翻訳、研究などを行って、西欧事情の把握に努め、これをつうじて西欧文明の軍事技術面の優越性を認識した。彼はまた、のちの洋務運動にさきがけて、ポルトガル、アメリカから洋式大砲を購入し、自力でこれを製造することをも意図した。また正規軍だけではなく、沿岸の漁民、水夫を徴募、訓練して海上のゲリラ戦を準備し、広州周辺で、郷紳を中心に団練を組織させて、民族的な抵抗を展開する構えを見せていた。だが、彼のような官僚は例外的な存在であった。広州一帯を除いて、広大な沿海の防備はなきに等しく、民衆を武装して、民族的抵抗を進める発想はさらになかった。40年6月、中国沿海に到着したイギリス軍は、広州を素通りして北上し、8月には天津に近い白川河口に出現した。この遠征艦隊の威容に驚愕した清朝は、広州で交渉することを約し、林則徐を罷免して、妥協派の琦善に交渉を担当させたが、彼はイギリス軍の圧力になす術を知らず、没収アヘンの賠償、香港島の割譲を含む仮条約に調印した。道光帝はこれに激怒して琦善を罷免したため、イギリス軍は攻撃を再開した。41年5月、彼らは広州の近郊に上陸し、住民に対する略奪や暴行をくりかえした。これに対して広州の清軍はなすところなく敗退し、まもなく賠償金の支払い、清軍の広州城からの撤退などを認めた休戦協定が結ばれた。
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2)イギリスの中国貿易
(資料b)片貿易とアジア三角貿易
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(東京法令「世界史のパサージュ」より)
問① 上の図の18世紀では、なぜイギリスから銀が清朝に流出したのですか。
問② 19世紀の図では、なぜ東インド会社が書かれていないのですか。また、なぜイギリスはインドでアヘンを栽培させて清朝に輸出させたのですか。
問③ アヘン流入の結果清朝から銀がイギリスに流出したことは中国社会にどのような影響を与えたか考えてみよう。
(解説)
①イギリスではこの頃、紅茶が流行して中国茶が輸入されたが、イギリスの製品が中国で売れなかったため片貿易となり、イギリスから一方的に銀が流出した。②産業革命によりイギリス国内で銀の需要が高まると、新たな決済手段となったのがインド産アヘンであり、アヘンは中国では禁制品であったため東インド会社は表に出さず、先ず民間商人にアヘンを売り払い、彼らが中国に密輸出した。そのため1780年代から大量にアヘンが中国に流入することになった。③「野生のケシを原料とするアヘンの効用は、紀元前から知られており、利用されてきた。その主要成分はモルヒネで、強力な鎮痛作用をもつとともに習慣性(依存性)の強い麻薬にもなる。同じモルヒネという物質が医薬と麻薬の両面をもつ・・・ケシの花が散った直後(6月頃)、子房に傷をつけて出てくる汁が、太陽光で茶褐色になって固まる。これがアヘンである。それをピンセットで集め、子どもの頭ほどの球状にし、陰干しして、輸出用に梱包する。・・・中英間の戦争の原因になるアヘンは、19世紀アジア三角貿易を構成する中国・インド・イギリスを結ぶ三大商品(茶・綿布・アヘン)のひとつとして、18世紀末から登場する。そして大量に流通し、ほかの商品とは決定的に違う特殊な役割をもつようになる。」(中央公論社「世界の歴史25」より)中国から銀が流出した結果、銀貨が急騰した。清朝では「銀・銅両位制のため、密輸にともなう銀の流出が銀-銅のレートをくるわせ、急激な銀高銅安減少を招来した。それまで銀1両=銅銭600~800文ほどの安定レートで推移してきたのが、アヘン流入にともない、1830年代後半からは1500文と急騰した。銀で決められていた税額は2.5倍の計算になる。延納や納税拒否がおき、それが清朝財政を圧迫した。」(前掲書)また、アヘンの流入は中国に大きな社会風紀上の問題を引き起こした。

3)アヘン戦争の直接的原因
(資料c)
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(中央公論社「世界の歴史25」より) 
 (資料d)
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(東京法令「ビジュアル世界史」より)
問① 資料cは誰ですか。彼はどのような目的で広州に派遣されたのですか。
問②彼は目的を達成するためにどのような行動をとったのですか。
問③その結果、イギリスはどのような行動をとりましたか。
問④資料dは誰ですか。彼はイギリスの議会でどのような発言をしましたか。
(解説)
①cは林則徐であり、彼は27歳で科挙を突破したエリートで、腐敗が横行する官界にあって例外的な清廉官僚であった。役人への賄賂によって野放し状態となっていたアヘン密輸問題を解決するため、道光帝に抜擢され欽差大臣(特命全権大使)として広州に派遣された。②彼は「アヘン貿易商の手持ちアヘンの没収を通告した。林の通告を受けたイギリス貿易監督官エリオットは、イギリス人を主とするアヘン貿易商に命じて、アヘン2万291箱を提出させた。・・・清朝側では、虎門という村の浜辺付近に大きな穴を掘り、生石灰をまぜて没収したアヘンを処分した。」(前掲書)③「エリオットは、この事件の報告を本国外務省へ送った。・・・ロンドンでは、エリオットからの書簡を受け取り、すぐ10月に閣議を開いた。閣議は膨張論者のパーマストン外相の主導のもとに進行し、ただちに出兵を決議した。」(前掲書)④dはグラッドストンであり、彼はイギリス議会で「これほど永遠の不名誉を残す事になる戦争は聞いたことがない」と演説し、出兵決議に反対したが、わずか9票差で下院を通過した。
                 
