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 等持院を拝観した後、私たちは妙心寺へと向かった。妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山の寺院である。私たちは少し道に迷って何とか北門から入ることができたが、寺院の広大さに圧倒された。拝観できる場所を探して境内を歩いていると、昨日の日本史講座で勉強した如拙(じょせつ)作の「瓢鮎図(ひょうねんず)」の絵が描かれたパンフレットが貼ってある退蔵院を見つけた。
 私たちは500円の拝観料を払って退蔵院に入り石庭を見た。
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(石庭)
 石庭の横に国宝である「瓢鮎図」が飾ってあった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 この「瓢鮎図は本物ではなかったが、老人が瓢箪をもっている絵であることは確認できた。石庭を見た後、庭に出てみたが、庭にはかすかな水琴窟の音色が聞こえていた。
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(水琴窟)
 ここの庭園も素晴らしいものであった。
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(庭園)
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(庭園)
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(庭園)
 ここにも石庭があった。
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(石庭)
 庭園を満喫した後、私たちは仁和寺に向かった。仁和寺は真言宗御室派総本山の寺院である。高校の古典の時間に「仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ」という「徒然草」で習った覚えがある有名な寺院である。
 私たちは仁和寺のすぐ左手にある宸殿に入り、美しい庭園を見た。
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(宸殿の石庭)
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(宸殿の石庭)
 部屋には生け花が飾ってあった。
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(生け花)
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(庭園)
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(庭園)
 私たちは宸殿を出て金堂へと歩いていくと、金堂の前で僧侶が列んで読経していた。
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(金堂)
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(金堂)
 金堂の横には五重塔があった。
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(五重塔)
 仁和寺の見学を終えたのは午後4時30分を過ぎており私たちは家路を急いだ。
 今回のフィールドワークはブログに載せるつもりがなかったので、参加者の写真を撮らなかったのが残念である。
 
 
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日本史講座では、11月15日(日)に奈良柳生街道に行く予定でしたが、前日の大雨のために中止となりました。そのため有志7名で前日に講座で勉強した「室町文化」の竜安寺の庭園を見に行くことになりました。有志で行ったので、ブログに掲載するつもりはありませんでしたが、きれいな写真を撮ることができたので、写真を載せることにしました。
 当日、坂本さんの案内で午前9時に光明池に集合し、京大の「総長カレー」で早いお昼を食べて、バスにて竜安寺に行きました。竜安寺では庭の紅葉がきれいでした。
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(竜安寺の庭)
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(鏡容池)
 竜安寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、室町幕府の管領、細川勝元が1450年に創建した禅寺である。
 私たちはさっそく枯山水の石庭を見学した。
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(石庭)
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(石庭)
 「竜安寺の石庭」は、幅 25 メートル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置している。作庭者や作庭時期、作庭の意図などは諸説があり定かではない。この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。
 庭の北側の軒下に石造手水鉢(せきぞうちょうずばち)「つくばい」が置かれている。
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(つくばい)
 この「つくばい」は徳川光圀(水戸黄門)の寄進といわれているが、ここに置かれているものは偽物と書いてあった。「つくばい」の表面に書かれた字は、銭形の中心の「口」を共用すれば、「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むことができる。
 「石庭」を見学した後、竜安寺の周りを散策したが美しい景色であった。
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(竜安寺の周囲の景色)
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(竜安寺の周囲の景色)
 竜安寺を見学した後、坂本さんの案内で等持院(とうじいん)へと向かった。
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(等持院の門)
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(等持院の高札)
