カテゴリ:日本史講座( 245 )

2 戦争経済の崩壊
1)生活の窮乏化
 日本の戦時体制下の最大の特徴の一つは、戦時体制の強化と国民生活の窮乏化とが、同時に進んでいったことである。ドイツでは政府が生活必需物資の確保を重視し、時には軍需をある程度、犠牲にしても、国民の生活水準の維持に努めようとした。このため、個人消費支出は、1943年の時点でも、第二次世界大戦開戦時(1939年)の8割の水準を維持していたし、戦争末期の1944年の時点でも、世界恐慌によって個人消費支出が最も低下した1933、34年の水準を上回っていた。
 これに対して日本の国民生活水準は、日中戦争以降、一貫して低下し、個人消費支出は、早くも1942年の時点で日中戦争開始時(1937年)の8割を割ったし、アジア・太平洋戦争開戦前の1940年の時点で、昭和恐慌下の、1930年を下回っている。最近では、戦時経済の国際比較が進んでいるが、それらの研究ではドイツと比較した場合、日本の生活水準切り下げが激しく、植民地・占領地ではさらに厳しかったと結論付けられている。
 なお、アメリカの場合は、日本と好対照をなしている。戦時体制への移行と軍需生産の本格化のなかで、アメリカ経済は驚異的な成長を遂げ、1940年の国民総生産997億ドルは、1945年には2119億ドルに拡大した。アメリカは、戦時中に生活水準を向上させた唯一の国となった。
a0226578_11032848.jpg
(三省堂「日本史B」より)
2)配給制の拡大
 日本の戦時経済の進展が国民生活を直撃したのは、配給制度と労働力動員を通じてである。配給制度とは、日中戦争以降の戦時経済の下で、生活必需品などの分配を政府が統制するために導入された制度であり、政府の決めた分配量だけを各自が公定価格で購入することができた。国民は配給された食料や生活用品を配給所もしくは隣組を通じて、入手したのである。1940年6月からは6大都市で砂糖とマッチの配給制が始まっていたが、国民生活に決定的な影響を与えたのは、1941年4月から6大都市で実施された主食の米の割り当て配給制である。これによって、大人一人の一日当たりの配給量は、平均的な消費量よりかなり低い2合3勺(じゃく)に設定された。割当量は、形式的には1945年5月まで変わらなかったが、米に代わって麦・イモ類・雑穀などが混入されるようになり、1944年10月には、主食配給量のうちで米の占める割合は、66%まで低下している。
3)労働力の動員
 軽工業中心の日本の産業構造のもとで、急速に軍需産業を中心としたものに変えていくためには労働力の面でも、強力な国家統制が必要となった。そのために導入されたものが、1939年7月に公布された国民徴用令である。これは国民を政府の指定する業種に強制的に就業させる法令であり、16歳以上45歳未満の男子と16歳以上25歳未満の女子を徴用できると定めていた。しかし、1943年10月の改正では、徴用の対象は、12歳以上60歳未満の男子、12歳以上40歳未満の女子にまで拡大された。

