<   2011年 08月 ( 35 )   > この月の画像一覧

 『三国志』は、中国だけでなく日本においても、小説・人形劇・まんが・アニメなどで今でも人気がある物語であり、その中でも諸葛孔明と並んで人気の高いのが関羽である。
 「関羽は、山西省の出身でいつ生まれたかは不明。劉備・張飛と兄弟の契(ちぎり)りを結び、蜀漢(しょくかん)の武将として活躍。一度魏の曹操に捕えられ帰順をすすめられたが、白馬の役で曹操のために敵の将顔良を斬って、再び劉備のもとへ帰る。208年の赤壁の戦いで、水軍を率いて大活躍し劉備が四川省の成都に根拠地をおくと、襄陽(じょうよう)太守となって、荊州(けいしゅう)の勢力拡張につとめた。魏・呉に恐れられ、結局両者のはさみ討ちにあって呉に捕えられても最後まで節を曲げなかったために、219年に殺された。」(『中国史人名事典』新人物往来社)
 この関羽が、宋代以降「関帝」と呼ばれる道教の神となって祀(まつ)られたが、とくに清朝時代に入って盛んとなった。それは、清軍が明軍と戦ったときに常に清軍を加護をしたという理由である。そのため、一般の人たちからも信仰され、小さな部落にまで関帝を祀った関帝廟(びょう)が作られるようになった。
 30年ほど前に台湾旅行に行ったとき、知人の社長宅に招待されたが、そこでも関羽が道教の神として祀られていた。台湾では今でも道教は熱心に信仰されている。
 さて、それでは道教とはどういうものなのか、窪徳忠氏によると、「古代の民間の信仰を基盤とし、神仙説を中心として、それに道家・易・五行・讖緯(しんい)・医学・占星などの説や巫(ふ)の信仰を加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた、不老長生を主な目的とする呪術宗教的傾向の強い現生利益的な自然宗教だ」と定義されている。
 このように道教は非常に幅の広いもので、唐代に観音信仰が盛んになって以来、観音を多くの神々の最上位におくなど、仏教との混同もおこなわれている。
 また、道教は日本人の生活の中にも相当とけ込んでいる。還暦のお祝い、子供の日に菖蒲を飾るお祝い、さらに丙午(ひのえうま)年の女は妻にするなといった習俗は、道教に由来している。
 さて、道教が仏教・キリスト教・イスラム教など他の宗教と異なる点は、徹底した現生利益を求めるところにある。そのために商人たちの信仰があつく、実は関羽も商売の神とされている。
 なぜ関羽が商売の神とされるようになったのか、それには次のようなエピソードがある。
「関羽を捕えた魏の曹操は多額の金銀を与えて歓待したが、彼はある夜金銀はそっくりそのままにして、同時に捕えられていた劉備の夫人を護って劉備のもとに逃げ帰った。」
 このように関羽は義にあつく信頼のおける人物であり、商人にとって信用が最も大切であること。また、関羽は金銭に淡白だったことが、逆説的に財神とされたのであろう。また彼は、金銭出納簿や算盤を作ったともされている。
 このように関羽=関帝は、軍神・財神とされたが、さらに災難を予知する神、無礼を許さぬ神、死者を蘇生させる神、地獄の長官、天界の南大門の守護神などさまざまな神とされた。また仏教にもとり入れられ、寺の守り神ともなっている。大変な人気者である。

