カテゴリ:人物世界史( 62 )

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蒸気機関車860形(トレヴィシックの孫、リチャード・フランシス・トレヴィシックが設計と製作の指揮を行った日本最初の国産蒸気機関車)
 【7】 おわりに
 従来の産業革命の授業は木綿工業の機械化からはじめ、なぜこの部門から産業革命がはじまったのか、当時のイギリスの三角貿易とインド貿易など国際的な背景を中心に授業を進めてきた。しかし、イギリス産業革命全体をながめていけば、木綿工業よりも、むしろ鉄道の方が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。また、生徒にとっても鉄道(蒸気機関車)は木綿工業よりも身近で興味があり授業を進めやすい。このような理由で私は鉄道(蒸気機関車)を中心とした産業革命の授業を試みたが、実は私にはもうひとつ理由があった。それはトレヴィシックという人物に興味をもったからである。イギリスでは、今でこそ彼を「蒸気機関車の父」と呼んでいるけれど、少し前までは彼の名前も忘れられていた。そして、「蒸気機関車の父」とは、スティーヴンソンを指していたのである。これらの違いはどこから生じたのか、それは鉄道事業に成功したかどうかによるのである。トレヴィシックは事業に失敗して極貧のなかで死に、スティーヴンソンは事業に成功して世界中にその名をとどろかせた。しかし、日本の鉄道開発においては、トレヴィシックの方が大きな役割を果たしている。彼の孫にあたるR・F・トレヴィシック(1845~1913)は、1888(明治21)年に汽車観察方として着任し、官鉄神戸工場にて、日本最初の国産蒸気機関車860形を製造(1893年)したのをはじめ、日本の技師養成に功績を残している。また、その弟のF・H・トレヴィシック(1850~1931)は、兄よりも早く、1876年に来日し、1889年に汽車監督となり、1893年には、信越線、横川ー軽井沢間のアプト式機関車の試運転を担当し、同年の開通に成功している。日本鉄道の歴史にとっても、トレヴィシックの名前は忘れてはならないであろう。(「日本大百科全書」小学館 参照)
(参考文献)
角山栄著「イギリス産業革命」『岩波講座 世界歴史(18)』岩波書店 1970年
R・J・フォーブス著・田中実訳『技術の歴史』岩波書店 1956年
ソ連科学アカデミー編・金光不二夫他訳『世界技術史』大月書店 1986年
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写真3
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写真4
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【6】
 鉄道はイギリス人の生活や社会をどのように変えていったのか
(解説)
 写真3は、1865年当時、労働者用の早朝割り引き列車からはき出された人々の大群である。鉄道の発達は通勤圏を拡大した。ロンドン近郊には新しい住宅地が広がり、朝のラッシュが見られるようになった。
 鉄道によって農村から都市へ流入した若い労働者は、男性ばかりでなく、女性も多かった。女性の仕事は、メイドなどの家事使用人がもっとも多かった。都市にあこがれる彼女たちにとって、メイドとして金持ちの家で働くことが夢だった。そして、この時代のある研究家は「人々を地方から都市に出したのは、なんと言っても大都会でメイドになっていた地方出身の若い女性が故郷に書き送った手紙だった。」と記している。
 写真4は、フランス人画家が1877年に描いたもの。赤れんが長屋の裏庭を見下ろしながら、汽車が高架陸橋を走っている。鉄道のもたらす騒音や煙などの公害は、開設されたころからの社会問題であった。(東京書籍『新選世界史B』)
 鉄道の発達がイギリス社会に与えた影響について、角山栄氏によると「鉄道建設は、たんにレールの敷設という以上に、その築堤や堀割り、橋や駅を含めてワンセットの公共建築物をつくりだすことであって、・・・強大なものであった。さしあたり鉄道が誘発した経済効果は、鉄工業・石炭業・重機械工業・建設業の飛躍的発展をもたらしたばかりでなく、資本と労働と商品の市場拡大にいちじるしく貢献した。1830~1850年の鉄道建設の初期の20年間に、イギリスの銑鉄生産は、69万トンから275万トンへ4倍に増加したし、同じ期間に石炭産出量もまた、2200万トンから4900万トンへ2倍以上になった。・・・1845~1850年頃、鉄道の銑鉄需要に占めていた割合は、・・・レールのほか車両・鉄橋・駅など関連した鉄需要を含めた場合、銑鉄生産の50~70%を占めていた。」と指摘している。このように鉄道の発達が、イギリス産業革命を発展させてきたことを押さえておく必要があるだろう。
