カテゴリ:日本史講座( 253 )

5 政党の結成と戦後初の総選挙
1)政党の結成
 政治活動の自由が保障されると、政党も次々と結成・復活した。保守系の政党としては、日本自由党が旧政友会系を中心として結成されたが、翼賛選挙での非推薦議員が多かった。自由党の結成資金は右翼の児玉誉士夫(こだまよしお)によって提供された。児玉は戦争中に海軍の委嘱で中国の上海で児玉機関をつくり、中国人からの略奪とアヘンによる巨額の金を自由党結成資金につぎ込んだ。
 同じく、保守系の日本進歩党は旧民政党系を中心として結成されたが、翼賛選挙で推薦された議員が多かった。この政党は、幣原喜重郎内閣の与党的な役割を果たしたが、公職追放された議員が多かった。
 一方、戦前の無産政党が統合された片山哲らの日本社会党が結成されるとともに、獄中から釈放された徳田球一らを中心として日本共産党が合法政党として活動を開始した。1946年には共産党幹部の野坂参三の帰国を歓迎する国民大会も開かれた。
2)戦後初の総選挙
 1946年4月、男女20歳以上の国民すべてに選挙権が与えられた戦後初の総選挙が行われ、39人の女性代議士が誕生した。選挙で進歩党は第二党になり、幣原内閣は総辞職し、第一党となった自由党も過半数に達せず、鳩山総裁も公職追放となり組閣できなかった。1か月にわたって内閣が存在しなかったが、ようやく自由党・進歩党の連立による第1次吉田茂内閣が誕生した。
 吉田茂は明治自由党の指導的幹部であった竹内綱(たけのうちつな)の五男で大富豪吉田健三の養子、明治の元勲大久保利通の二男として宮廷政治の実力者であった伯爵牧野伸顕(のぶあき)の女婿、そして大日本帝国の職業外交官として田中儀一内閣の外務次官、日中戦争開始時の駐英大使であった。彼は、むしろ大日本帝国の申し子のような人物であった。(小学館『日本の歴史31 戦後変革』)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
次回の第71回日本史講座は1月27日(土)午後2時より行う予定です。
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4 対日占領政策の展開 
1)非軍事化
 1945年9月6日、アメリカのトルーマン大統領は「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、世界の反ファシズムの要求に沿い、日本の非軍事化・民主化を強調した。そのため、総司令部(GHQ)は日本政府に政治・経済・教育・文化などあらゆる分野にわたって改革を要求した。
 総司令部はまず、日本軍の武装解除と軍需産業の生産停止、戦争犯罪容疑者の逮捕、戦争中に指導的な役割を果たした軍人・政治家・実業家らの公職からの追放と右翼団体の解散を命じた。
2)民主化
 さらに総司令部は、天皇制についての自由討論の保障、治安維持法・治安警察法の撤廃、共産党員ら政治犯の釈放・特別警察の廃止などを命じた。しかし、1945年8月に成立した初の皇族内閣である東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は、このような改革指令を受け入れられずに総辞職した。
3)幣原喜重郎内閣
 これに代わって10月に成立した幣原喜重郎内閣は、戦前の協調外交が評価されて組閣されたが、実態は民主化をサボタージュしつつ、時間をかせぐことを目的とした内閣であった。(小学館『日本の歴史 戦後変革』)
 1945年10月、総司令部は、女性の解放・労働組合結成の奨励・学校教育の民主化・専制政治の撤廃・経済機構の民主化を求める五大改革指令を出した。さらに皇室財産を凍結させ、国家と神道との分離の指令を出して、天皇の絶対的な地位を支えてきた経済的・精神的な基盤をなくし、1946年1月には昭和天皇みずから神格化を否定したいわゆる人間宣言が行われた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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3 東京裁判
1)A級戦犯
 1945年、総司令部は東条英機ら39名を戦争犯罪容疑者(戦犯)として逮捕し、1946年5月、容疑を審理するための極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。
 東京裁判にはアジア・太平洋の戦争での戦勝国11か国が参加し、オーストラリア人のウェッブが裁判長となった。裁判では、A級戦犯として起訴された東条英機ら28人の被告が戦争全般に対する指導的役割を果たしたかどうかをめぐって審理されたが、28名のうち、病気と免訴の3人を除き、25名全員が有罪とされた。
 裁判のなかで日本軍による侵略、例えば南京虐殺の実態などが国民の前に明らかになり、1948年12月に東条英機ら7名が絞首刑となった。
2)B・C級戦犯
 戦時中の捕虜・抑留者に対する虐待行為・非人道的残虐行為などに直接関係した人々、ならびにこれらの行為を指揮命令した人々に対する裁判は、B・C級戦犯として、連合各国軍の手で各地で行われた。
 B・C級戦犯裁判は、戦後の混乱期に現地で、各国軍がばらばらに行ったために、十分な審理を尽くされず、特に被告とされた日本人に、弁護の機会を十分に与えられず、無実の身で有罪とされ処刑された者もかなりあった。また、日本軍の上官がいっさいの犯罪を下級者になすりつけた事例が多かった。上級者ほど特権をふるうが責任は逃れるという日本の官僚制の特質は軍隊の中にも強く貫かれていた。そのために、上官の罪を着せられて処刑された下級者も多かった。下級者の中には、朝鮮人や台湾出身者がおり、彼らは軍隊内でも差別され、上官の命令で捕虜や住民に対する不法な残虐行為を行ったとして処刑された。
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(小学館『日本の歴史31 戦後変革』)