 等持院は臨済宗天龍寺派の寺院で、足利氏の菩提寺であり足利尊氏の墓所でもある。お寺の中にある霊光殿には足利氏歴代の将軍の木像が安置されていたが、残念ながら写真撮影が禁止されていた。
 このお寺の庭も素晴らしい景色であった。
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(等持院の庭園)
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(等持院の庭園)
庭には茶室「清漣亭」があった。
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(茶室「清漣亭」)
 庭園があまりにも素晴らしかったので尊氏の墓所を見学するのを忘れてしまった。
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(等持院の庭園)
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(等持院の庭園)
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(等持院の庭園)
 等持院を出るとき「マキノ省三先生像」という銅像に気がついた。
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(マキノ省三像)
 牧野省三は日本映画の基礎を築いた人物であるが、この人の墓所も等持院にあることがわかった。
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 智子さんご結婚おめでとうございます。
 
 素晴らしい結婚式・披露宴にお招きいただきありがとうございました。
 簡単なメッセージと感想を書きますので読んで下さい。

【メッセージ】
 
 智子さん、これからも末永く幸せな結婚生活を送っていくために必要なことは何だとおもいますか。それは相手に対する思いやりだと私は思います。思いやりとは何か、それは相手の立場に立って考えてみることだと思います。これは非常に難しいことでなかなかできないとは思いますが、感情的にならずに冷静になって相手の立場に立って考えて見て下さい。それが夫婦円満の秘訣だと思いますよ。
【感想】
 私は披露宴で二度感動しました。一度は、智子さんの親友の高橋由記さんのメッセージです。彼女のメッセージは、智子さんに対する熱い友情があふれており、智子さんはすばらしい友達を持ったと感じました。二度目は、智子さんの両親へのメッセージです。小学校で智子さんが学校に行けなくなったときに、母親が智子さんを励ますために手紙を書いたこと、そして智子さんがその手紙をその後も大切にして、時々その手紙を読んで励まされたというところですが、本当に母親の優しさを感じました。
【式・披露宴の写真】
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 石舞台を見学した後、私たちは聖徳太子ゆかりの地である橘寺には時間の余裕がなかったので立ち寄らず、亀石へと向かった。30分以上歩いてやっと亀石に到着した。
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(亀石)
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(亀石の説明文))
 パンフレットによると、「穏やかに微笑んだような表情が愛らしい、明日香を代表する謎の石造物。橘寺の西方約600mにあり、長辺4.26m、短辺2.72m、高さ1.94m。巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られている。造られた理由はわかっていないが、条里の境界を示すとする説、居住域と墓域の境界とする説、碑の台石の未完成品とする説などがある。中世の伝説によると、亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもので、亀は北向きから東向き、さらに現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いたとき、大和国一帯が泥の海に沈むといわれている。」と書いてある。
 私たちは亀石を見学した後、鬼の雪隠(せっちん)、鬼の俎(まないた)へと向かった。標識が少なく、場所がわかりにくかったが、20分以上歩いてようやく鬼の雪隠・鬼の俎に到着した。
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(鬼の雪隠)
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(鬼の雪隠の説明文)
 パンフレットによると、「謎の石仏に見えるが、実は刳貫式横口石槨(こかんしきよこぐちせきかく)の蓋石(雪隠)と床石(俎)。7世紀中頃に築造された長方墳かとみられている。組み合わせたときの大きさは石室の最大長2.7m、幅1.9m。俎の東側でもう一つの床石も発見されており、一つの墳丘に二つの石槨(せきかく)をもつ合葬墓だったと考えられる。形から鬼が付近を通る旅人を俎の上で料理し、雪隠(トイレ)で用を足したと伝えられた。」と書いてある。鬼の雪隠のすぐ近くの階段を登ると鬼の俎があった。
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(鬼の俎)
 なぜ古墳の蓋石が下まで落ちたのであろうか、地震かあるいは人が蓋石を何かに利用しようとしたが重たくてそのまま捨ててしまっただろうか、謎である。
 鬼の雪隠・鬼の俎を見学した後、私たちは最後の遺跡である猿石へと向かった。私たちは13分歩いて吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)にある猿石に到着した。
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(猿石)
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(猿石)
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(猿石)
 吉備姫は欽明天皇の孫で、皇極天皇・孝徳天皇の母、天智天皇・天武天皇の祖母にあたる。猿石についてパンフレットによると、「年代や制作理由も不明の、猿を思わせる顔の石造物。江戸時代に欽明天皇陵南の田から掘り出され天皇陵に置かれたが、明治5(1872)年に吉備姫王墓に移された。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前がつき、それぞれ高さ1m前後。高取町の高取城内には、ここから石材として持ち出されたもう一体の猿石がある。また同町の光永寺にもここから持ち出されたと思われる顔石がある。」と書かれている。猿石と名付けられた石だが、私にはどう見ても猿には見えない、古代ペルシア人のような風貌に見える。