a0226578_11045863.jpg
(三省堂「日本史B」より)
 次回の第69回日本史講座は、11月25日(土)午後2時より行う予定です。

[PR]
 Ⅱ 戦局の悪化と国民生活
1 連合国の反抗
1)なぜ戦争は回避できなかったのか
 日本政府は臨時軍事費によって膨大な軍備拡充を整えることができた。その結果、アメリカの戦時体制への移行が遅れていたこともあって、開戦時の太平洋地域においては、日本の戦力はアメリカを上回っていたのである。ここから、短期決戦に持ち込めば、英米を屈服させる見通しがあるという幻想が生まれることになった。また、政府は統帥権の独立に災いされて軍部を充分にコントロールすることができなかった。さらに、日本の戦前の国家体制は、国家諸機関の分立制を特徴としており、全体を見通す体制とはなっていなかった。総理大臣の地位は国務大臣中の第一人者にすぎず、各省の行政長官でもある各国務大臣に対して命令する権限を持たなかった。この頃、海軍は軍備拡充に必要な予算と物資を獲得するため、武力南進策を推進する、しかし、充分な勝算のない対米英戦はできるだけ回避したいというのが本音だった。しかし、組織的利害を大きな起動力として動き始めた海軍は、部内の強硬派にも突き上げられながら、対米英戦争を決意せざるを得ない状況に追い込まれていくのである。
a0226578_10472353.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)ヨーロッパの反抗
 ヨーロッパでは、1943年2月にソ連軍がスターリングラード(現ボルゴグラード)の激戦でドイツ軍を破ると、戦局は連合国側に優位となり、9月、イタリアが降伏した。
3)カイロ宣言
 1943年11月、エジプトのカイロでローズヴェルト米大統領・チャーチル英首相・蒋介石中国政府主席が会談して、日本の降伏などを要求するカイロ宣言を発表した。宣言の主な内容は、日本の無条件降伏を要求し、日本が日清戦争以降、清からとった地域の返還と第一次世界大戦以後に奪った地域を日本からはく奪するとし、また、朝鮮の自由と独立が表明されていた。
a0226578_10484772.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)テヘラン会談
 同じ11月、米英両国の首脳はソ連のスターリン首相とイランのテヘランで会談し、ソ連はドイツ降伏後に対日参戦することを約束した。
5)フランスの解放
 1944年になると、ソ連軍はドイツに大攻勢をかけ、連合軍もフランスのノルマンディーに上陸してパリは解放され、連合国側が決定的に優位に立った。
6)ドイツの敗北
 1945年4月、ソ連軍は東方から、英米軍は西方からドイツの首都ベルリンに入り市街戦となったが、ヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは無条件降伏した。
 

[PR]
3 大東亜共栄圏の実像
1)大東亜共栄圏とは
 日本は、日中戦争が長期化するころから、日本・満州・中国に、あらたに東南アジアを加えた地域を、欧米の植民地支配から解放して、それぞれの民族を独立させるための「大東亜共栄圏建設」を主張し始めた。「大東亜共栄圏」は第2次近衛内閣の外相松岡洋右の造語で、1940年8月、彼は、欧米による植民地支配の打破と、アジア諸民族の解放のために、日本と満州、中国が協力して、防共・新文化を創造し、東亜(東アジア)に共存共栄の新秩序「大東亜共栄圏」を確立しようと訴え、国民に南進策の正当性をあおった。しかしそこでは、諸国家・諸民族間の平等な国際秩序ではなく、日本を盟主としたピラミッド型の階層的な秩序を想定したものであった。
2)皇民化政策
a0226578_09470516.jpg
(三省堂「日本史B」より)
 朝鮮では、戦争のための人と物資の供給基地とみなされ、神社参拝や学校での日本語の強制使用など、大日本帝国の臣民として一体化するための皇民化政策が徹底された。1939年には名前を日本風に改めさせる「創氏改名」が強制され、1944年には徴兵制がしかれ、1945年には台湾にも適用された。女性も、挺身隊に組織されて軍事工場などで労働に従事させられたり、日本軍兵士のための慰安婦としてフィリピンなどの若い女性とともに戦地に送り込まれた。日本は抵抗する人々を弾圧しながら、多数の朝鮮人と中国人捕虜を炭鉱や鉱山などの労働者として強制連行するとともに、日本で不足する米を朝鮮・台湾から強制的に供出させた。満州でも皇民化政策が推進され、戦争や資源開発のために動員されていった。
a0226578_09490372.jpg
(三省堂「日本史B」より)
3)東南アジアの支配
 東南アジアでは、日本は、かいらい政権をつくって軍政をしき、朝鮮や台湾と同様に神社参拝や日本語の普及などをすすめた。そして日本軍は、石油や鉄鉱石、ゴム、木材などの戦略物資を強制的に取り上げるとともに、米などの生産強制や人々を動員していった。しかし東南アジアでは、植民地を支配していたイギリスやオランダなどに従属しながらも、ジャワ島では砂糖などを、マレーではゴムや錫鉱石などを輸出し、タイやビルマから米を輸入するという独自の経済圏が発達し、その流通の中枢を握っていたのは華僑であった。そのため、日本と深く結びついて植民地支配された朝鮮や満州とは異なり、東南アジアの経済の仕組みを崩壊させた。米を略奪されたヴェトナムでは飢餓も加わって甚大な被害を与え、シンガポールでは華人虐殺事件を起こした。