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2 日本の占領
1)日本の占領
  1945年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが来日し、9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板上で連合国と日本政府との間で降伏文書の調印式が行われた。この結果、日本の主権が及ぶ範囲は北海道・本州・四国・九州と、連合国の定める諸小島にかぎられ、台湾・澎湖諸島は中国に返還され、朝鮮は日本の植民地から離れ、南洋諸島はアメリカの信託統治領となった。沖縄・奄美・小笠原の各諸島に対する日本の行政権は停止されてアメリカ軍の軍政下に置かれ、沖縄は琉球と呼ぶようになり、千島列島・南樺太はソ連に占領された。
2)占領方法
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 私は高校生に、なぜ日本人には外国軍に占領されたという意識がないのかという発問をしたが、生徒は答えられなかった。しかし、今回、受講者から「間接統治だったから」という正解が返ってきたが、受講者の中にはよく勉強されている方がおられる。アメリカが直接統治をおこなわなかった理由は、日本の敗戦がアメリカの予想よりも早かったため、直接統治を行う準備が整っていなかったことと、間接統治の方がよりスムーズに占領政策を遂行できると考えたからである。 連合国は、極東委員会を占領政策の最高決定機関としてワシントンに置いた。はじめ11か国であったが、のちビルマとパキスタンが加わった。また、実際に占領政策を指令する執行機関として、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を東京に置いた。また、米・英・中・ソで構成されたGHQの諮問機関として対日理事会が東京に置かれた。アメリカ政府とマッカーサーは、天皇を戦犯として裁判にかけると占領政策が円滑に実現できなくなると判断し、国際的に批判があったが天皇を訴追しなかった。 
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 皆様、明けましておめでとうございます。
第70回日本史講座は、1月13日(土)午後2時より、受講者6名で行われました。