 私たちは猿石を見学した後、飛鳥駅から橿原神宮前で乗り換え、さらに大和西大寺で乗り換えて難波に到着したのは午後6時頃であった。
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 酒船石を見学した後、私たちは10分ほど歩いて伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)に到着した。
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(伝飛鳥板蓋宮跡の表示板)
 パンフレットによると、「板蓋宮は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、中大兄皇子(天智天皇)らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳(おつし)の変(大化改新)の舞台。草葺屋根だったそれまでの宮殿と異なり、板葺き屋根だったことに由来する。ここには複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)のもの。」と書かれている。私は表示板の写真は撮ったが、肝心の遺跡の写真を撮るのを忘れていたので、パンフレットで紹介しよう。
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(伝飛鳥板蓋宮跡 パンフレットより)
 私たちが明日香村を訪れた日には、いけばなの草月流のイベントが明日香村でおこなわれており、村のあちこちに フラワーアレンジメントの作品が展示されていた。
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(フラワーアレンジメントの作品が展示されていた)
 私たちは伝飛鳥板蓋宮跡から30分ほど歩いてようやく石舞台に到着したが、ここでもフラワーアレンジメントの作品なのであろうか、大きなモニュメントが石舞台の横に置かれていた。
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(石舞台の横に置かれたモニュメント)
 石舞台には、大型バスや自家用車が行き交い、多くの見学者で混雑していた。ここも昔は無料だったが、現在は拝観料として250円が必要だった。
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(石舞台での記念写真)
 拝観券の裏に書かれている資料によると、「この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
 昭和8(1933)年と10(1935)年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ7.8m、幅約3.4m、高さ4.8mで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2.300tという大規模な古墳であることが判明しました。
 『石舞台』の名の由来については、一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話しや、この地にやって来たたび芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話しもあります。」と書かれている。私たちが石室の中に入っていると、団体客のガイドが石舞台の説明をしてくれたので、私たちも聞くことができてラッキーであった。
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 私たちは甘樫丘を降りて次の目的地である酒舟石へと向かったが、その途中に水落遺跡があった。
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(飛鳥水落遺跡)
 水落というのは水時計のことで、資料によると、「日本初の時計として知られる漏刻(ろうこく)(水時計)台跡。『日本書紀』によれば、660年に、『皇太子、初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ』とあり、皇太子、すなわち天智天皇が造らせた漏刻(水時計)と推定される。方形基壇の上に楼閣状の建造物が建っていたと考えられ、銅管や木桶を使った複雑な導排水施設も確認された。」と書かれてある。私は、当時どのようにして漏刻(水時計)を造っていたのかという遺跡の説明書を写真に撮ったが、肝心の遺跡の写真を撮るのを忘れてしまったので、パンフレットの写真を紹介しよう。
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(水落遺跡 パンフレットより)
 水落遺跡から20分ほど歩くと酒舟石遺跡に到着した。この遺跡には、亀形石造物と酒舟石の遺跡があり、以前は無料であったが、今は300円の入館料が必要であった。最初に亀形石造物を見学したが、ここではボランティアのガイドさんが説明してくれたので大変おもしろかった。話しに夢中になり、また写真を撮るのを忘れたので、ここでもらったパンフレットの写真を紹介しよう。
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(亀形石造物 パンフレットより)
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(亀形石造物 パンフレットより)
 亀形石造物についてパンフレットによると、「酒舟石遺跡の北西に位置する謎の石造物。1999年発見された。全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる涌水施設が見つかっている。斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮(ふたつきのみや)の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。」と書かれている。ガイドさんの話もだいたい同じであったが、パンフレットで読むよりも話しを聞く方がはるかにおもしろい。
 次に私たちは酒舟石を見るために狭い道を登っていったが、そこには柿がたわわに実っていた。
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(酒舟石)