[PR]
2 太平洋戦争
1)日米交渉
 日米間の緊張が高まるなかで、1941年4月から日米関係を調整し、日米戦争を回避するための外交交渉が日米間で開始される。担当したのは駐米野村大使と国務長官ハルである。この交渉で最大の争点となったのは、中国問題だった。アメリカ側は日本軍の中国からの撤兵を要求し、近衛首相が何らかの形で撤兵を実現することによって交渉の決裂を回避しようとしたが、東条英機陸軍大臣はこれに強硬に反対した。
2)政府の対応
 9月の御前会議で帝国国策遂行要領が決定され、10月下旬を目標にアメリカ・イギリスなどとの戦争準備を終わらせる方針が決められた。10月、近衛内閣に代わって、強硬に戦争を主張する東条英機内閣が成立すると、11月5日の御前会議において、12月初旬に米英に対して武力発動することが確認され、日米開戦は決定された。11月26日にアメリカよりハル・ノートが提示されたが、日本政府がハル・ノートの検討を終える前に、機動部隊は真珠湾攻撃に向けて発進していたのである。
3)開戦
(日英戦争の開始)
 1941年12月8日午前2時15分(日本時間)日本軍はイギリスとの外交交渉も最後通牒も宣戦布告もないまま真珠湾攻撃よりも1時間20分早く、いきなりイギリス領のマレー半島のコタバルに強襲上陸を開始した。この作戦で日本軍に利用されたのがマレーのトラとあだ名されたハリマオであった。ハリマオの本名は谷豊。福岡県出身で、わずか31歳でその生涯をマラリアに肺炎を併発してジョホール・バルの病院で閉じた青年であった。彼の両親は彼が1歳の時にマレー半島のトレンガヌへ行き、そこで理髪業を営む。しかし、彼が19歳の時に徴兵検査のため福岡に帰郷した。しかし身長が155㎝に足りず丙種合格。事実上の不合格であった。この年、日本軍は満州事変を起こした。翌年、そのためマレーで華僑の反日暴動が起こり、トレンガヌで末の6歳の妹が華僑に殺された。犯人はイギリス人裁判官のもとで無罪放免。豊はその復讐のため、マレーに帰って裕福なイギリス人を襲う義賊となってイギリス人に恐れられ、ハリマオと呼ばれるようになった。彼に接近したのがF機関、つまり陸軍中野学校の教官藤原岩市である。豊青年は部下100人ほどを率いて対英ゲリラ闘争を展開した。彼の行動は、日本軍のマレー半島上陸に道を切りひらき、マレー半島占領に貢献することとなった。しかし密林での激務は彼の体をむしばみ、死を早めた。
(日米戦争の開始)
a0226578_12495769.jpg
(真珠湾攻撃 東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1941年12月8日午前3時19分(日本時間)、日本海軍の機動部隊から発進した第一次攻撃隊が真珠湾への空爆を開始した。マレー半島への攻撃とともにこの戦いが太平洋戦争の開戦となった。最近の研究では、単に太平洋戦争と呼ぶのではなく、アジア・太平洋戦争と呼ぶのが正しいとされている。なぜならこの戦争は日中戦争戦争の延長として戦われたものであるとともに、日中戦争は終戦まで戦われたからである。
 ところで、私は25年前にハワイの真珠湾にある「アリゾナ記念館」に行き、今でも沈没されたままのアリゾナ艦を見てきた。その時に沈没している船から油が漏れているのが見えたが、何年か前の朝日新聞にも油漏れの記事が載っていた。70年以上たっても船から油が漏れるものなのか、ある人の話では、あれはアメリカ海軍の演出であり、その油は循環されているのだという。もし、油が漏れっぱなしでは真珠湾は油だらけになるとの意見だ。確かにアリゾナ艦は今でも現役の艦として海軍に登録されており、そのような演出も行われているのかもしれない、真実を知りたいものだ。

