カテゴリ:日本史講座( 207 )

5 パリ講和会議
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
1)ヴェルサイユ条約調印
 1919年1月、フランスのパリで連合国とドイツとの間の戦争状態を終わらせるための講和会議が開かれ、西園寺公望を全権とする日本の代表団を含めた27か国が参加し、ヴェルサイユ条約が調印された。この条約は、はじめウィルソンが理想主義的な原則をかかげたにもかかわらず、実際には大国の利害にもとづくもので、ドイツに対する条件は苛酷であった。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 ドイツは多くの領土・海外植民地を失い、巨額な賠償金支払義務を負わされ、空軍の保有を禁止され、また、陸海軍も大幅な軍備制限を受けた。民族自決の方針もソ連に隣接する東欧以外は認められず、ドイツの植民地は国際連盟の委任統治領として、事実上、戦勝国に分割支配されることになった。
2)日本はドイツの権益を受け継ぐ
 日本はパリ講和会議において、山東半島の領土権を中国に返還することは承認したが、ドイツの持っていた山東省の権益を引き継ぐことを認めさせ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟から委任統治することになった。
 しかし、日本が山東の旧ドイツ権益を継承したことに対して、中国では激しい反対運動が起こった。1919年5月4日、北京では学生を中心とする大規模なデモが起こり、ヴェルサイユ条約調印反対の声が高まり、日本商品のボイコットが全国的に広まった。これがいわゆる五・四運動である。
 また、朝鮮においても同年の初めごろから日本の支配に反対し、独立を求める機運が高まりつつあったが、同年3月1日、ソウルにおいて「独立万歳」を叫ぶ集会が行われ、独立運動は朝鮮各地に広まったがこれが三・一独立運動である。
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(三省堂「日本史B」より)
3)国際連盟の成立
 1920年、ウィルソン米大統領の提唱で、国際紛争処理機関として国際連盟が設立され、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となった。しかし、提唱国のアメリカは上院の反対で参加せず、敗戦国のドイツと社会主義国のソ連は参加できなかった。
 また、ロシア国名の影響もあって、欧米では普通選挙制や社会政策などを実施し、国際連盟の付属機関として、労働問題についての勧告や調停を行う国際労働機関(ILO)が設立された。さらに、平和を求める国際世論と戦後の不況のなかで、軍縮が大きな課題になった。
次回の第60回日本史講座は、5月27日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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4 米騒動
1)米騒動の原因
 第一次世界大戦の好景気で農村の過剰人口は都市産業に吸収され、農産物価格も上昇して農家収入は増大した。しかし、同時に生活必需品の物価も上がったので、収入増加のわりに農家の家計は楽にならず、貧農層はかえって生活が苦しくなった。都市でも大戦景気による成金が生まれる反面インフレーションの進行によって労働者の生活はおびやかされた。特に大戦が長びくと軍用米の需要が増えたためもあって、1917年ごろから米価はしだいに上昇し始めた。1918年に入ると、寺内内閣のシベリア出兵を当て込んで米商人が米の買い占めを行ったので米価は急上昇し、庶民の生活は一段と苦しくなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)米騒動の経過
 米騒動は富山県の魚津の町から起こったが、その背景について、鹿野正直氏によると、「たちあがったのは漁民の主婦たちである。その漁民町は、…神明川の北側と角川の南側のつまりいずれも、町の中心をはさんでの両側にある。…このあたりの漁民たちは、当時、北海道・樺太の遠洋漁業などにでかせぎにいって留守だった。…しかもこの年は、出稼ぎ先の漁獲が豊漁だったにもかかわらず、あるいは豊漁であったためにかえって、魚価がさがり、家族への送金もままならぬ状態においつめられていた。そうしたところへ、とくにこの年になってからの米価の暴騰であった。…生活の破綻はだれの目にもあきらかであった。…しかも神明川と角川にかこまれた中央部では、米屋や米問屋の好況がめだった。