 パンフレットによると、「石造物のうちの一つで、平坦な表面に液の溜まりと溝様の彫り込みがある。酒を搾ったものであろうとの想像からこの名前がついたが、油を造ったものであろうとか、庭園の施設の一部であろうとか諸説ある。この石はもともと大きかったものが、近世にはいって高取城を築城する際に大きく割って搬出されたのではないかとの言い伝えがある。近年の発掘調査によって、酒舟石のある丘陵は、裾部に花崗岩を据え、頂部に天理市の石上付近で産出する砂岩の切石を積み上げた『石垣』で取り囲まれていたことが数次にわたる発掘調査によって明らかとなってきた。これらの事柄は『日本書紀』にある『宮の東の山に石を累ねて垣とする』『石の山丘を作る』、石を『石上山』から運んだとする、などの記述をあらわしていると思われる。」と書かれている。松本清張によると、斉明天皇は道教ではなくイランで信仰されていたゾロアスター教の影響を受けていたのであると。そして、酒舟石は酒ではなく、ゾロアスター教の信仰に使われていた麻薬をここで作っていたと書かれている。私はこの石が占いなどに使ったのではないかという説が最も正しいのではないかと思っている。
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(酒舟石での記念写真)
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 私たちは飛鳥寺の西門を出たところで記念写真を撮った。
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(飛鳥寺の西門での記念写真)
 資料によると、飛鳥寺の西門を出て西に100mほど歩くと蘇我入鹿首塚(そがのいるかくびづか)があると書いてある。確かにそのあたりに五輪塔があったが、そこには何の表示もなかったので、近くの農家の人に確かめてみると間違いなかった。他の遺跡などには必ず表示されているのになぜここには表示がないのか不思議である。
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(蘇我入鹿首塚)
 この五輪塔は、大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で中大兄皇子らに暗殺された蘇我入鹿の首がここまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれている。五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代に建立されたものである。塔の高さは149mの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが特徴であると資料に書かれている。
 ここから私たちは次の目的地である甘樫丘(あまかしのおか)に向かった。資料によると、この丘は標高148mで東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵であると書かれている。私たちは丘の北側にある展望台へと階段で登った。
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(甘樫丘の展望台へと向かっている)
 ここで昼食休憩をとったが、展望台から見える景色は最高に美しく、ここで食べたおにぎりは本当においしかった。
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(展望台から見た景色、畝傍山の向こうには二上山が見える
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(展望台から見た景色、耳成山の向こうには生駒山が見える)
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(展望台から見た景色、左の山が耳成山で右側が天香具山)
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(展望台から見た景色、明日香村が見える)
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(展望台での記念写真)
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 私たちは予定より少し遅れて、次の目的地の飛鳥寺へと向かった。ところで、飛鳥という地名の由来についてネットで調べたが、なんと6つもの説があげられていた。少し煩雑であるが簡単に紹介しよう。①渡来人が日本に来て安住の宿とした場所を安宿(あすか)と名付けた。朝鮮語でアンスク、これがなまってアスカとなった。②古代朝鮮で村を意味するスカに、接頭語のアがついてできたという説。③仏教発祥の地インドのアショカ王の名前から転化したという説。④鳥は瑞兆(ずいちょう)として尊ばれたが、アスカの音はイスカという鳥の名前から転じたという説。⑤アは接頭語で、スカ(州処)は川水によって生じた砂地を表し、地形から名付けられたという説。飛鳥資料館ではこの説が採用されていた。⑥スカという語がイスケ、イスズ、ミソギと同様、みそぎをするなどの神聖な意味を持ち、神聖地に用いられたという説などである。私は、①朝鮮語の安宿説が正しいのではないかと考えている。なぜなら、この地域には朝鮮から来た渡来人が多数住んでいたからであり、彼らによって日本に高い文化がもたらされたのである。
 「国営飛鳥歴史公園」の資料によると、飛鳥資料館から飛鳥寺までは約1.1㎞、所要時間は20分と書いてあるが、予定どおり20分で飛鳥寺に到着した。飛鳥寺は蘇我馬子によって596年に創建された日本最古の寺で法興寺、元興寺とも呼ばれた。創建時の寺は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配する日本最初の本格的寺院で、その外側に回廊をめぐらし、さらに講堂を含む壮大な伽藍であった。
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飛鳥寺伽藍配置(パンフレットより)
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飛鳥寺(パンフレットより)
 本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は609年に天皇が詔して鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。旧伽藍は887年と1196年の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、1632年と1826年に再建され今日に至っている。現在、真言宗豊山派に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。とパンフレットに記載されている。
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(飛鳥大仏)