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 私は1月31日(火)に大阪歴教協世界史部会の例会で、「アヘン戦争をどう教えるか」を報告しました。
【授業のねらい】
① 清朝のヨーロッパ貿易が広州一港に限り、取引は公行とよばれる特許商人の組合に貿易の独占権を与えるなどの特色を持っていたことを理解させる。
② イギリスの対中国貿易が絹・茶・陶磁器などを輸入し、輸出が少ないためにその代価として多額の銀が中国に流入したこと、さらに18世紀に茶の需要が急速に伸びたため、イギリスの対中国貿易は著しい輸入超過となったことを理解させる。
③ イギリスは銀の流出に対処するため、インド産のアヘンを中国に輸出するようになり、イギリス本国の綿製品などをインドへ、インドのアヘンを中国にへ、中国の茶などを本国へという三角貿易の体制が成立したことを理解させる。
④ 1830年代に中国へのアヘンの密輸入が急増したため、中国の輸入超過となって大量の銀が流出し、銀の高騰により実質的な増税となり、農民が困窮したこと。また、中国各地でアヘンの中毒者が激増したことを理解させる。
⑤ アヘン戦争は、清朝が1839年に林則徐を派遣してアヘンの密貿易を取り締まり、イギリス商人のアヘンを没収して廃棄処分にしたことにより、イギリスは武力をもって貿易問題を解決しようとしたことによって起こったことを理解させる。
⑥ アヘン戦争が2年も続いた背景には、広州近郊の三元里の民衆がイギリス軍と闘い、「官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる」という民謡が広まったように、民衆の反英闘争があったことを理解させる。
⑦ 戦争の結果南京条約が結ばれ、香港の割譲、5港の開港、公行の廃止、賠償金の支払い等を認めたこと。さらに追加条約により、領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税自主権の喪失などの不平等条約が締結されたことを理解させる。

【授業展開】
 1 アヘン戦争
1)清朝の貿易の特色
資料a
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(乾隆帝とマカートニー「東洋文庫蔵」)
問① 左の絵で大きなイスに座っているのはどこの国の誰ですか。
問② 膝をついて紙を差し出しているのはどこの国の誰ですか。
問③ 彼は何を求めてやってきたのですか。
問④ 彼は三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)を拒否したために要求は実現できなかったが、なぜ清朝は三跪九叩頭を要請したのですか、それは何を意味しているのですか。当時の清朝の体制や貿易あり方について調べてみよう。

(解説)①は中国の清朝皇帝乾隆帝 ②はイギリスのマカートニー ③彼は通商条約締結を求めてやってきた。なぜなら当時、清朝の貿易は広州一行に限り、取引は公行とよばれる特許商人の組合に貿易の独占権を認めていたからである。④清朝皇帝は神と等しく、皇帝に謁見するためには三跪九叩頭をしなければならなかった。マカートニーはこのような奴隷的な態度を拒否して目的を達することができなかったが、当時の清朝の貿易形態は朝貢貿易であり、皇帝に貢物をもってきた見返りとして物品を給付するというやり方であり、イギリスの要求する自由貿易はとうてい認められるものではなかった。清朝のこのような外交姿勢の背景には古くからの中華思想に基づいている。中国が世界の中心であり、国土が広く物資も豊富であるが、他国は国土も狭く物資も少なく文明も遅れており、諸外国が中国と貿易をしたがるのもそのためであると認識していた。
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(資料⑤)スペイン統治下の社会構造(帝国書院「タペストリー」より)
問① ラテンアメリカ諸国の独立運動を指導したのはどのような人たちか。
問② なぜ彼らが独立運動の指導者となったのか。
問③ 彼らが指導したことによって、独立以後のラテンアメリカ諸国はどのような問題を残したか。
問④ ラテンアメリカ諸国の独立運動に対して、イギリスやアメリカ合衆国はどのように対応したのか。
問⑤ ラテンアメリカ諸国の独立は、ウィーン体制にどのような影響を与えたか。
(解説)