魚津の町はこうして、川うちの好況と川そとの窮乏とがいちじるしい対比をなす町となった。この魚津が米騒動発祥の地となるにはこうした条件があった。」(小学館「日本の歴史27」より)と指摘する。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 魚津の漁民の主婦たちは、米の県外搬出を拒否し、その安売りを要求する行動をおこすとこの「越中女一揆」の報は新聞によって全国に報道され、8月には各地に米騒動が広がった。都市の大衆や貧農などは、米の安売り、富商の買い占め反対を叫んでデモンストレーションをおこない、あるいは米商人・富商・地主・精米会社を襲って警官隊と衝突するなど、東京・大阪をはじめ全国36市・129町・145村で騒動が起こり約70万人がこれに参加するという大騒動となった。
 政府は外米の輸入や米の安売りをおこなうと同時に、軍隊までくりだしてその鎮圧にあたり、1か月ののち、ようやく米騒動はおさまった。しかし、寺内内閣は世論の激しい非難の中で、同年9月に退陣した。米騒動は自然発生的で、組織的なものではなく、一定の政治的目標をもたなかったが、その規模はかつてなく大きく、その後の労働運動・社会主義運動の発展に大きな影響を与えた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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3 ロシア革命とシベリア出兵
1)ロシア革命
 戦争が長びくにつれ、ロシアでは、1917年3月、労働者や兵士らが皇帝の専制政治と戦争に反対して立ち上がり、ロマノフ王朝の皇帝専制政府が倒された。次いで11月には、レーニンを指導者とする世界最初の社会主義政権が樹立された。ソヴィエト政府は、無併合・無賠償の講和と民族自決の原則をとなえ、1918年、ドイツとの単独講和であるブレスト・リトフスク条約を結んだ。
2)シベリア出兵
 欧米列強は、資本主義を否定する社会主義政権の影響が自国や植民地におよぶのを恐れて、ソヴィエト政府を打倒するために軍事介入し、日本もこれに同調してシベリア出兵を行った。英・米・仏はソヴィエト政府に反対する反革命政権を支援するために出兵したが革命政権に敗れて、1920年に3か国は撤退したが、日本は1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した年までシベリアに駐留し、この間、約10億円の戦費をついやし、約3500人の死者を出して撤退した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)第一次世界大戦の終結
 ロシア革命の成功は、アフガニスタンやエジプトなどのアジア・アフリカの植民地や従属国に民族解放運動の高まりをもたらすとともに、資本主義諸国の労働運動や農民運動などにも大きな影響を与えた。なかでも、敗色が濃厚になったドイツでは、1918年に革命が起こり、皇帝が退位して共和国がつくられ、連合国に降伏して第一次世界大戦は終結した。
4)第一次世界大戦の特徴
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(第一学習社「最新世界史図表」)より
 第一次世界大戦では飛行機・戦車・潜水艦・毒ガスなどの新兵器が使われ、予想をはるかに越えた長期戦となった。各国政府は国家統制を強めながら、自国民や産業だけでなく、植民地からも兵士や労働力を動員する総力戦となり、被害も、900万人にのぼる死者と2000万人の負傷者を出した。
 

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2 日本の参戦と中国侵略の強化
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)日本の参戦
 第一次世界大戦がはじまると、第2次大隈内閣や元老らは政治や経済のゆきづまりを打開する絶好の機会ととらえ、1914(大正3)年、日英同盟協約を口実にいち早く参戦した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)対華21か条の要求