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(イギリスの鐵道網)
【5】
 なぜ鉄道網がイギリス国内で急速に拡大していったのか
(資料5)
 建設された鉄道は、輸送コストを大幅に引き下げた。たとえば、マンチェスター・リヴァプール間の乗合馬車の運賃が10シリング(片道4時間)であったのにたいし、有蓋列車では5シリング、無蓋列車では3シリング6ペンス(片道1時間半)であった。旅行が楽で運賃が比較的安かったため、鉄道の乗客数は1年で16万5000人だったが、1832年にこの2つの都市を往来した人は約35万7000人、1835年は約50万4000人に達した。この路線が赤字でなかったことは当然である(1832年の純益は約6万ポンド、1835年は約8万4000ポンドであった)。この経済効果こそが、鉄道を普及させた最も大きな原因である。(前掲『世界技術史』)
*当時のイギリスの通貨は、1ポンド=20シリング 1シリング=12ペンスでした。
(解説)
 上の資料のように、馬車と鉄道の差は運賃で半額以下、時間も3分の1に短縮されたのである。このような理由で、地図に見られるようにイギリス国内では瞬く間に鉄道網が拡大されていったのである。このイギリス鉄道の大成功に目をつけたのがロスチャイルド家であった。オーストリアのロスチャイルド家のサロモンが1835年に帝国政府から鉄道事業免許証を取り付けて、ウィーンとボヘミア間に、およそ96㎞で着工させた。これがヨーロッパ大陸初の鉄道となった。パリのロスチャイルド家のジェームズも大々的に鉄道事業に乗り出した。まずセーヌ川沿いにパリとサン・ジェルマンの間、さらにパリとヴェルサイユの間に鉄道を完成させ、ついでフランスの北部諸都市とパリを結ぶ北方鉄道がパリ・ロスチャイルド家の最大の資産になる。このほかロスチャイルド兄弟はベルギーの鉄道建設に融資するなど、ヨーロッパ鉄道にいたるところで関与した。(横山三四郎『ロスチャイルド家』講談社新書 参照)
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写真2
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
【4】
 なぜスティーヴンソンの蒸気機関車は成功したのか
(資料4)
 スティーヴンソンの成功の原因は、蒸気シリンダのピストンを機関車の車輪に直結して、燃料から得られる出力を最大限にしたことである。かれはまた煙管ボイラーを使用し、蒸気の注入による押込通気を創始した。(R・J・フォーブス著『技術の歴史』岩波書店)
(解説)
 写真1のトレヴィシック蒸気機関車と写真2のスティーヴンソンの蒸気機関車を比較すると、スティーヴンソンの蒸気機関車の優れている点がよくわかる。それは、トレヴィシックの蒸気機関車がピストンの運動は、連結棒、クランクを使って歯車装置をつうじて動輪に伝えられたのに対し、スティーヴンソンの蒸気機関車は、ピストンを機関車の車輪に直結している点である。これによって燃料から得られる出力を最大限にしたことにより、蒸気機関車の重量を低く抑えることができたとともに、そのスピードをあげることができるようになったことである。
 スティーヴンソンの技術的な成功は、鉄道経営における成功をもたらし、その名は世界中に知られるようになった。一方、鉄道から手を引いたトレヴィシックは、高圧蒸気機関の製作へと移って南米のペルーへと渡った。しかし戦争に巻き込まれるなど不運に合い、無一文でイギリスに帰り貧しいままで一生を終え、人々から忘れられてしまった。彼が注目され、「蒸気機関車の父」と呼ばれるようになったのは最近のことである。
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トレヴィシックの蒸気機関車
 
 
 【3】
トレヴィシックの発明した蒸気機関車はどのような弱点をもっていたのか
(資料3)
 トレヴィシックが蒸気機関車の建造とその運転の実験にはじめて大きな成功をおさめたのは、1803年から1804年にかけてである。この機関車の原動機は模型のシリンダーをもち、ピストンの運動は、連結棒、クランクを使って歯車装置をつうじて動輪に伝えられた。機関車の実験は公開でおこなわれた。トレヴィシックの機関車は、およそ10トンの貨物(鉄)と約70人の乗客を約15㎞以上も運んだ。速度はおよそ時速8㎞であった。この実験に関する記事は当時の新聞に載せられ、熱狂的にとりあつかわれた。のちに(1808年)自分の発明した原理を普及するために、トレヴィシックは、ロンドンにテストとアトラクションを兼ねる環状鉄道を敷設した。機関車は時速約24~32㎞で走った。のちにレールの破損が原因で機関車が転覆したため、すでに機関車の建設にかなりの資金を使っていたトレヴィシックは、その他のテストを断念しなければならなかった。(ソ連科学アカデミー編・金光不二夫他訳『世界技術史』大月書店)


(解説)