問①は、クリオーリョである。問②は、彼らが置かれていた社会的地位に由来する。植民地生まれの白人であるクリオーリョは、植民地体制のなかで、抑圧者であると同時に被抑圧者でもあるという二重性を帯びていた。彼らの多くは大土地所有者ないし大商人であって、植民地住民の圧倒的多数を占めるインディオ農民・黒人奴隷を直接収奪する植民地内の富裕な支配階級を構成していた。しかし、他方、植民地体制のなかで本国とクリオーリョとの間には矛盾が存在した。第一に、クリオーリョは植民地行政機関の上級官職から排除され、ペニンスラールから差別されており、第二に、多種多様な植民地課税に悩まされており、第三に、貿易・海運の本国独占、植民地産業の統制など本国本意の経済政策によって自由な経済活動を抑えられていた。このような不満のなかに本国に対するクリオーリョの抵抗の根拠があった。クリオーリョは、本国政府によるこれらの政策に対して、カビルド(市参事会)と呼ばれる自治組織を拠点として抵抗した。彼らが支配するカビルドは国王=副王の命令が彼らの利益に反すると考えた場合にはそれを無視した。しかし、国王の官吏がそれを強要するときには、カビルドはその官吏を罷免して政治権力を自らの手中に収めようとしたのであった。こうしてクリオーリョの反乱が始まった。
問③は、社会変革の課題を達成できなかったことにある。独立運動の指導勢力はクリオーリョであったが、彼らは大土地所有者・鉱山所有者・大商人などからなり、植民地の地主=ブルジョア階級であった。彼らの多くは、植民地主義者に代わって政治権力を握り、本国の貿易独占や産業規制を除去して国際市場に直接進出することを目的として独立運動に乗り出したのであった。彼らはあくまで本国の植民地支配からの離脱、つまり政治的独立を願ったのであって、社会革命を企図したのではなかった。このような立場から、下層民衆の力を独立運動に利用したが、下層民衆が社会革命を要求したときには弾圧によってそれを阻止した。独立戦争は大土地所有制に基づく私有奴隷制と債務奴隷制という植民地の社会構造の基本を変革することができず、それは独立後の諸共和国にほとんどそのまま持ち越された。こうして社会変革を欠いた独立革命は、逆に独立の達成が本来もっている進歩的意義を引き下げ、新たな従属への道の第一歩となる。独立によって政治権力を握ったクリオーリョ層は、大土地所有制に基づく収奪体系の一層の強化により国内の経済発展を妨げるとともに、自由貿易の展開によりますます国際市場への依存を深めていくが、その結果、政治的独立を達成したラテンアメリカ諸国は、今度はイギリスを中心とする世界資本主義のための原料資源の供給地、商品販売市場として経済的に従属し、事実上の植民地に転化していくのである。(「岩波講座世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容」参照)
問④について、イギリスは資本主義が発達し、たえず新市場の開発をねらっていたので、ラテンアメリカ諸国の独立を歓迎し、1822年には五国同盟を離脱した。アメリカ合衆国は、1823年に大統領のモンローがいわゆるモンロー宣言を発して、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互不干渉を強く主張した。問⑤について、ラテンアメリカ諸国の独立によって、メッテルニヒの望む現状維持政策がくずれ、ウィーン体制は動揺をはじめた。

3 ギリシアの独立
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(資料⑥)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
問① なぜドラクロワはこの絵を描いたのか。
問② なぜイギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加したのか。
問③ ギリシア独立戦争にロシア・イギリス・フランスはどのような対応をしたのか。
問④ ギリシアの独立は、どのような歴史的意義を持っているか。
(解説)
問①について、この絵は1822年に当時オスマン帝国統治のギリシアのキオス島で独立派らを鎮圧するため、トルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面をドラクロワが描いたものである。ギリシアは、15世紀末いらいオスマン帝国の支配下にあったが貿易活動で経済力を高める一方、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動の影響を受けて、独立の気運が高まり、1821年より独立戦争を起こした。これに対してオスマン帝国による弾圧は「キオス島の虐殺」に見られるような過酷なものであった。この頃、ヨーロッパの知識人のなかに、ヨーロッパ文化の源泉とみなされたギリシアに対するあこがれが強く、ロマン主義の風潮が広がった。ロマン派の知識人は、異教徒・異民族に支配されたギリシアの現状に憤りをおぼえ、ギリシアの独立戦争を支持した。ドラクロワもこの絵を描くことにより、ヨーロッパ市民の目をギリシア独立戦争に注ぐこととなったのである。
問②について、この頃、ギリシアに対するあこがれとともに、異教徒支配からのキリスト教徒の解放という宗教的性格が加わって、ギリシアの独立戦争は、ヨーロッパで熱狂的な支持と同情を集めたが、ドラクロワと同じくイギリスのロマン派の詩人バイロンも自らギリシア独立戦争に投じ、ミソロンギで病死した。