 日本は、中国の山東半島や南太平洋にあるドイツの軍事拠点を占領し、翌1915年、袁世凱政権に21か条の要求をつきつけた。要求の内容は、山東省などでのドイツ権益の譲渡、南満州(中国東北地方)などでの権益の拡大、中国政府に日本人顧問を採用することなどであった。この要求に対し、中国国内では露骨な内政干渉として激しい抗議が起こり、アメリカなどからも強い非難の声が上がった。しかし日本は最後通牒を出し、日本人顧問採用の条項を除いた要求を中国政府に認めさせた。中国では要求を受諾した5月9日を国恥(こくち)記念日とし、これ以降、抗日運動が高まることになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 鹿野正道氏によると、「二十一か条要求はなにをのこしたのか。わたくしはこれを、日本が中国分割競争の参加者の立場から一歩すすめて、中国独占への方向をとりはじめた事件とみたい。その意味でこれは、近代日本の対中国政策史上の画期をなしている。一方、中国の側からみれば、それまで中国の分割あるいは中国植民地化の先頭にたってきたのは、アヘン戦争いらいのイギリスであった。しかし二十一か条要求を契機に、中国にとっての主要な敵は、イギリスから日本へかわったといってよかろう。」(小学館「日本の歴史27 大正デモクラシー」より)と指摘している。
3)寺内内閣の対中国政策
 1916年、日本はロシアと第4次日露協約を結び、満州での既得権益の相互確認と、中国へ新たに進出する国を共同で阻止することを取り決めた。この直後、大隈内閣は退陣して陸軍大将の寺内正毅(まさたけ)が超然内閣を組織した。寺内内閣は、袁世凱の死後、中国政府の実権を握った段祺瑞(だんきずい)に多額の援助を行って影響下におこうとした。1917年には中国市場の門戸開放・機会均等をアメリカに約束するかわりに、満州での日本の特殊権益を認めさせる石井-ランシング協定をアメリカと結んだ。

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 第59回日本史講座は、5月13日(土)午後2時より、受講者のお宅にお邪魔してお昼をごちそうになった後、受講者8名で行われました。
 Ⅰ 第一次世界大戦
1 第一次世界大戦の勃発
1)大戦の原因
 大戦が勃発した背景には、19世紀末に新たな海外領土の獲得をめざすドイツとこれをはばもうとするイギリスとの間で鋭い対立がおき、建艦競争と呼ばれる海軍の軍備拡張競争が始まったことがあげられる。
 さらに列強が軍事同盟を結んでいたことが戦争を拡大させていった。ドイツが1882年、オーストリア・イタリアと三国同盟を結ぶと、ロシアとフランスが露仏同盟を結んでこれに対抗した。さらに1904年に日露戦争が起きると、イギリスはフランスと英仏協商を結び、1907年にはロシアと英露協商を結んだことにより三国協商が成立し、ドイツに対抗した。
 大戦の直接の原因となったのはバルカン問題である。バルカン半島は長くイスラムのオスマン帝国の支配下に置かれていたが、オスマン帝国がしだいに弱体化するなかで、バルカン半島のゲルマン民族とスラヴ民族の対立が起こってきた。オーストリアはゲルマン主義を利用し、ロシアはスラヴ主義を利用して支配地の拡大を図ろうとして対立したのでバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)サライェヴォ事件
 1908年、オーストリアがロシアと争っていたバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方をオスマン帝国から奪うと、ロシアとの対立は激しさを増していった。そして、1914年、反オーストリア感情が高まっていたボスニアのサライェヴォでオーストリアの皇位継承者夫妻がセルビア人の民族主義者に暗殺されるという、いわゆるサライェヴォ事件が起こった。余談ではあるが、私は今まで皇太子夫妻が暗殺されたと教えてきたが、それは間違いで、教科書に書かれているように「皇位継承者夫妻」が正しい。なぜなら、オーストリアの唯一の皇太子であったルドルフは、サライェヴォ事件の25年も前の1889年に、マイヤーリンクという別荘地で心中自殺を遂げている。これについては私のブログの「中央ヨーロッパ旅行記(オーストリア ウィーンの森①~③)」に詳しく書いているのでぜひご覧ください。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)3)戦争の経過
 サライェヴォ事件をきっかけにオーストリアは1914年7月、セルビアに宣戦布告し、ついで8月にはドイツがオーストリアの側に立ち、ロシア・イギリス・フランスなどがセルビアの味方をして、次々と参戦し、全ヨーロッパを戦争に巻き込んで史上空前の大戦が始まった。三国同盟を結んでいたイタリアは、オーストリアの支配下にあった北イタリアの領土を獲得することを条件に、連合国側(三国協商側は連合国と呼んだ)に加わった。また、アメリカもドイツの無制限潜水艦戦により被害を受けたため、連合国側に参戦し世界規模の第一次世界大戦となった。