 第22章 民主化と戦後改革 
 Ⅰ 占領と民主化
1 戦後世界の開始とアジア
1)戦争の被害
 1945年8月15日、第二次世界大戦は6000万人もの死者を出し、日本の敗戦で終わった。この戦争で最大の犠牲を払ったのはソ連で、死者は約2000万人であった。その次に大きな被害を被ったのは、中国で、死者・行方不明者の数は1000万人から1300万人以上にも達し、流亡の難民と化した人口は1億人にも達すると考えられている。日本が攻撃し、占領し、支配した東アジアの国々の被害を人数だけに限って推計すると、ベトナムで200万人、インドネシアで200万人、フィリピンで100万人、日本が戦域とした地域全体で1882万人という推計が出されている。一方、日本の死者の総計が約330万と推定されており、日本が戦争でアジア諸国民に強いた犠牲の大きさにおののきを感じる。(小学館『日本の歴史31 戦後変革』より)しかし、私たち日本人の多くは戦争の認識といえば、ほとんどが空襲や原爆などの被害の面が圧倒的に強く、加害に対する認識が非常に弱い。それはなぜだろうかと受講者に質問すると、「民衆には加害についての情報が知らされなかったから」という答えであった。その答えは正しいが、それとともに、戦後の政治を担った政治家たちは、実は戦前・戦中の政治家とほとんど変わっていなかったということに根本的な原因があると私は考える。だから戦争の加害についてはできるだけ触れようとしない。それどころか保守的な政治家のなかには戦争を美化したり、中国や朝鮮人を軽蔑する発言が絶えずおこなわれているのである。
2)戦後体制のはじまり
 戦争中、アメリカとソ連は体制の違いをこえてファシズムを共同の敵として戦い、1945年10月、米・英・ソが中心となって、国際連盟にかわる国際平和維持機構として国際連合が発足した。また、1944年、アメリカなど資本主義諸国はブレトンーウッズで会議を開き、ファシズムをもたらしたブロック経済を創り出さないために、戦後の国際通貨制度の確立と貿易の自由化をはかるための機関として国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行・IBRD)の設置を決めた。
2)アジア諸国の独立と宗主国との戦い
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(三省堂「日本史B」より)
 アジア各地では、日本の敗戦が決まると、民族の解放と独立を求める民族解放運動が起こった。朝鮮では解放された喜びに沸き、独立を訴えるハングルのビラや民族衣装のチマ・チョゴリの姿が見られた。しかし、米ソ両軍が日本軍の武装解除のために北緯38度線を境に進駐したため、分断される原因がつくられた。中国では1946年に国民党と共産党との間で内戦が再開した。インドネシアではスカルノが独立宣言し、宗主国であったオランダ軍と戦った。また、ホーチミンがヴェトナム民主共和国の独立を宣言するとフランスが植民地を取り戻そうと軍隊を派遣したため戦いとなった。その他、インド・セイロン(スリランカ)・ビルマ(ミャンマー)・マラヤ連邦(マレーシア)・シンガポール・パキスタンがイギリスから独立し、フィリピンは1946年にアメリカから独立した。


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2 降伏と敗戦
1)ポツダム宣言
 1945年4月、ヒトラーが自殺して、翌5月7日ドイツは無条件降伏した。7月にはドイツのポツダムでトルーマン米大統領・チャーチル英首相(のちアトリーに政権交代)・スターリンソ連首相によるポツダム会談が行われ、日本に降伏を要求するポツダム宣言が中立国であるソ連をはずして、米・英・中国の名で発表された。ポツダム会談についての興味ある話は、このブログの「ドイツ旅行記①」に詳しく書いていますのでぜひお読みください。
 ポツダム宣言では、敗戦後の日本に対して、軍国主義の除去・戦争犯罪人の処罰・侵略で得た領土の返還・民主主義と基本的人権の確立を求め、新たな秩序が建設されるまで連合国が日本を占領することとされ、宣言を受諾しなければ日本の最終的な破壊があることが明記されていた。
 これに対し、鈴木貫太郎内閣は「黙殺」を宣言して検討をすぐには行わなかった。この間、1945年8月6日に米軍は広島に原爆を投下し、およそ20万人の命を奪った。そして、8月8日にソ連がヤルタ協定にもとづいて対日宣戦を布告してポツダム宣言に加わると、8月9日に米軍は長崎にも原爆を投下して、およそ12万人もの命を奪った。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)なぜアメリカは原爆を投下したのか。
 アメリカの説明では、原爆を投下しなければ、日米戦争はさらに続き、数百万人の人間が死ぬであろう。だから広島・長崎の30万人以上の死者は、その数百万人の生命を救った尊い犠牲者であると主張する。しかし、本当の理由は、アメリカは戦後世界での優位な地位を得るために、ソ連の参戦の前に日本を降伏させようとして原爆を投下したのである。
3)アジア・太平洋戦争の終結
 ここにいたって、ようやく天皇や内大臣・枢密院議長・元首相らの重臣、鈴木内閣はポツダム宣言の受諾を検討した。彼らにとって重要であったのは、国体護持すなわち天皇制が守られるかどうかであって、国民の生命ではなかった。ポツダム宣言を速やかに受諾していれば、原爆の被害を避けることができたのである。
 ポツダム宣言は国体を否定しないという解釈のもとに、宣言の受諾が決定され、15日正午のラジオ放送(玉音放送)で国民に知らされ、戦争は日本の無条件降伏を持って終わった。