[PR]
 第68回日本史講座は、11月11日(土)午後2時より受講者7名で行われました。

 第21章 太平洋戦争
 Ⅰ 日米開戦と大東亜共栄圏
1 日米開戦への道
1)北部仏印へ日本軍の進駐
 中国戦線では、日本軍は、英米の支援を受けた重慶の国民政府や、中国共産党の抵抗もあって苦戦し、おもな点(都市)と線(鉄道)がようやく確保できたにすぎなかった。
 1940年、ドイツが東南アジアに植民地をもつフランス・オランダを占領すると、日本では豊富な資源を持つ東南アジアを支配する南進計画がすすめられた。そして、同年6月、フランスがドイツに降伏すると、日本は、9月、重慶への援蒋ルートの遮断と、石油やゴムなどの戦略物資の確保を目的に、仏印北部(現在のヴェトナム北部)に軍隊を派遣した。
2)日独伊三国同盟
 ヨーロッパでドイツ軍の勢いが強まると、第2次近衛内閣は、ヨーロッパとアジアでの指導的地位を相互に承認し、仮想敵国アメリカの脅威に対しては共同防衛し参戦義務を負う日独伊三国同盟を1940年9月27日、ベルリンで調印した。
a0226578_09451847.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)日ソ中立条約
 1941年4月、近衛内閣の外務大臣松岡洋右は、西からのドイツの脅威を受けていたソ連に対し、日ソ中立条約をモスクワで調印し、南進を進めるために満州国北方の安全を確保した。しかし、同年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻すると外務大臣松岡洋右は、ドイツに便乗して対ソ戦を主張したがこれを北進論とよぶ。こうして、日本は南進・北進のいずれかの判断がつかないまま、満州のソ連国境付近で約70万人の軍隊による関東軍特殊演習と、仏印南部への進駐を行った。
4)アメリカの対日経済封鎖
 このような日本の動きに対して、アメリカは1939年には日米通商航海条約を廃棄したが、さらに、くず鉄の対日輸出を禁止した。1941年8月、日本の南部仏印進駐に対抗し、日本への石油輸出全面禁止を決定した。 
 