問③について、ロシアは南下政策により、オスマン帝国に対して強硬な態度をとると、イギリス・フランスはこのロシアの野心を警戒し、ギリシアを援助した。その結果、1827年、ロシア・イギリス・フランス3国艦隊は、ナヴァリの海戦でオスマン帝国・エジプト連合軍を撃破した。1829年、ロシア・オスマン帝国間でアドリアノープル条約が成立し、翌年のロンドン会議でギリシアの独立が正式に承認された。問④について、ギリシアの独立により、ウィーン会議後はじめて、ヨーロッパ大陸における領土変更がおこなわれ、ウィーン復古体制は大きく動揺することとなった。

【課題】
① ウィーン体制を保守・反動的な体制として捉えてきたが、一方で第一次大戦に至るまでヨーロッパ全体にわたる規模の大戦争がなく、クリミア戦争にしても普仏戦争にしても比較的短期であり、全面戦争とはいえないところから、ウィーン体制によって100年の平和が実現できたことは確かであり、これを評価する見解もあるが、これをどう捉えるべきか。
② 教科書では、ラテンアメリカ諸国の独立をウィーン体制の動揺というところに入れているが、それでよいのか。入れるとすればどこがいいのか議論してほしい。
(参考文献)
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制の変遷 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容 高橋章」
「文英堂 理解しやすい世界史B」
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 新年あけましておめでとうございます。今年もブログ「山武の世界史」をよろしくお願いします。
Ⅱ ウィーン体制の動揺
1 ウィーン体制への反抗
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(資料③)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① 地図から、ドイツではどのような運動が起こっているか、それについて調べよう。
問② イタリアではどのような革命が起こっているか、それについて調べよう。
問③ ロシアではどのような乱が起こっているか、それについて調べよう。
(解説)
 問①は、ブルシェンシャフト運動である。ブルシェンシャフトとは1815年にドイツの統一と自由主義的な国家改造を目的として組織された学生組合のことである。1817年のルターの宗教改革300年記念祭を契機に気勢を上げたが、メッテルニヒが主催するドイツ連邦会議でのカールスバート決議により解散を命じられ、弾圧された。問②はカルボナリ革命である。カルボナリとは炭焼き人のことで、名前の由来は炭焼人のギルドを模した秘密結社がその源流とされる。この組織は1806年にナポリ王国において結成された。1820年ナポリで、ブルボン復古王政の専制打倒をめざし、さらに1821年トリノでも自由主義的革命政府の樹立をめざして放棄したが、オーストリアの武力干渉で失敗した。問③はデカブリストの乱である。ロシア語で12月をデカブリといい、デカブリストとは「十二月党員」という意味である。1825年12月、アレクサンドル1世の死を機に自由主義的な貴族や士官が農奴制・専制政治に反対して反乱を起こしたが、ニコライ1世により鎮圧された。
 これらの運動は弾圧されたが、自由主義的な改革を求める各国国民の運動をおさえることはできなかった。
2 ラテンアメリカ諸国の独立
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(資料④)ラテンアメリカ諸国の独立(東京書籍「新撰世界史B」より)
問① 地図を見て、ラテンアメリカ諸国のなかで、最も早く独立を達成した国はどこか。なぜこの国が最も早く独立を達成できたのかを調べよう。
問② 独立を達成したのは何年代が多いか、その背景には何があるかを調べよう。
(解説)
 問①は、ハイチである。ここでは、フランス革命の時にトゥサン・ルヴェルチュールの指導する黒人奴隷が反乱を起こし、ナポレオン軍を撃退して、1804年に独立共和国となった。問②は、1810年代から1820年代である。その背景にはスペイン・ポルトガル本国がナポレオンに占領されたのを機に、独立運動が進展したことがあげられる。特に1810年に始まる解放戦争は、北はメキシコから南は地理に及ぶ広大な内陸を舞台として展開された。解放戦争は三つの地域を中心に展開された。第一は、シモン・ボリバルの指導のもとに、コロンビア・エクアドル・ベネズエラを解放し、さらにボリビアに及んだ解放運動であり、第二は、サン・マルティンの指導のもとにアルゼンチン・チリ・ペルーを解放した運動であり、第三は、メキシコでイダルゴの革命運動に始まり、メキシコ・中米の解放を達成した運動である。さらに、本国スペインで1820年~23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に独立運動が最も高揚した。