               参考文献 窪徳忠 『道教史』 山川出版 1980年
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 酒は人類の歴史とともに古く、世界のあらゆる所で作られてきた。日本には日本酒、中国には老酒、フランスにはワイン、ドイツにはビール、ロシアにはウォッカ、そしてイギリスにはウィスキーがある。
 その中で一番古い酒は何か。おそらくワインであろう。ワインは人類がまだ農耕を知らない時代に、貴重な栄養源(とくに炭水化物)をとるために、ぶどうを容器に入れて保管しておくところから作られたものであると思われる。次に古いのはビールで、今から5000年ほど前に、メソポタミアのシュメール人たちによって作られていたという資料が残されている。
 さて、ウィスキーは、穀物を原料とした蒸留酒を樽に貯蔵した酒である。その歴史は、ワインやビールに比べはるかに新しく、今から1000年ほど前にアイルランドの錬金術師たちによって、はじめて作られたと言われる。彼らはこの蒸留酒を「ウィスゲ・バハ」(生命の水)と名づけ、これがウィスキーの語源になっている。アイルランドからスコットランドに蒸留の技術が伝わったのは、ヘンリー2世がアイルランドに遠征した時(1170年)と言われている。
 ウィスキーが名酒であると言われるのは、なんといっても、あの妖しく輝く琥珀色と特有の香りにある。ところが、この色と香りは、最初のころのウィスキーにはなかった。当初は蒸留した無色透明のものを、貯蔵熟成させずにそのまま飲んでいたのである。
 現在のウィスキーが誕生したのは、1790年代にイギリス政府が、ウィスキーの製造に必要な蒸留器の免許に15倍の税を課したことに由来する。
 18世紀のイギリスは、絶対主義国家として発展してきたフランスと、インドや北アメリカなどの植民地をめぐって激しく争っていた時代であった。
 このような戦争に勝利するために、イギリス政府は増税が必要となり、大衆の酒であったジン(トウモノコシと麦を原料とし、杜松(ねず)の実で香りをつけた蒸留酒)やウィスキーに目をつけたのである。すでに17世紀にはビールに大幅な課税がされていた。
 さて、スコットランドのウィスキー業者の一部は、この大幅な課税に反対して山に入り、密造酒を作るようになった。山の中に埋もれているピート(泥炭)を燃やすことにした。その上、できたウィスキーを一度に山から下ろすのは人目について危険であったため、貯めておいて少しずつ売ることにした。そのためにはたくさんの樽が必要であり、そこで使い捨てられていたシェリーの空き樽をもらってきて貯蔵することにした。
 この貯蔵したウィスキーは、シェリーの匂いをかすかに持った木香(きか)が移って、これまでにないすばらしい香りがつき、その上、樽からはみごとな琥珀の色が出てきて、味も熟成によって丸くなめらかなものに変わった。
 それ以来、スコッチ・ウィスキーは、ピートの煙をしみ込ませたモルト(大麦麦芽)を原料にし、20年以上使用したシェリーの古樽に貯蔵し、熟成させるようになったのである。
 つまり、現在のウィスキーは、1790年代にイギリス政府が行った課税に対する、業者の抵抗運動のなかで生まれたものなのである。
 (参考文献) 小泉武夫 『酒の話』 講談社現代新書 1982年
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(観光9日目)
 8月7日(日)午前9時にバスで世界遺産アルジャディーダの観光へと向かった。この町の歴史は、1502年に始まったポルトガルの支配にさかのぼり、4年後にマザガンと名付けられる。ポルトガルはここに防衛施設を作り、地元住民の抵抗や、中央権力の封鎖、侵略にもかかわらず、2世紀以上にもわたってその支配が続けられ、モロッコに最後まで残ったポルトガル要塞となった。今もポルトガル風の町並みが残っている。

 ポルトガル時代のマザガンの名前が見える。
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 最初に訪れたのがメディナ(旧市街)ポルトガル都市である。1502年にポルトガル人によって造られたこのメディナは、現在でも約3000人が生活している。他の町のメディナに比べるとひっそりとしている。

   アルジャディーダのメディナ(旧市街)
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 次に、稜堡(見張り台)の見学へと向かった。『地球の歩き方』によると「16世紀の初め、ポルトガル人は大西洋沿岸の港町を支配し、要塞を築いた。城壁の上には塔がそびえ、その両側には大砲の攻防に備えて円形や四角形の稜堡と呼ばれる見張り台が建てられた。アルジャディーダとエッサ・ウィラにはこの四角形の稜堡が造られている。」と書かれてあるように、エッサ・ウィラと同じような稜堡(見張り台)がアルジャディーダにもあった。