[PR]
Ⅳ 文化の統制と弾圧
1 学問・思想統制の強化
 政府は、戦争に批判的な学問や思想を徹底的に弾圧し、戦争の拡大とともに、共産主義だけでなく、自由主義も危険視するようになり、弾圧の対象を拡大していった。そして、1937~38年には、人民戦線結成を企てたとの理由で、大内兵衛(ひょうえ)・美濃部亮吉らの学者・文化人たちが検挙された人民戦線事件が起こった。さらに1940年には、日本古代史の実証的研究が国粋主義者たちによって皇室の尊厳を傷つけるものとして非難され、著作が発禁処分となり大学を追われた。また政府は、不安な世相を反映して信者を増やしていた大本(おおもと)教やひとのみちなどの宗教団体に対して、天皇に対して不敬な行いをしたとして不敬罪や、治安維持法・宗教団体法を適用して弾圧した。
2 戦時体制下の文化
1)学問と芸術
 このような状態のもとでは、学問の自由な発展を望むことはますます困難となった。
 歴史学の分野では、昭和の初めにはマルクス主義の立場からする日本近代史の本格的な研究が始まり、「日本資本主義発達史講座」の編集などが行われた。講座派・労農派による日本資本主義や明治維新の本質規定をめぐる論争が活発となった。しかし、1930年代後半からは平泉澄(きよし)を中心とする国粋主義的な皇国史学が流行し、特に歴史教育を通じて、天皇中心の歴史観が教え込まれた。
 哲学部門ではわずかにドイツ新カント派の流れをくむ西田哲学が日本の観念論哲学として知識人の心をとらえていった。
 文学の分野では、1920年代後半に活躍したプロレタリア文学作家の多くが、1930年代に入ると弾圧の強化にともなって転向し、しだいにおとろえた。一方、プロレタリア文学に対抗して新感覚派とよばれるなかから、横光利一・川端康成・などが出て活躍した。また、谷崎潤一郎・永井荷風・徳田秋声・島崎藤村・志賀直哉らの大家たちも、創作活動をつづけていた。しかし、戦争が拡大すると、戦場の現実や銃後の生活をリアルに描いた火野葦平や石川達三のような作家も出た。だが、戦時体制が強化されるとそうした作品も抑圧され、かわって、愛国主義を先取した日本浪漫派(ろうまんは)らの言論活動が青年らに共感をえるようになった。
a0226578_10470446.jpg
(三省堂「日本史B」より)
2)国民生活
 政府は、国民の生活や風俗など全般にわたって統制を強化して「挙国一致」の体制を維持しようとした。そのため、映画・落語などへの検閲も強化され、歌は軍歌が流行し、戦場での勝利の場面を上映するニュース映画が国民を熱狂させた。新聞は軍部に屈し、自主規制と戦争協力を鮮明にしていった。大衆娯楽雑誌や婦人雑誌などもまた、戦意高揚の内容へ大きく傾斜していった。政治や経済などへの論評を掲載していた総合雑誌は、事前検閲で全面削除や発禁処分を受けるものが増え、廃刊に追い込まれるものもあった。
a0226578_10483898.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
 次回の第68回日本史講座は、11月11日(土)午後2時より行う予定です。
[PR]
2日本ファシズム体制の成立
1)国家総動員法の成立
 1937年、近衛内閣は、物資の総動員計画の立案など経済統制を強化するために、企画院を設置し、翌1938年には企画院の立案した国家総動員法を制定した。これによって、政府は議会の承認なしに、勅令で、労働力・資金・価格・報道などあらゆるものを戦争に動員できるようになった。軍需優先の政策がとられたため、日常生活に必要な衣料や食料までが不足するようになり、切符制や配給制がとられるようになった。1939年、国民徴用例・価格等統制令・賃金臨時措置令・小作料統制令などがつぎつぎと制定された。
a0226578_09402434.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)国民精神総動員運動
 1937年、近衛内閣は国民を戦争に動員するために国民精神総動員運動を開始した。全国市町村会や在郷軍人会などが参加した国民精神総動員中央連盟が結成され、「挙国一致」・「尽忠報国(じんちゅうほうこく)」「堅忍持久(けんにんじきゅう)」などをスローガンにして節約や貯蓄の奨励、生活改善などをさけんだ。そして1939年の9月1日からは毎月1日を「興亜奉公(こうあほうこう)」として勤労奉仕が定められた。さらに国民の戦争協力がすすむなかで、国民は隣組や常会(じょうかい)などの隣保組織や警察によって、生活や行動を統制・制限されて、相互に監視しあう雰囲気がつくられていった。
 労働運動では、満州事変後、日本労働総同盟は戦争協力をよびかけ、ストライキ権を放棄したが、日中戦争がはじまると、戦争協力の姿勢を強く打ち出した。1936年には全日本労働総同盟が組織され、翌1937年、ストライキ絶滅を宣言した。また、労働者の画一的な支配をめざす産業報国運動がすすめられ、1940年には全日本労働総同盟は解散して、ファシズム的な労働組織である大日本産業報国会が成立した。
a0226578_09415310.jpg
(三省堂「日本史B]より)
3)日本ファシズム体制の成立
 議会では軍部を批判する動きが起こり、1936年には二・二六事件後の議会で民政党の斎藤隆夫は政治に関与する軍部を批判した。さらに戦争の長期化によって、不自由な日常生活を強いられた国民は不満をもちはじめた。1939年に多くの衆議院議員が阿部内閣の退陣を要求すると、軍部は国民の反発を恐れたため、この要求がとおり、1940年、海軍大将の米内光政(よないみつまさ)内閣が成立した。しかし議会で、斎藤隆夫が戦争終結の見通しを欠いているとして政府の中国政策を批判すると、政党は軍部に迎合して斎藤を議会から除名した。
 ヨーロッパで、ドイツがパリを占領して勢いづくと、近衛文麿を中心にして、ドイツにならった強力な政治指導体制をつくろうとする新体制運動がすすめられた。軍部もこの運動を支持したため、1940年、米内内閣は総辞職に追い込まれ、第2次近衛内閣が成立した。近衛内閣が成立すると、すべての議会政党は解散して、官製団体の大政翼賛会が結成された。1942年の総選挙は東条英機の統制のもとでの翼賛選挙として行われた。議員は翼賛政治会に組織され、戦争遂行に積極的に協力する政府・軍部のための補助機関となった。
 政府はまた、1936年に治安維持法違反者を刑期終了後も監視しつづける思想犯保護観察制度を設け、1941年には再犯の恐れがあると判断した者を裁判なしで無期限に拘束できる予防拘禁制度をつくって思想統制を強化し、政府批判を徹底して抑え込んだ。こうして軍国主義的な日本型ファシズムとも呼ばれる政治体制が確立した。
a0226578_09425171.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