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(資料②)(「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」より)
問① 地図を見て、ウィーン会議後、領土を拡大したのはどのような国々だと考えられるか。
問② ナポレオン戦争前にはあったが、ウィーン会議後復活しなかった国はどこか。
問③ この地図から、ウィーン体制とはどのような性格を持っていたかを考えよう。
(解説)
 問①は、戦勝国の領土が拡大されたことである。さらにウィーン議定書によれば、ロシアはワルシャワ公国の大部分を併合してポーランド王国をつくり、ロシア皇帝が王位を兼ねる。さらにフィンランドを併合する。プロイセンはザクセンの北部・ラインラント・ワルシャワ公国の一部を得る。オランダはオーストリア領南ネーデルラントを併合し、ネーデルラント王国と称する。オーストリアは南ネーデルラントを放棄するかわりに、ヴェネツィア・ロンバルディアを得る。イギリスはケープ植民地・セイロン島・マルタ島を得る。問②は、神聖ローマ帝国で、ドイツではオーストリア・プロイセンをふくむ35の諸邦国と4つの自由市とが集まって、ドイツ連邦を形成する。問③は、ヨーロッパの列強が民族解放運動を押さえ込んで領土を拡大し、列強間の勢力均衡と平和主義を基調とするもので、革命運動や民族解放運動を押さえ込む保守反動的な体制である。
 ウィーン体制について、斉藤孝氏は「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」のなかで、「正統主義を原則とするウィーン体制も、神聖ローマ帝国をもはや再現することなく、フランスの復古王政が市民社会の理念をも含む憲法をもつことを認め、また、ヨーロッパの領土的処理においても現実的利害に基づく顧慮を優先させていたのであった。そのような意味ではウィーン体制は単純な復古そのものではなかった。」と指摘する。
2 ウィーン体制の維持
問 ウィーン体制を維持するために作られた組織を二つあげなさい。またそれは、それぞれどのような組織だったのか調べてみよう。
(解説)
 ウィーン体制は、革命の方向に逆行する、復古主義的な国際政治体制であった。これを維持していくには、各国の指導者が協調をはかって、諸国内に台頭しつつある自由主義運動を抑圧しなければならなかった。ウィーン体制の指導者メッテルニヒは、神聖同盟と四国同盟を利用して、体制の維持をはかった。
 神聖同盟は、1815年9月、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で成立したが、それはキリスト教の正義・友愛の精神をもって、列国君主が強調し、平和の維持をはかろうとするものである。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国以外の全ヨーロッパの君主が参加した、保守的な国際協調精神のあらわれといえる。
 四国同盟は、1815年11月、メッテルニヒの提唱により、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの4か国の間で成立したが、1818年にはフランスもこれに加盟し五国同盟となった。これは、ヨーロッパの現状維持とウィーン体制の擁護を目的とし、自由主義・国民主義運動を抑圧した。
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 「ウィーン体制をどう教えるか」は、2015年11月24日に大阪歴史教育者協議会世界史部会で私が報告したものです。
【授業のねらい】
① ウィーン会議は何の目的で開かれ、その指導理念となった正統主義とは何か。
② ウィーン体制とはどのような体制であったのか、そして、その支柱となった神聖同盟や四国同盟とは何か。
③ ウィーン体制のもとで、ドイツではブルシェンシャフト、イタリアではカルボナリ、ロシアではデカブリストの乱が起こったが、それはそれぞれどのような運動であったか。
④ ウィーン体制のもとで、なぜラテンアメリカ諸国の独立が達成されていったのか。
⑤ ウィーン体制のもとで、なぜギリシアが独立を達成できたのか。
【授業展開】
 Ⅰ ウィーン体制の成立
1 ウィーン会議
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(資料①)(ウィーン会議の風刺画)
問① 左の6人の人物は誰か、次の中から選びなさい。〔ザクセン王・カースルレー(英)・
アレクサンドル1世(露)・オーストリア皇帝・プロイセン王・タレーラン(仏)〕
問② 彼らは何をしているのか。
問③ この会議の目的は何か。
問④ この会議を指導したのは誰か。
問⑤ この会議はなぜ進展しなかったのか。
問⑥ この会議の指導理念となった正統主義とは何か、また、それを主張したのは誰か。
(解説)