 イギリスでは16世紀中ごろから木炭や薪にかわって燃料として石炭が利用されていた。そのため石炭採掘に際して、坑内の排水のためにニューコメンやワットにより蒸気機関が発明されていた。銀鉱山の技師であったトレヴィシックは、高圧蒸気機関の先駆者であった。高圧蒸気の応用は単位重量当たりの馬力の増加を意味し、機関が軽くなってきたとき、これらの機関を運輸に使う可能性が生まれてきた。そして、上の資料のような蒸気機関車が製作されたのである。しかし、彼の蒸気機関車は実用化されなかった。それは、燃料の効率が悪いためにまだまだ大型の蒸気機関が必要であり、蒸気機関と積荷の重さに耐えられずレールが破損してしまったからである。
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(「最新世界史図説 タペストリー」帝国書院より)
(資料2) 
 ①綿工業における技術革新
1733年 ジョン・ケイ   飛び杼
1764年 ハーグリーブズ  ジェニー紡績機
1768年 アークライト   水力紡績機
1779年 クロンプトン   ミュール紡績機
1785年 カートライト   力織機

 ②イギリスの綿花輸入量 年平均(単位:100万重量ポンド)
1780~1782年     7.9
1789~1791年     30.9
1799~1801年     51.8
1809~1811年     105.6
1819~1821年     141.0
1829~1831年     249.0
1839~1841年     452.0
1849~1851年     621.0
(角山栄 「イギリス産業革命」『岩波講座世界歴史18』)


(解説)
 安価で丈夫なインド綿布はイギリス本国だけでなく、アフリカや西インドなどイギリスの植民地でも需要が増大していった。そこでイギリスの資本家たちは、インド綿布に負けない安価な製品をつくる必要から大量生産方法として、上の資料に見られるような機械が発明されていったのである。その結果、綿花の輸入量は飛躍的に伸びて、その輸送手段として蒸気機関車が利用されたのである。本格的な鉄道がロンドンではなく、綿工業の中心地であるリヴァプール・マンチェスター鉄道から始まったと言うことが、その状況をあらわしている。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
(課題)
1 蒸気機関車がどのような歴史的背景のもとに作られていったのかを明らかにする。
2 鉄道が人々の生活をどのように変化させていったのかを明らかにする。
(資料と解説)
【1】
トレヴィシックとスティーヴンソンは、どのような背景のもとで蒸気機関車を製作するようになったのか。
(資料1)
 17世紀末にあって、石炭を工業用燃料として組織的に利用していたイギリスにおいて、石炭利用に際して、技術的に解決を迫られる課題があった。それは、大量の石炭をいかにして安価なコストで消費地に運搬するかという輸送問題・・・などである。
 ・・・石炭輸送の課題はどのように解決されたのか。その解決の第一段階は運河開さくである。・・・1790年代には運河狂時代といわれるほどの、熱狂的にして大規模な建設時代を迎えた。・・・
 ところが石炭輸送の問題は、鉄道建設によって第二段階を迎える。初期の鉄道の歴史もまた炭坑開発の歴史でもある。・・・やがて蒸気機関の発明とともに、蒸気機関車が運輸に応用される。・・・イギリスでも1801年頃トレヴィシックが機関車をつくった。彼の機関車もやはり炭坑において石炭を運ぶためのものであった。しかしイギリスで最初に実用化された鉄道は、1825年に開通したストックトン・ダーリントン鉄道で、ダラムの内陸炭坑から海岸まで石炭を運ぶためのものであった。スティーヴンソンの「ロケット号」が走ったリヴァプール・マンチェスター鉄道(1830年)は、綿花を運ぶためのものであったが、その成功に刺激されて鉄道への投資が活発となった。(角山栄『イギリス産業革命』「岩波講座世界歴史18」)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
(解説)
 石炭は早くから海上や河川によって運搬されていたが、炭坑と工業地・消費地を結ぶ内陸輸送の必要性増大のため、上の資料に記述されているように運河の開さくが始まったのである。しかし、運河開さくに障害の多い炭坑地方には、それに代わる輸送手段が必要である。そしてその手段として蒸気機関車が発明されたのである。しかし、やがて輸送の主力は石炭から綿花へと変わっていくのである。
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スティーヴンソン(浜島書店「アカデミア世界史」より)
<生涯>
 ジョージ・スティーヴンソンは、1781年ニューカッスルに近いワイラム炭坑の鉱夫の息子として生まれた。家が貧しく学校に行くことができず、幼少の頃から牛番などをして働き、8歳の時に鉱山で働いた。