 私たちが飛鳥大仏を見ようと金堂の中にはいると、お坊さんがお寺や飛鳥大仏について説明してくれた。お坊さんによると、飛鳥大仏の顔の右側と左側とでは異なっているとのことだ。右側は目が少しつり上がり、唇も微妙にきつく閉じられているが、左側の目もとは下がり気味で、左の口元もほほえんでいるように見えると。また、この仏像はガンダーラ美術の影響を受けているとのことである。本来仏教ではお釈迦さんを描いたり像を作ったりすることは禁止されていたが、仏教がガンダーラ地方に入ってくると、仏像を造るようになっていった。その理由は、この地方には紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の遠征以来、ギリシア系の人たちが住みつくようになった。ギリシア人たちは神々を彫刻する伝統があり、かれらの中に仏教が信仰されてくるとやがて仏像が造られるようになっていったのである。そのためガンダーラ美術の影響を受けた仏像はギリシア人のような顔をしており、この仏像もそのような面影を残しているように見える。
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 日本史講座では、11月16日(日)に飛鳥の遺跡をめぐるフィールドワークを行いました。当日は天気もよくて風も穏やかで、絶好のハイキング日和でした。フィールドワークの参加者は13名でした。
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(当日訪れた場所①~⑮ 明日香村わくわくマップより)
 私たちは午前8時に光明池駅から難波で近鉄線に乗り換え、さらに大和西大寺で乗り換えて橿原神宮前駅に到着したのは午前10時頃だった。そこから第一の目的地である飛鳥資料館へとまっすぐ東に向かって歩いた。私たちが明日香村に入ったのは午前10時20分ころであったが、そこにはきれいなコスモスの花が咲いていた。
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(明日香村での集合写真)
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(明日香村にはコスモスの花が咲いていた)
 私たちが飛鳥資料館に到着したのは午前10時45分頃であった。「国営飛鳥歴史公園」という資料によれば、橿原神宮前駅から飛鳥資料館までの距離は3.1㎞で所要時間は30分と書いてあったが、予定よりも15分もかかったことになる。私はこの資料館に入ったのは初めてで、飛鳥の歴史や遺跡、高松塚の壁画や亀石などのレプリカが館内や庭に展示されていた。
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(亀石のレプリカ)
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(石神遺跡で発掘された石人像)
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(資料館での集合写真)
 
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 土塔町公園・史跡土塔の次の目的地は最終地点の百舌鳥八幡宮であり、出発地点から13,7㎞ある。
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(菰池・下池の石碑)
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(菰池・下池水辺緑地)
 資料によると、「奈良時代、行基が谷を堰き止め灌漑用水を貯めるための池を作る。菰池の名の由来は 池の周りに菰の木が多く生えていたからだといわれる。」と書かれている。菰の木とはどんな木なのかわからないが、池の周りには紅葉があり美しかった。
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(ニサンザイ古墳)
 菰池・下池水辺緑地を通ってしばらく歩いていると、左側に古墳が見えてきた。地図で確認すると、ニサンザイ古墳と書かれてある。辞書によると、「墳丘は3段構築で全長は約290m、後円部の径は約156m・高さ約24m、前方部の幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。日本で8番目の大きさとなっている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されている。2012年に墳丘裾の護岸工事の際に行われた調査では、現在の墳丘の端から5m外側の濠の底から本来の裾部分が見つかっており、全長が300mを超えていた可能性が指摘されている「ニサンザイ」は「ミサンザイ」すなわち「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁が『東百舌鳥陵墓参考地』に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが規模が小さいために、こちらを反正天皇陵とする説がある。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。」と書かれている。
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(ニサンザイ古墳の遊歩道)
 ニサンザイ古墳の横には遊歩道があり、私たちは疲れていたがしばらく遊歩道を歩いた。
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(百舌鳥八幡宮)
 ニサンザイ古墳を過ぎると、ようやく私たちが出発した場所である百舌鳥八幡宮に到着した。午前9時頃に出発し到着したのが13時を少し過ぎた頃であった。13,7㎞の距離を昼食の時間を入れて4時間近く歩いたことになる。
 さて資料によると、百舌鳥八幡宮は「4世紀末、神功皇后が三韓征討を終えての帰路この地にお立ち寄りになり、万代の平安を御誓願されその後、欽明天皇(532~571)の時代に、八幡大神のお告げをうけてこの地を万代(もず)と称しここに神社を創建してお祀りされたと伝えられている。社殿は江戸時代享保11年(1726年)の建築、昭和46年に修復され、その規模は府下屈指で、境内の楠木は大阪府指定天然記念物に指定されており、樹齢約800年と言われている。」と書かれている。
 もう少ししっかりと資料を読んでいれば、樹齢800年の楠木を写真にとっておいたのに残念である。しかし、天候にも恵まれ、「行基の足跡をたずねて」という歴史ウォークに参加して楽しかった。また、このブログを書くことでいろいろと勉強になった。
 最後まで「行基の足跡をたずねて」のブログを読んでいただいてありがとうございます。 おしまい。
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