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2 大正政変と大隈内閣の成立
1)第2次西園寺内閣の倒壊
 陸軍は日韓併合後の朝鮮に駐留するためや辛亥革命の進展に備えて2個師団増設を早急に実現することを求めていた。しかし第2次西園寺内閣が財政難を理由に拒否すると、上原勇作陸軍大臣はこれに抗議し、1912(大正元)年12月、明治天皇の跡をついで即位した大正天皇に単独で辞表を提出した。陸軍も軍部大臣現役武官制を利用して後任の陸軍大臣の推薦を拒絶したため、西園寺内閣は倒れ、第3次桂内閣が成立した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)憲政擁護運動
 これに対して、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬飼毅(いぬがいつよし)らの政治家や新聞記者、実業家グループなどが中心となり、「閥族打破・憲政擁護」のスローガンをかかげ、桂内閣打倒を目指して、いわゆる憲政擁護運動を展開した。桂は1913年、みずから立憲同志会の結成にのりだし、衆議院を停会して反対派の切り崩しを図ったが、衆議院の多数を制するにはいたらなかった。1913年、数万人の民衆が議事堂を包囲するなか、50日あまりで桂内閣は退陣に追い込まれたが、これを大正政変と呼ぶ。このように民衆のデモンストレーションが直接、内閣を交代させたことは日本の政治史上はじめてのことであった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)第1次山本内閣の成立
 桂内閣にかわって、海軍大将の第1次山本権兵衛(ごんべい)内閣が成立した。山本内閣は立憲政友会の協力をえたが、政治不信の強い世論に譲歩して、軍部大臣現役武官制を改正し退役した大将や中将にまで任用範囲を広げ、高級官僚の任用について若干の譲歩を行った。しかし山本内閣は、軍艦購入をめぐる海軍高官の汚職事件であるシーメンス事件の責任を追及され、国民の強い非難をあびるなか、1914年に倒された。
4)大隈内閣成立
 元老たちは軍備拡張の実施と衆議院の多数党の政友会の打破に期待をかけて、大隈重信を次の首相に推薦した。大隈は庶民的な性格や自由民権運動以来の政治的経歴によって国民の人気を集め、立憲同志会を与党として組閣した。そして、1915年の総選挙で同志会など与党が衆議院の過半数を制すると、2個師団の増設と海軍拡張案を実現させた。

次回の第59回日本史講座は、5月13日(土)午前12時に山本武志の玄関に集合し、自動車に分乗して槇塚台の山本さんのお宅へと向かいます。早く人数を確認したいので、出席される方は早急に山本武志まで連絡ください。

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 Ⅳ 辛亥革命と大正政変
1 韓国併合と南満州支配
1)韓国併合
 1907年6月、オランダのハーグで第2回バンコク平和会議が開かれていた。そこへ韓国皇帝の密使が現れ、日本が韓国を脅し、韓国人の権利を踏みにじっていることを訴えたが、列国は日本が韓国を支配することを認めていたのでこれを無視したが、この事件をハーグ密使事件という。この事件を知った日本は、第3次日韓協約を結んで内政権を奪い、皇帝高宗を退位させ、韓国の軍隊を解散させた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 このため、旧軍人は反日義兵闘争に加わり、反日の戦いは朝鮮半島全土に広がって、1907年から11年までの5年間に14万人以上の人がこの戦いに参加した。日本軍は村や町を焼き払って武力弾圧を行ったが、1909年10月、前統監の伊藤博文は独立運動家の安重根によってハルピンで暗殺された。統監府は同年に司法権、翌年には警察権を奪い、同年の1910年には韓国併合を行った。韓国という国名を朝鮮に、首都名も漢城(ソウル)から京城(けいじょう)と改めさせた。そして、朝鮮総督府を設置し、天皇直属の総督には陸海軍大将から任命され、軍隊が治安維持を行って朝鮮人を支配する仕組みをつくった。その一方で、朝鮮人には参政権などの権利は認められなかった。
2)南満州支配