 次回の第70回日本史講座は、2018年1月13日(土)午後2時より行う予定です。
 

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 Ⅱ 大日本帝国の崩壊
1 日本への空襲と沖縄戦
1)敗戦への道
 1942年4月、東京や名古屋、神戸などの大都市が初空襲を受けた。この空襲は、米軍が開発した航続距離の長い爆撃機B25を空母から発進させたものである。アメリカ機動部隊の再度の攻撃を阻止するため、日本本土の哨戒ラインをさらに東側に延伸する必要にせまられた。そのための前進基地の確保という点からも、ミッドウェー島の攻略が必要とされるようになった。1942年6月、日本海軍は、空母四隻を投入したが、日本軍の暗号を解読することによって攻撃を事前に知っていた米海軍は、三隻の空母を配置して日本軍を待ち受けていた。その結果、ミッドウェー海戦は日本海軍の大敗に終わった。さらに1943年2月、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる激しい攻防戦は、アジア・太平洋戦争の転換点となった。以後、連合軍は、質量とも急速に戦力を拡充してゆき、日米の戦力比が逆転し、その後、日本軍は制海権・制空権を失った。
2)中国戦線
 中国戦線では、苦戦がつづく日本軍は各地で残虐行為をくりかえし、1940年から翌年にかけて、華北の共産党の支配地域で奪いつくし・殺しつくし・焼き尽くすという軍事作戦を行ったが、これを中国名で三光作戦と呼ばれている。また、日本軍は、満州などで毒ガスや細菌などの生物化学兵器の開発をすすめ、多数の中国人やロシア人を実験の犠牲にした。毒ガスなどの生物化学兵器の使用は国際法で禁止されていたが、日本軍はハルピンに細菌戦部隊である731部隊を設けた。
3)本土空襲
 1944年6月には、日本が戦争を続けるうえで絶対確保すべき地域(絶対国防圏)としていた南太平洋のマリアナ諸島のサイパン島が米軍に占領され、日本の敗戦が決定的となった。そのため、東条内閣は総辞職し、陸軍大将の小磯国昭内閣が成立したが、大本営政府連絡会議を最高戦争指導会議と改めるなど、戦争を終わらせようという動きはなかった。サイパン島の陥落によって米軍の爆撃機B29による無差別爆撃が本格的に行われ、東京や大阪、名古屋、さらには地方都市まで焼き払われ、多くの死傷者を出した。1945年3月10日の東京大空襲では10万人以上の死者を出すほどの被害を受けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)沖縄戦
 沖縄では、1945年3月、アメリカ軍が上陸し、戦闘が3か月も続いた。この間、日本軍が県民を組織して徹底抗戦したうえに、生活の場が戦場となったため、県民の犠牲は大きく、戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨を極めた。沖縄戦での戦死者と戦闘による犠牲者は日本側約18万8000人であったが、そのうち沖縄県民は12万人以上であった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
5)末期の戦い
 戦場では兵器や食料が途絶えたため、航空機によるアメリカ軍の艦船への体当たり攻撃(特攻)が始まるなど、降伏や捕虜となることを恥じとして教育されてきた兵士は「玉砕」(全滅)を重ねて壊滅していった。1945年には国内の製油工場に石油がなくなるなど、日本はすでに戦争を続ける基礎的な能力を失っていた。4月に小磯内閣にかわり、海軍大将の鈴木貫太郎内閣が成立して終戦も期待されたが、「本土決戦」や「一億玉砕」がとなえられ、日本本土決戦の準備が進められた。