   アルジャディーダの稜堡(見張り台)
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 次に、ポルトガルの地下貯水槽を訪れた。この貯水槽は16世紀に倉庫として作られたが、1641年に敵に包囲されたときに貯水槽として改造された。25本の柱で支えられたこの地下室は、一辺が34mで、天井には直径3.5mの円形の窓が開いており、光と陰の効果を出して大変美しいものであった。

  ポルトガルの地下貯水槽
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 アルジャディーダの町を見学した後、私たちはバスでカサブランカへと向かった。距離は99㎞、所要時間は1時間30分の行程である。
 カサブランカは、人口400万人を超える町で、モロッコ最大の経済都市である。古くはアンファ(丘)と呼ばれていたこの町は、カルタゴ人の市があった。その後、12世紀のムワッヒド朝時代には、アラブ人の海賊の拠点でもあり、すでに貿易港として発展していた。14世紀になるとベルベル王朝、マリーン朝によるイスラム化が始まる。16世紀になると、ポルトガル人はここに要塞を建設し、カサブランカ(白い家)と名付けた。しかし、1755年の地震と近隣の種族の抵抗のため、ポルトガルはこの町を去った。18世紀になるとアラウィー朝のアブダラにより再建される。その後、1907年のフランス占領後は、ヨーロッパの影響を受け、急速に近代化の道を歩んでいくことになる。
 私はこの町の名前は、アメリカ映画「カサブランカ」によって知っていたが、この旅行に来る前にもう一度この映画をDVDで見てきた。しかし、この映画はアメリカで撮影されたものであり、モロッコでは一切撮影されていないということだ。
 私たちが最初に訪れたのは、モロッコ最大のモスクであるハッサン2世モスクである。『地球の歩き方』によるとこのモスクは、「1986年から8年がかりで1993年に完成された。大西洋の面した9ヘクタールの敷地に、モスク内は2ヘクタール。全敷地には8万人、内部には2万5000人が収容可能。ミナレットの高さは200mで、世界最高を誇る。」と書かれてある。このモスクの扉の前に立って、いかにこのモスクが大きいかを実感することができた。この扉は、人間の力では開けることができない、すべて電動であるということだ。また、今はまだできていないが、ミナレットにはエレベーターを設置するとのことである。

  ハッサン2世モスク
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次に訪れたのが、噴水のあるムハンマド5世広場である。この広場の隣には市庁舎、裁判所、中央郵便局、劇場、フランス領事館などがある。

   ムハンマド5世広場
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 次にメディナ(旧市街)を訪れたが、これがモロッコでの最後の観光となった。ここには珍しい水パイプが売っていた。私は、トルコかイランのどちらかで水パイプを試したことがあるが、あまりおいしいとは思わなかった。

   水パイプのお店
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 カサブランカのホテルに到着したのは午後4時であった。夕食までに時間があったので、私たちは添乗員さんの案内で、近くのスーパーへと向かった。地図にはカルフールと載っていたので、大きいスーパーと思っていたが、小さいスーパーなので、間違いではないかと思ったが、そこのスーパーの名前はカルフールだった。そこで、私は残っていたモロッコの通貨(ディルハム)でチョコレートを購入した。モロッコの通貨1ディルハムが約10円でトイレのチップ代、枕銭は5ディルハムだった。マラケッシュのフナ広場で食べたソフトクリームが5ディルハムでとてもおいしかった。しかし、町の小さな駄菓子屋のアイスキャンディーが12ディルハムは少し値段が高いと思った。ガイドのフワットさんの話では、モロッコ人の平均月収が2万円であり、しかもボーナスも退職金もないということなので、その割には物価が高いと思った。