[PR]
 Ⅱ 戦時体制の強化
1 戦時経済の進展
1)軍事費の増大
 高橋是清蔵相による経済政策によって、赤字国債が増発されたため、インフレーションが進み、しだいに国民生活に影響を与え始めた。高橋蔵相は、軍事費に歯止めをかけるために、これ以上赤字国債を発行できないとしていたが、二・二六事件で彼が暗殺されると、軍事費の歯止めは放棄され、赤字国債が乱発され、軍需中心の財政が作り出されていった。また、軍事機密保持のために使いみちを示す必要のない臨時軍事費特別会計をもうけて、膨大な戦費の調達をはかった。1937年には軍需生産を優先するための軍需工業動員法を発動し、また、輸出入品等臨時措置法・臨時資金調達法などを制定した。こうした一連の政策によって、軍事費の歯止めがなくなったため、政府予算に占める軍事費の割合は著しく増大し、戦時統制経済が一段と強化されることとなった。
a0226578_09203410.jpg
(三省堂「日本史B]より)
2)円ブロック経済圏
 この頃、朝鮮や満州、中国華北地方を一体化した円ブロック経済圏をつくろうとする動きが強まった。1937年には、満州で新興財閥の日産を母体とする満州重工業開発会社などを設立して、重工業の育成をはかり、軍需工業を急速に発展させようとした。しかし国民政府は、アメリカやイギリスなどの支援を受けて、臨時に首都とした重慶を拠点に経済力を蓄えていった。さらに国民政府が統一した通貨は、民衆の支持を受けて広く流通し、日本軍が流通させようとした貨幣の信用は薄く、物資の調達もままならず、目標とした資源も獲得できなかった。そのため、戦争が長期化するにつれて、軍事だけでなく経済でも、日本は不利になり、円ブロック経済圏の建設は名ばかりになった。
a0226578_09222750.jpg
(三省堂「日本史B]より)