 
 

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 第69回日本史講座は、11月25日(土)午後2時より、受講者7名で行われました。
3 若者と女性の戦争への動員
1)学校制度の変更と若者の動員
 1941年、政府は小学校を国民学校と改めた。それは、ドイツ語のフォルックスシウレの翻訳語で、第一条には、「国民学校ハ皇国の道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成(れんせい)ヲ為スヲ以テ目的トス」とある。つまり、国家に貢献する人間を創り出すための学校制度を整えたのである。国民学校では、算数のほか、修身・国語・歴史・地理などの国民科といわれた科目は、最も重視された。そこでは、天皇陛下のために、命をおとすことを、最も美しく正しい生き方であると教えられた。
 1943年には、深刻な労働力不足を補うために学徒戦時動員体制確立要綱が決定され、中学3年生以上の学生を兵器生産などに勤労動員し、理科系などを除く20歳以上の学生を兵士として動員したが、これを学徒出陣と呼ぶ。1945年には国民学校初等科以外の生徒・学生は1年中、勤労動員の対象となり、授業そのものが行われなくなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 戦局が悪化すると、東京などでは高学年の国民学校生徒を地方に分散させる学童疎開がはじまり、1944年には国民学校3年以上の集団学童疎開も開始された。
2)女性の動員
 政府は優秀な兵士をつくりだすために人口増加政策をとり、女性もこれに協力させられた。1938年、子供をもち、配偶者のいない女性の生活保護を目的に母子保護法を施行し、既婚女性は「よき母親」として「よき兵士」を支える役割を負わされた。また、未婚女性は1944年に地域ごとに女子挺身隊に組織されて軍事工場に動員された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 この結果、1945年には、男性人口の20%をこえる720万人が徴兵され、学徒動員は約340万人にものぼり、約50万人もの女性が動員されていた。 
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2 戦争経済の崩壊
1)生活の窮乏化
 日本の戦時体制下の最大の特徴の一つは、戦時体制の強化と国民生活の窮乏化とが、同時に進んでいったことである。ドイツでは政府が生活必需物資の確保を重視し、時には軍需をある程度、犠牲にしても、国民の生活水準の維持に努めようとした。このため、個人消費支出は、1943年の時点でも、第二次世界大戦開戦時(1939年)の8割の水準を維持していたし、戦争末期の1944年の時点でも、世界恐慌によって個人消費支出が最も低下した1933、34年の水準を上回っていた。
 これに対して日本の国民生活水準は、日中戦争以降、一貫して低下し、個人消費支出は、早くも1942年の時点で日中戦争開始時(1937年)の8割を割ったし、アジア・太平洋戦争開戦前の1940年の時点で、昭和恐慌下の、1930年を下回っている。最近では、戦時経済の国際比較が進んでいるが、それらの研究ではドイツと比較した場合、日本の生活水準切り下げが激しく、植民地・占領地ではさらに厳しかったと結論付けられている。
 なお、アメリカの場合は、日本と好対照をなしている。戦時体制への移行と軍需生産の本格化のなかで、アメリカ経済は驚異的な成長を遂げ、1940年の国民総生産997億ドルは、1945年には2119億ドルに拡大した。アメリカは、戦時中に生活水準を向上させた唯一の国となった。
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(三省堂「日本史B」より)
2)配給制の拡大
 日本の戦時経済の進展が国民生活を直撃したのは、配給制度と労働力動員を通じてである。配給制度とは、日中戦争以降の戦時経済の下で、生活必需品などの分配を政府が統制するために導入された制度であり、政府の決めた分配量だけを各自が公定価格で購入することができた。国民は配給された食料や生活用品を配給所もしくは隣組を通じて、入手したのである。1940年6月からは6大都市で砂糖とマッチの配給制が始まっていたが、国民生活に決定的な影響を与えたのは、1941年4月から6大都市で実施された主食の米の割り当て配給制である。これによって、大人一人の一日当たりの配給量は、平均的な消費量よりかなり低い2合3勺(じゃく)に設定された。割当量は、形式的には1945年5月まで変わらなかったが、米に代わって麦・イモ類・雑穀などが混入されるようになり、1944年10月には、主食配給量のうちで米の占める割合は、66%まで低下している。
3)労働力の動員
 軽工業中心の日本の産業構造のもとで、急速に軍需産業を中心としたものに変えていくためには労働力の面でも、強力な国家統制が必要となった。そのために導入されたものが、1939年7月に公布された国民徴用令である。これは国民を政府の指定する業種に強制的に就業させる法令であり、16歳以上45歳未満の男子と16歳以上25歳未満の女子を徴用できると定めていた。しかし、1943年10月の改正では、徴用の対象は、12歳以上60歳未満の男子、12歳以上40歳未満の女子にまで拡大された。