 モロッコの通貨(ディルハム)(左が国王のムハンマド6世、右が前国王のハッサン2世)
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 以上でモロッコの観光は終わった。 最後にバスの中で出されたモロッコについての質問とガイドのフワットさんの回答をまとめてみた。
(教育制度について)
 日本と同じく小学校6年中学校3年高校3年制だが、大学は3年だけである。国立大学の数は10校、私学は2校だけある。公立は小学校から大学まで無料。高校卒業時にバカロレヤというテストがあり、これに合格しなければ大学には進めない。バカロレヤは2回失敗するともう受けられない。バカロレヤ合格者から大学進学は57%で、同世代での大学進学率は30%である。バカロレヤ合格後、2年の間に大学へ進学しなければ資格を失う。フランス語は8歳(小学校3年)から全員学習し、15歳(高校生)から英語・スペイン語・ドイツ語の中から一つを選択するが、英語を選択するものが多い。モロッコ人は、高校で、アラビア語・フランス語が必修で、選択でもうひとつの語学を勉強しなければならない。
 次に、教員になるための制度としては、バカロレヤ合格後、4年制の教育学校(専門学校)に合格しなければならない。
 医学部や薬学部は、バカロレヤ合格後に入学テストに合格して7年間大学で勉強しなければならないが、心臓などの専門分野の学生は、さらに3年勉強が必要である。
 休暇について、6月の終わりに学年が終わり、7月・8月と休んで9月15日から新学年が始まるので、夏休みは2ヵ月半ある。春休みは10日間、秋休みも10日間ある。イスラム圏では普通、金曜日が休日であるが、モロッコは土曜・日曜日が休み。しかし、学校は土曜日は1日授業がある。
(宗教について)
 99.99%がイスラム教徒で、そのうち、100%がスンニー派である。0.001%がユダヤ人。
モロッコ人の男性は、キリスト教徒とユダヤ教徒とは結婚できるが、仏教徒などその他の人とは結婚できない。女性は、イスラム教徒以外の人とは結婚できない。また、モロッコ人は、他の宗教に改宗できない。
 現代のモロッコ人は、年齢を数えたり生活の中心は、西暦(太陽暦)を使っており、宗教的儀式のみイスラム暦(太陰暦)を使用している。ほとんどの家庭には、西暦・イスラム歴二つのカレンダーを貼っている。
 他のイスラムの国では、幼い時に割礼をしてしまうが、モロッコでは14歳の男子に割礼をおこなっている。割礼後、大人になったお祝いをするらしい。

  絵に描かれた割礼の様子
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(結婚について)
 田舎の女性は昔通り早婚であるが、カサブランカなどの都会の女性の結婚年齢は上がっており、自分で働いて生活する女性が増えている。
(女性の就職率)
 25%の女性が働いている。カサブランカの女性はたくさん働いている。
(兵役制度)
 18歳から18ヶ月間の徴兵制度があるが、兵役制度の代わりにボランティアに行くこともできるが、殆どの人は兵役へ行く。
(死刑制度)
 死刑制度はあるが、実施されていない。あるならば銃殺刑である。法律で死刑制度廃止の方向に流れている。
(酒・たばこ・ディスコ)
 酒・たばこ・ディスコは18歳以上は認められているが、モロッコ人は酒を飲まない。
(国旗について)
 赤は血、緑は植物の色(自然)、星はイスラムの五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)を表す。
(平均寿命)
 男性73歳、女性80歳
(識字率)
 50%、40代以上の人で字の読めない人が多いため。
(モロッコの外交)
 中国との関係は良い。アメリカとの関係も良い。
(日本人に対する評価)
 日本は自動車や電気製品などを作る工業国として尊敬されており親日的である。 
(アラブ人とベルベル人との関係)
 混血がすすみ、ベルベル人に対する差別はない。
(王政について)
 1カ月前まで、首相の任命権は国王にあったが、今、日本のように、選挙で多数をとった政党から首相を選出するようになった。国民は国王を尊敬している。
(子供たちに人気のある職業)
 男子はサッカー選手や医者、弁護士、コンピューター関係、理系に人気が高い。
 女子は学校の先生で、収入も高く、休みが多いので人気がある。
(失業率)
 10%ぐらいだが、北アフリカではまだましな方である。
(チュニジアのジャスミン革命について、若者はどのように思っているか。また、フワットさんはどう思っているか。)
 革命は当然であるが、モロッコの今の政治は国民のための政治をおこなっているので、満足しているが、一部の若者がデモをおこなっても武力で弾圧はしない。私も同じ意見である。
 以上、たくさんの質問にガイドのフワットさんは答えてもらった。最後の質問をしたとき、他の参加者から批判を受けたが、どうしても聞きたかったのである。なぜなら、昨年の2月末にチュニジア旅行に行ったときに、「なぜ、ベン・アリ大統領が長く政権をとれるのか」という質問に対し、ガイドさんは、「税金を軍事力ではなく福祉に使用し、国民に人気があるから」と答えていたが、1年もたたない間に政権は崩壊した。モロッコでも、チュニジア以上に貧富の差があるように思われる。
この国の国王は、世界の国王の中で7番目に金持ちである。その理由は、モロッコで重要な輸出産業である、リン鉱石を持っているからだという。私たちが訪れたいたるところに立派な王宮があり、王に富が独占されているように思われる。チュニジアで革命が成功した背景には、若者は高学歴で、ツィッターなどで情報が広がったからだと思われる。このような革命が、エジプト、リビア、シリア、イエメンなどに広がっていったのであるから、やがてはモロッコにもその波は押し寄せてくるのではないかと思われる。