 14歳で火夫見習い、17歳で機関夫になった。18歳の時、初めて夜学で学校教育を受けた。21歳で結婚し、この頃鉱山の筆頭技師になっており、1805年には「機械博士」としての名をとどろかしていた。1812年には機関長に迎えられ、翌年に初めて蒸気機関車を製作し、1825年までに16台の蒸気機関車を製作している。
 1823年には2人の共同出資者とともに世界で最初の機関車工場を設立した。最初の列車は38台の車両を引き、時速20㎞で運行した。その後ベルギー、スペインなどの鉄道建設に従事し、1847年、世界最初の機械学界を創設し、翌年に没した。
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トレヴィシック
<生涯>
 リチャード・トレヴィシックは1771年にイギリスのコーンヴォールに鉱山監督の子として生まれた。この地方には有名な錫鉱山があり、排水装置として蒸気機関を利用しており、優秀な技術者を育てていた。
 彼が19歳のとき、エンジン技術の徒弟となったが、1800年に従来のものよりも小さくて価格も安い複動の高圧蒸気機関を作った。また、蒸気機関を用いた車両の製作を作って10トンの鉄と70人を乗せた5台の車両を牽引して時速8㎞で走らせた。しかし、当時のレールは鋳鉄製で弱かったため持続運転はできず、世間からほとんど注目されなかった。以後はもっぱら高圧蒸気機関の改良に努め、揚水用高圧ビーム機関や脱穀、製粉などの農業用の機関を製作した。
 1816年に銀鉱山用として注文をうけた高圧蒸気機関を据え付けるため南米のペルーへと渡ったが、戦争に巻き込まれるなどの不運に会い、1827年にほとんど一文無しの状態でイギリスに帰国し、その後、経済的にめぐまれないままで1833年に一生を終えた。しかし、現在のイギリスでは、かれの蒸気機関車を最初の鉄道用蒸気機関車と認め、かれを「蒸気機関車の父」と呼んでいる。
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(清水書院「クロムウェルとピューリタン革命」より)
(解説)前回の続き
 また、クロムウェルはスペイン戦争へと向かう。その根底には、カトリックを信仰の敵とみなすピューリタン的な感情が強く働いていたことは事実であるが、それだけに留まらない現実的な配慮があった。その一つはイギリスの貿易増大と市場拡大という経済的な要求に根ざすものであった。クロムウェルの外交政策は、西ヨーロッパの片隅に位置した農業中心の一島国を世界貿易の覇者に押し上げる転換に貢献したのであった。
 1653年、クロムウェルはみずから終身の護国卿に就任して、武力による独裁体制を確立した。かれは大逆法を制定して、この政体を改めようとするものを大逆罪として処罰することを定めた。さらにピューリタンが望んだ道徳に関する立法については、闘鶏、決闘、さらに飲酒、競馬も禁止されてしまった。このような政府に対して議会が反発すると、クロムウェルは議会を解散し軍政官制度とよばれる軍人の政治を開始した。しかし反政府運動はさらに活発となり、このような情勢の中でクロムウェルは59歳で病死した。
 かれの死後、1660年にチャールズ2世が即位し王政復古がおこなわれると、クロムウェルは「国王殺し」としてその墓をあばかれ、死骸と首はさらしものにされた。クロムウェルは「悪人」と「狂信家」であるというイメージはその後18世紀まで続いたが、19世紀になって「英雄」として再評価され、かれの銅像は、今なおロンドンの議事堂のそばに立っている。
  【8】おわりに
  クロムウェルを通してピューリタン革命を学習してきたが、もう一度この革命の意義について次の二点について押さえておきたい。第一に、この革命によってイギリス絶対王政が倒され、共和制が実現されたことである。もちろんすぐに王政復古によって共和制は打倒され、現在もイギリス王政は存続している。しかし絶対王政を打倒して共和制を樹立したという経験は、後のアメリカ独立革命やフランス革命などに大きな影響を与えていったということである。第二に、革命によって成立したクロムウェルの政府がおこなった外交政策によって、イギリスは、「西ヨーロッパの片隅に位置した農業中心の一島国を世界貿易の覇者に押し上げる転換に貢献した」ということである。
 このような世界市場を支配していたからこそ、イギリスから産業革命を達成することができたのである。このように、ピューリタン革命は歴史上重要な革命であったことを確認しておこう。
(参考文献)
 今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院 1984
 今井宏『岩波講座世界史(15)イギリス革命』1969年
 浜林正夫『イギリス市民革命史』未来社1989年
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