 日本はまた、日露戦争で獲得した植民地の支配組織などを整備した。そして、遼東半島の旅順・大連を関東州とし、1906年に軍事・行政をつかさどる関東都督府を旅順に設置した。また、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)をつくってロシアの鉄道利権を引き継がせるとともに、満州での中核企業の役割を担わせた。さらに、1907年、日本はアメリカの満州進出を阻むために、ロシアと第1次日露協約を結んだ。南樺太には、1906年に樺太庁を設置して本格的な植民地経営に乗り出した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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第58回日本史講座は、4月22日(土)午後2時より受講者4名で行われました。
4 社会の動揺と第2次桂内閣
1)第2次桂内閣
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(東京書籍「図説日本史」より)
 日本は日露戦争に勝ったが、巨額の外国債や国債の償還など、財政支出は増えるばかりであった。さらに、植民地経営を安定させるための軍備拡張が急がれていた。そのため、政府は日露戦争中にかぎり、戦時非常特別税の名目で、増税や新税を設けて課税したが、戦後も減税せず、1908年には酒税や砂糖消費税などの増税が行われ、国民生活をいっそう圧迫した。
 このような日露戦争後の社会的状況を夏目漱石は『三四郎』という作品のなかで、三四郎が「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護するのに対して、広田先生の言葉を借りて「滅びるね」と言わせている。税金の滞納者が増え、市町村も財源難に苦しみ、また、日比谷焼き打ち事件を起こした都市民衆や労働運動の高まりへの対応など、解決しなければならない問題が山積していた。なかでも経済の発展を支え、強力な兵士を生み出す国力のもとであった地方農村は疲弊していた。
 そこで第2次桂内閣は、1908年に戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布して地方改良運動を始めた。これは国民に勤労・倹約の奨励と国家への奉仕を説き、明治天皇の権威を借りて、国民を国家に統合しようとするものであった。
2)大逆事件と社会主義運動の「冬の時代」
 日露戦争後、労働争議がしだいに激しくなると、1906年、西園寺内閣が融和的態度をみせた。それにより片山潜・堺利彦らは日本社会党を結成して社会主義の実現を綱領としてうちだした。1907年には足尾銅山・長崎造船所・別子銅山などで大規模なストライキが起こり、軍隊が出動するほどであったが、このような時期に社会党の内部には幸徳秋水ら急進派が直接行動を主張して、議会主義派と対立する情勢が起こり、同年社会党は政府から解散を命ぜられた。
 1908年、社会主義に対する取り締まりがゆるやかすぎるとする元老らの不満などにより、西園寺内閣が倒れ、第2次桂内額が成立すると、社会主義運動に対する取り締まりは一段と厳しくなり、1910年には明治天皇暗殺を計画したという理由で、多くの社会主義者が逮捕され、その翌年に処刑された大逆事件が起こった。この事件は宮下太吉・菅野すが子ら数人の急進的な無政府主義者が、天皇の暗殺を計画した。そこで政府はこれを機に大量の社会主義者を検挙し、幸徳秋水ら12名を処刑、14名を懲役刑に処した。しかし、実際には幸徳は天皇暗殺計画に消極的であったらしく、処刑された人々の中には無実だった者も多かった。 
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(ほるぷ出版「日本の歴史5」より)
 政府はこの事件をきっかけとして社会主義運動の弾圧をはかり、特別高等警察を設置した。そのため、社会主義運動は「冬の時代」をむかえ、一時、衰えた。

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3 日比谷焼き打ち事件と桂園時代
1)日比谷焼き打ち事件
 日露戦争で日本は約110万の兵力を動員し、死傷者は20万を越すという大きな損害を出した。また、戦費は国力をはるかに越える金額であったため、およそ7割を外国債や約6億円の国債・献金でまかなわれた。残りは、地租や所得税などの増税、織物消費税や通行税などの間接税の新設、たばこや塩の専売制の実施などによってまかなったが、これは国民に重い負担を強いるものであった。
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(三省堂「日本史B」より)