 問①は、左からタレーラン・カースルレー・オーストリア皇帝(フランツ1世)・アレクサンドル1世(露)・プロイセン王(ヴィルヘルム3世)・ザクセン王(アウグスト1世)である。問②は、各国の皇族・王族・貴族が社交として宴会や舞踏会に集い「会議は踊る」光景である。しかし、その背景にはフランス革命やナポレオン戦争で追いやられた封建的・絶対主義的勢力が復活した喜びをあらわしているのではないか。問③は、フランス革命・ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序を再建するための国際会議である。問④は、オーストリアの外相メッテルニヒである。問⑤は、領土をめぐる大国間の利害が対立したからである。問⑥はタレーランで、その内容は、フランス革命前の王位・王国を正統とし、革命前の国際秩序に復帰させようとする主張である。フランスは敗戦国でありながら、出席を許され、タレーランは、列強の対立を利用した巧みな外交手腕を持ってフランスの利益を守った。
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5)共和政の成立
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(資料7)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① (資料7)で処刑されているのは誰ですか。
問② なぜ処刑されたのですか。
問③ 彼の処刑によってフランスの政治はどのようにかわりましたか。
問④ 彼は処刑されるべきであったと思いますか。
問⑤ 彼の処刑の歴史的意味について考えよう。
(解説)小林氏の前掲書によると、国民公会では約400名の平原派がいて議場の真ん中に座っており、それをはさんでジロンド派が右にそして左にジャコバン派が座っていた。それぞれ約150名から200名ほどにまとまって座っていた。保守派を右派、革新派を左派と呼ぶのはここからきている。ジャコバン派というのはジャコバン=クラブからきた呼び名で、ジャコバン派の最も急進的な一派は議場の高い位置に席を占めていたので、山岳派(モンタニャール)ともいわれるが、この山岳派をさしてジャコバン派と呼ぶことも多い。このような党派は現在のような政党ではなく、分類不可能な行動をとる者もいた。
6)ジャコバン派の独裁
(解説)
遅塚氏の前掲書によると、国民公会では、はじめジロンド派が平原派を取り込んで優勢であったが、93年1月に国王の裁判に際して、即時処刑を主張する山岳派が優勢となった。さらに、同年春、イギリスが第1回対仏大同盟による戦局の悪化と反革命派の内乱の激化という、内外の深刻な危機を前にして、山岳派はパリの民衆を動員して議会に圧力をかけ、ジロンド派の主要な議員を議会から追放し、ジャコバン派独裁と呼ばれる政治状況が生まれた。しかし、小林氏の前掲書によると、ジロンド派追放の焦点となったのは、累進強制公債であった。累進強制公債は「革命税」と呼ばれ、臨時的な強制借りあげで集めた資金を、ヨーロッパ全体を相手とする戦争のための軍事費と、どん底に落ちた下層民の生活救済に使うものであった。これに対してジロンド派が徹底的に反対し、国民公会の議決に破れると、徹底的に反抗し、それに対する反撃として、山岳派、ジャコバンクラブが、その他の過激派の勢力と手を組み、パリの武装市民を動員して国民公会を包囲した。その圧力によって、ジロンド派追放を国民公会に決議させたのであると指摘している。『理解しやすい 世界史B』によると、ジロンド派を追放したのち、「ロベスピエールを中心にマラー・ダントン・エベールらを指導者とする、ジャコバン派の独裁がはじまった」とあり、次に「ジャコバン派は、強力な独裁体制を樹立するために、いっさいの権力を公安委員会に集中した。警察機関として保安委員会を設け、さらに革命裁判所を設置して、政敵や反革命の容疑者を容赦なく弾圧・処刑し、いわゆる恐怖政治を現出した。恐怖政治は、革命裁判所による治安維持だけでなく、きびしい経済統制をもふくむ、一種の戦時非常態勢であった。」とある。しかし、小林氏前掲書によると、「いわゆるジャコバン派の独裁はなかった」と主張する。「たしかに、公安委員会は、臨時行政会議と称する事実上の内閣を監視し、指導して、強力な権力を発動した。しかし、保安委員会は公安委員会から独立していて、警察権力を発動した。今日の言葉でいうならば、警察権力を内閣から除外したことになる。これではたして独裁といえるかどうか。…財政委員会は、当時実質的な大蔵省であり、国家財政の収入支出はすべてここを通して行なわれた。公安委員会にまかされた資金は、取るに足らない額であった。したがって個人や企業との契約にたいして、国家の資金を支払うかどうかの決定は、公安委員会の権限にあったのではなくて、財政委員会の権限にあった。…しかも、この財政委員会は、ジャコバン派の指導権のもとに入ったことがなかったのである。…このようにみてくると、どこに独裁があったのか疑わしくなる。事実は、公安、保安、財政の三委員会の権力であった。三つの権力機関の存在と独裁という言葉とは矛盾する。…この時期の権力の性格を正確に表現すると、ジャコバン派と、平原派の連合政権と定義できる。」と指摘している。しかし、遅塚氏の前掲書によると、公安委員会が国家権力の中枢機関として「革命政府」を指導し、憲法で保障される基本的な人権や三権分立は、一時棚上げされた。と指摘しており、やはり独裁政治は行われていたと考えられる.