[PR]
 第67回日本史講座は、10月28日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
2 第二次世界大戦
1)ドイツの侵略
 1930年代後半に入るとヨーロッパではドイツの対外膨張政策は一段と活発となり、これをめぐってドイツはフランス・イギリスとの間で緊張がしだいに高まった。ドイツは1938年3月にはオーストリアを併合し、さらにドイツ人が多く住むチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合に乗り出し、割譲を要求した。イギリスは、戦争を避けるとともに、反共産主義のドイツやイタリアが反ソ連に向かうことを期待して、対外膨張を黙認する融和政策をとった。1938年、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4か国はミュンヘン会談を開き、ヒトラーの要求を容認した。しかし,翌1939年、ヒトラーはミュンヘン会談の取り決めをやぶってチェコスロヴァキアを解体し保護国とした。ソ連は英仏両国に不信感をいだき、1939年にドイツと独ソ不可侵条約を結んだが、これは人民戦線のもとで戦っている人々を失望させた。
 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵入すると、イギリスとフランスは宥和政策を放棄して、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
a0226578_10162225.jpg
(三省堂「世界史B」より)
2)日本の対応とソ連との軍事衝突
 1939年、近衛内閣は日中戦争終結の見通しが見られないまま総辞職した。近衛内閣に代わり、枢密院議長で右翼団体の国本社(こくほんしゃ)を主宰する平沼騏一郎内閣が成立した。
 日本軍は徐州や武漢、広東などを占領したが、1939年末に約100万人の兵士が派遣され、戦争は長期戦となった。日本は、アメリカやイギリスなどが蒋介石に支援物資を送るための援蒋ルートで、仏印(ふついん)(フランス領インドシナ)経由のルートの遮断のために、海南島を占領するとともに、英仏が行政権・警察権をもって共同管理する天津の租界を封鎖した。このため、アメリカは1939年に日米通商航海条約の廃棄を日本に通告した。
a0226578_10202309.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 一方、満州とモンゴルとの国境をめぐって紛争が続いていたが、1938年に張鼓峰で軍事衝突し、1939年にはソ連・モンゴル両軍と戦って近代的装備にまさるソ連軍に敗北したが、この戦争を日本ではノモンハン事件とよび、ソ連ではハルハ河戦争とよぶ。この戦争での日本の悲惨な敗北の事実は国民には知らされず、この敗戦の責任者である関東軍司令部の参謀(陸軍中佐服部卓四郎・同少佐辻政信)は、やがて東京に帰りざいた。そのうえ、彼らは、今度はアメリカとの戦いに、日本を巻き込むための、有力な開戦論者となった。
a0226578_10310045.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 独ソ不可侵条約が結ばれると、平沼首相は「複雑怪奇」として、ヨーロッパ情勢の変化を理解できずに総辞職した。かわって、陸軍大将の阿部信行内閣が成立した。第二次世界大戦が勃発すると、安倍内閣はドイツとの同盟に消極的であったため、この戦争に介入しないことを宣言した。
 

[PR]
 Ⅱ 第二次世界大戦の勃発
1 日中全面戦争
a0226578_10215435.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)中国の内戦停止
 中国では、国民政府の蒋介石は共産党との国共内戦を重視して日本軍への抵抗に消極的であった。1935年、中国共産党が抗日救国を呼びかけると、これに同調した東北軍の張学良らは翌年の12月に西安で蒋介石を捕らえ、内戦の停止と抗日を要求したため、共産党の周恩来の調停によって国共合作を蒋介石に約束させるという西安事件が起こった。この結果、1937年、国民政府と共産党は第2次国共合作を成立させて停戦し、抗日民族統一戦線が結成された。
2)盧溝橋事件
a0226578_10231913.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)(注 この橋はマルコポーロの『東方見聞録』に出てくる有名な橋で、英語ではマルコポーロ橋と呼ばれている。)
 1937年7月7日夜、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突を起こした。この盧溝橋事件の報を受けた近衛内閣は、はじめ事件不拡大方針をとったが、軍部内や政府部内の強硬派の意見に押されてしだいに強硬方針を打ち出し、宣戦布告のないままに中国との戦争を開始したが、これが日中全面戦争のはじまりとなった。日本軍は北京と天津を、8月には上海を占領したが、中国国民の抵抗は激しく、国民政府の首都である南京占領にさいし多数の中国軍人や民衆を殺害したが、これを南京事件(南京大虐殺)と呼ぶ。その犠牲者の数については諸説あるが、日本の歴史学者の中には、4万人、あるいは20万人をくだらない数をあげているが、中国側は30万人としている。この事件は国際的な非難をあび、国民政府も首都を武漢、奥地の重慶へと移して抗戦しつづけた。
a0226578_10255944.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)近衛内閣の対応
 近衛内閣は1938年、「国民政府を対手(あいて)とせず」という第1次声明を出して和平の道を閉ざした。さらに近衛内閣は、日本・満州・中国の3か国による「東亜新秩序」建設の声明を出すとともに、国民政府の幹部であった汪兆銘によるかいらい政権を南京につくって中国を支配しようとした。しかし、アメリカやイギリスなどの支援を受けた抗日民族統一戦線の抵抗は強く、1939年、近衛内閣は戦争終結の見通しがえられないまま総辞職した。

 次回の第67回日本史講座は、10月28日(土)午後2時より行う予定です。

[PR]