 日本の戦争継続能力について真相を知らなかった多くの民衆は、ポーツマス条約によって日本に賠償金が得られないことがわかると、耐乏生活を強いられた民衆の不満は大きく、各地で講和反対の集会を開いた。なかでも、ポーツマス条約調印当日の9月5日、東京の日比谷公園で開かれた講和条約反対国民大会に参加した都市民衆らは、集会後に内務大臣官邸や交番、政府系の国民新聞社を襲撃するなど激しく行動した。いわゆる日比谷焼き打ち事件である。桂内閣は、戒厳令をしいて軍隊の力でようやくこれをしずめた。
2)桂園時代
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日露戦争後の1906年、桂首相は内閣へ不満が広がることを恐れ、伊藤博文に代わって立憲政友会総裁となった西園寺公望(さいおんじきんもち)に政権をゆだねた。この後、第1次西園寺内閣から1913年の大正政変で第3次桂内閣が倒れるまで、桂と西園寺が交代で内閣を組織するいわゆる桂園時代が訪れた。
 日露戦争後、軍部が中心となって大規模な軍備拡張計画が立案された。それは帝国国防方針というもので、陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋戦艦各8隻を中心とする大艦隊を建設するというものであった。軍部はこの計画を西園寺内閣に無断で天皇に許可をえ、1908年には軍隊の作戦や用兵には内閣に介入させない制度を整えた。さらに1910年には、現役を終えた軍人を帝国在郷軍人会に組織して軍部の基盤を強化した。
 次回の第58回日本史講座は4月22日(土)午後2時より行う予定です。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3)ポーツマス条約
 戦争を継続できなくなった日本と、第一ロシア革命により苦しい立場に立たされたロシアとの調停に乗り出したのは、満州進出をねらうセオドア=ローズヴェルト米大統領であった。1905年9月、アメリカのポーツマスで講和会議がもたれ、日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテとの間でポーツマス条約が結ばれた。この条約では、①韓国における日本の優先権を認めること、②ロシアは満州を清に返還し、旅順・大連の租借権と南満州の鉄道の利権を日本に譲ること、③北緯50度以南の樺太を日本に譲ること、④沿海州・カムチャッカ半島の漁業権を日本に認めること、などをロシアに認めさせた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 ネットで調べてみると、この資料の話は全くの間違いであることが分かった。そもそも「東郷ビール」というものも存在しないし、存在したのは「Amiraali」(提督)ビールというもので、歴史に名を残した世界各国の提督24人を1枚のラベルに1人の肖像を描いた「Amiraali(提督/元帥の意)」シリーズのビールです。しかもこのビールが初めて売り出されたのは第2次大戦後,1970(昭和45)年のことで,日露戦争から65年後のことである。さらに浅野さんのブログには、「在日フィンランド大使館の『東郷ビール問題』についての見解(2000年)・・・冒頭で『東郷ビールなるものは実在しません。』と言い切っており,また『日露戦争(1904-05年)におけるロシアの敗北がフィンランド国家独立の誘因となったという明確な論拠を見出すことはできません.むしろ,フィンランド人は日露戦争で,ロシア側の兵士として参戦し,日本軍と交戦しています.」とも述べている. なぜこのようなデマが未だに生き続けているのか、それは日本がロシアに勝ったことが、民族の独立運動を励ましたという神話を教えたいからではないだろうか。このような神話によって、日露戦争は日本とロシアが韓国や満州をめぐる帝国主義戦争であったという本質を見失わせるものとなるであろう。
4)韓国の保護国化
 日露戦争中、日本は韓国との間で軍事基地の提供などを内容とする日韓議定書を、8月には第1次日韓協約を結んで、日本政府推薦の財政・外交顧問を採用させることを約束させ、韓国に対する事実上の支配権を獲得した。1905年には日英同盟を改定し、日本が韓国を、イギリスがインドに対する指導権を持つことを相互に承認した。また、アメリカとも桂・タフト協定を結んで、日本が韓国を、アメリカがフィリピンに対する指導権持つことを相互に承認した。そのうえで、韓国との間で第2次日韓協約を結んで外交権を奪って保護国とし、統監府を漢城(ソウル)に設置して、初代統監に伊藤博文が就任した。

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