7)93年憲法の制定と革命政策の実施
(解説)
 国民公会は、ジロンド派を追放した後の93年6月に、93年憲法を制定した。この憲法は遅塚氏によると、成人男子の直接普通選挙が実現され、人権宣言の「人間は権利において平等である」との理念がやっと実現されたこと。さらに93年憲法は人民の蜂起(反乱)の権利つまり抵抗権を承認したことにより、直接民主制を認めたものであること。さらに現在でいう生存権を認め今日の福祉国家の理念を先取りしたものであったと指摘している。93年憲法は平和の到来までその実施が延期され、94年のテルミドール反動でついに実施されないまま終わった。しかし、この憲法と草の根のデモクラシーと言える新しい政治文化が、全国的に広がり、その後のフランスに重要な遺産として残った。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1871年のパリ・コミューンに継承されたと遅塚氏は指摘する。
 『理解しやすい 世界史B』によると、ジャコバン派独裁のもとで行われた政策として、①封建的地代の無償廃止、②自作農の創設(国外に逃亡した亡命貴族や教会の土地・財産を没収、それを分割売却して自作農の成立を促した。)③その他として、革命暦の制定・メートル法の採用・最高価格令による経済統制・徴兵制による近代的国民軍の編成・キリスト教を排斥して理性崇拝の宗教の創設・普通教育の開始、などをおこなったとしている。しかし、封建的地代の無償廃止は、小林氏や遅塚氏も述べているように、1792年のジロンド派政府によって提出されたものを再度確認したものである。私は今までこの政策はジャコバン派によって初めて提出されたものであると思っていた。そして、これによって農民が土地を手に入れて小土地所有者となったものと思いこんでいた。しかし実際は、貢租(年貢)の支払いが廃止されただけで、小作農や貧農は自分の土地を獲得できなかった。また、小林氏によると、「国有財産の売却は、ほんのわずかの小土地所有農民の形成を実現しただけで、あとは大土地所有、あるいは中規模所有を再生したに過ぎない。」そして小林氏によれば、フランス革命によって小土地所有農民は形成されなかったのであると指摘している。
4 革命の終結
1)恐怖政治
 (解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「1973年の後半には、①戦局の悪化、②マラー暗殺後の急進派エベールと穏健派ダントンとの対立、アシニア紙幣の乱発によるインフレーションの激化など、共和国は危機に陥り、ロベスピエールは、ダントン・エベールらの政敵を処刑、独裁化をすすめた。」とある。しかし、小林氏の前掲書によれば、「エベール派が…国民公会全体にたいする反乱を宣言し、武装蜂起を呼びかけた。この運動は国民公会の平原派もジャコバン派も含めて、もろともに打倒しようというものであり、ロベスピエールも公安委員会全体も打倒すべき目標とされた。…エベール派の反乱は成功せず、3月21日エベールとエベール派の指導者が逮捕され、…処刑された。」また、「公安委員会と保安委員会によると、ダントン派議員が腐敗議員の集合体であり、その頂点にダントンがいるという認識であった。」とし、ダントンの逮捕に対してロベスピエールはむしろためらったために逮捕令が遅れたと指摘し、「ロベスピエールがダントンらの政敵を粛正したと書いて、それをロベスピエール個人の行為であるかのようにいう表現は正しくない…」そして、当時ダントン派議員は権力の中枢にいなかったので彼らを粛正してみても、独裁の強化にはつながらなかった」と主張する。確かに恐怖政治をロベスピエール個人の責任にすることはできないが、この頃に恐怖政治が行われたことは間違いない。遅塚氏の前掲書によると、93年3月から94年8月までに、各地の革命裁判所で処刑された者は合計1万6594人で、その他に裁判なしで処刑されたり獄死した者を加えると、恐怖政治の犠牲者の総数は、3万5千から4万人に達すると指摘している。
2)テルミドールのクーデター
(解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「恐怖政治への不満が高まり、農民のなかにも、保守化し、革命の進展を望まぬ者もふえた。」とある。しかし、小林氏や遅塚氏よれば、94年の春、共和国軍の勝利によって内外の反革命派の脅威が薄らいだので独裁や恐怖政治をつづける必要がなくなったことをあげている。また、農民が土地を手に入れてこれ以上の革命を望まず保守化したことについても、農民は土地を手に入れることができなかったとして農民の保守化も小林氏は批判している。それではロベスピエール派の失脚の要因は何か、小林氏によると、ヴァントーズ法(反革命容疑者の財産を無料で貧民に分け与える)を実行に移そうとしたことが、国民公会の中で孤立し、山岳派の多数をも敵にまわしてしまったことが原因であると指摘する。
このような理由で1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ロベスピエールは反対派に捕らえられ、翌日処刑され、革命の急進的発展と恐怖政治は終わった。
5 フランス革命の歴史的意義
① 啓蒙思想で主張された自由・平等などの人権を求めて民衆がブルジョワとともに闘いに参加して「フランス人権宣言」や実施はされなかったが「93年憲法」が制定されたことは、フランスだけでなく世界に大きな影響を与え、その理念は今の国連憲章や日本国憲法の中に生きていること。