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(三省堂「日本史B」より)
 次回の第69回日本史講座は、11月25日(土)午後2時より行う予定です。

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 Ⅱ 戦局の悪化と国民生活
1 連合国の反抗
1)なぜ戦争は回避できなかったのか
 日本政府は臨時軍事費によって膨大な軍備拡充を整えることができた。その結果、アメリカの戦時体制への移行が遅れていたこともあって、開戦時の太平洋地域においては、日本の戦力はアメリカを上回っていたのである。ここから、短期決戦に持ち込めば、英米を屈服させる見通しがあるという幻想が生まれることになった。また、政府は統帥権の独立に災いされて軍部を充分にコントロールすることができなかった。さらに、日本の戦前の国家体制は、国家諸機関の分立制を特徴としており、全体を見通す体制とはなっていなかった。総理大臣の地位は国務大臣中の第一人者にすぎず、各省の行政長官でもある各国務大臣に対して命令する権限を持たなかった。この頃、海軍は軍備拡充に必要な予算と物資を獲得するため、武力南進策を推進する、しかし、充分な勝算のない対米英戦はできるだけ回避したいというのが本音だった。しかし、組織的利害を大きな起動力として動き始めた海軍は、部内の強硬派にも突き上げられながら、対米英戦争を決意せざるを得ない状況に追い込まれていくのである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)ヨーロッパの反抗
 ヨーロッパでは、1943年2月にソ連軍がスターリングラード(現ボルゴグラード)の激戦でドイツ軍を破ると、戦局は連合国側に優位となり、9月、イタリアが降伏した。
3)カイロ宣言
 1943年11月、エジプトのカイロでローズヴェルト米大統領・チャーチル英首相・蒋介石中国政府主席が会談して、日本の降伏などを要求するカイロ宣言を発表した。宣言の主な内容は、日本の無条件降伏を要求し、日本が日清戦争以降、清からとった地域の返還と第一次世界大戦以後に奪った地域を日本からはく奪するとし、また、朝鮮の自由と独立が表明されていた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)テヘラン会談
 同じ11月、米英両国の首脳はソ連のスターリン首相とイランのテヘランで会談し、ソ連はドイツ降伏後に対日参戦することを約束した。
5)フランスの解放
 1944年になると、ソ連軍はドイツに大攻勢をかけ、連合軍もフランスのノルマンディーに上陸してパリは解放され、連合国側が決定的に優位に立った。
6)ドイツの敗北
 1945年4月、ソ連軍は東方から、英米軍は西方からドイツの首都ベルリンに入り市街戦となったが、ヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは無条件降伏した。
 

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