② フランス革命は、普通教育の普及、度量衡にメートル法の採用、徴兵制などにより、フランス人としての意識を高め、国民国家を推し進めた。しかし、一方で革命戦争は、従来の絶対君主による戦争とは異なり、国民戦争の性格をもつようになった。
③ フランス革命と明治維新との違い
 フランス革命は封建的な体制を倒す市民革命(ブルジョワ革命)であり、明治維新も幕藩体制という封建的な体制を倒す点では一致していた。しかし、根本的に違うのは、フランス革命は自由・平等などの人権を求めた闘いであったこと。そのような闘いであったことにより民衆も参加したのである。しかし、明治維新には自由・平等などの人権を求めた闘いでは全くなかったこと。そもそも維新を起こした下級武士の中にはそのような思想はなかった。明治維新の思想的な影響を与えた吉田松陰や橋本左内にも人権思想はなかった。むしろ維新によって生まれた明治政府は、日本で初めて人権思想をとなえた自由民権運動を武力で弾圧した。その結果、日本人には人権意識が弱く、本当の意味で民主主義が定着するのは第二次世界大戦後のことであると私は考える。
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2)憲法の制定
(解説)国民議会は、改革を次々と進めたが、その内容は①教会の土地・財産の没収・国有化、②それを担保にしたアシニア紙幣の発行、③国内関税やギルドの廃止、④メートル法による度量衡の統一、⑤地方行政改革などであった。
1791年6月、国王一家は王妃マリーアントワネットの生地オーストリアに逃亡しようとしたが失敗した。国王逃亡事件で国王に危機が迫ると、オーストリア皇帝とプロイセン国王とがフランス革命阻止のためにルイ16世への援助を宣言した。これにより国王に対する国民の反発が強まったが、議会は革命を終わらせるため、1791年9月、立憲君主政にもとづく憲法を制定した。この当時、国民議会を指導したのは、自由主義貴族・有産市民層を代表する立憲君主主義者で、王政を廃止する考えはなかった。
3) 革命戦争
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(資料6)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問①(資料6)は何の戦いと呼ばれているものですか。
問② この戦いはフランスがどこの国と戦った戦争ですか。
問③ この戦争の意義は何ですか。
問④ この戦争で敵の軍隊にいた詩人ゲーテが「この日から、そしてこの地から、世界史の新しい時代が始まる」と述べたといわれているが、この言葉は何を意味しているのか考えてみよう。
(解説)憲法の発布と同時に国民議会は解散し、制限選挙制にもとづく立法議会が招集された。立法議会では当初、立憲君主主義者のフィヤン派が優勢であったが、内外の反革命勢力の動きが活発になるにつれて国民の愛国心が高まり、しだいに共和派の勢力が優勢となった。この頃指導権を握ったのは後にジロンド派と呼ばれた穏健共和派で、指導者にジロンド県出身者が多かったのでこの名がつけられた。ジロンド派は比較的豊かな商工業ブルジョワを代表していた。
 1792年春、政権をにぎったジロンド派は、戦争によって事態を打開しようとして、国王を動かしてオーストリアに宣戦させた。するとオーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦しフランスは両国と戦うことになった。フランス軍は敗退を重ね苦境に立った立法議会は、祖国の危機を宣言して義勇兵を募集した。各地から義勇兵が集まったが、この時にマルセーユの義勇兵を鼓舞するためにつくられたのが現在の国歌である「ラ・マルセイエーズ」である。しかし戦況はフランスに不利であった。その理由には軍隊に王党派の将校が多く、戦争に熱心ではなかったこと、また戦争の準備が整っていなかったことがあげられる。しかし、開戦5ヶ月めの9月20日、革命軍はヴァルミーの戦いで勝利をおさめた。市民・農民からなる軍隊が、オーストリア・プロイセン連合のプロの軍隊を打ち破ったのである。プロイセン軍の陣営にいた文豪ゲーテは、革命軍の勝利を目の当たりにし、「この日から、そしてこの地から、世界史の新しい時代が始まる」と述べたと伝えられている。
4)8月10日事件
(解説)1792年8月10日、国王が再び外国と通じるのを恐れたパリの民衆や義勇軍はテュイルリー宮殿を襲撃した。その結果、国王は幽閉されるとともに国王と結んだ立憲君主主義のフィヤン派は失脚した。立法議会は王権を停止後自ら解散し、翌9月、立法議会にかわって、世界初の男性普通選挙による国民公会の招集を可決した。
 小林氏の前掲書によると、8月10日事件の契機となった最も重要な点として、「フィヤン派と反対派(左派)の論争の焦点が、封建領主権の無償廃止であった。…フィヤン派は廃止に反対した。のちにジロンド派を作る左派(反対派)は無償廃止を主張して対立し、結局無償廃止が可決された段階で、フィヤン派は国王と結び、外国軍を引入れて反対派を撃滅しようとした。これに対する反撃として、8月10日のテュイルリー宮殿襲撃という事件がおきた。そこで、立法議会のあと国民公会が成立し、ジロンド派内閣が組織された段階で、領主権の無償廃止、つまり封建貢租の徴収権の無効が確認された。」と指摘している。これが正しいとすれば「8月10日事件」は大きな意味を持っていることになるとともに、ジャコバン派政権による1793年の「封建的特権の無償廃止」のもつ意味が重要ではなくなることになる。
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