翌朝、カサブランカの空港からチュニスを経由してドーハで乗り換え、関空に着いたのは、8月9日(火)の午後6時頃だった。
以上、長々とここまで読んでいただいて本当にシュクラン(ありがとう)。
 

 

 
 
 
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(観光8日目)
 8月6日(土)午前8時に集合し、バスでエッサ・ウィラへ向かった。距離は174㎞、所要時間は約3時間30分の行程である。この町の歴史は古く、前800年代のフェニキア時代から港町として栄えた。モーリタニアのベルベル族王子ジューバ2世の時代に、ここは紫色の染料の生産地として有名になり、ローマ人にもてはやされた。16世紀にはポルトガルのマヌエル国王がここに壮大な要塞を建てさせた。18世紀に入って、アラウィー朝の第4代の王アブダラがこの地の安全性に注目し、要塞と港を建設させた。そして、1765年、フランス人の建築家テオドール・クールニュに設計を命じ、新しい町が建設された。
 エッサ・ウィラへ向かう途中、アルガンオイルを製造販売しているショップに案内された。アルガンオイルというのは、モロッコの南部にしか生育しないアルガンツリーの実から作られる植物性のオイルのことである。アルガンの実を石で割り、真ん中の核の部分を取り出して、石臼で挽いてペースト状にしてそこからオイルを取り出す。昔から美容オイルや調味料として重宝されている。
 ところで、バスがそのショップに向かう途中、添乗員さんが、「山羊は木に登ってアルガンの実を食べることがありますが、その写真をみなさんにお見せしましょう。」と言ったあとで、「その必要がありません、今バスから、山羊がアルガンの木に登っているところを見ることができます。」と言って、バスは停車し、私たちは珍しい写真を撮ることができた。ところが、よく見ると山羊は全然実を食べておらず、怖がっているようすである。しかも他のアルガンの木には登っておらず、一本の木に登っているだけである。私が、まるで私たち観光客のために登っているようだと指摘すると、添乗員さんは、実はその通り、観光客のためにわざと登らせているとのことであった。

   山羊がアルガンの木に登っているところ
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 私はたちはこのショップでオイルの作られる様子をみせてもらい、高価であったが、お土産にたくさんのアルガンオイルを購入した。

 アルガンの実を石で割っているところ
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オイルを取り出すところ
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 エッサ・ウィラの町で最初に訪れたのは、メディナ(旧市街)である。この町は大西洋の港町であるので、今までモロッコの市場では見ることのできなかった魚介類をたくさん見ることができた。モロッコの人は、タコは食べないけれどイカは食べるということだ。市場でイカとタイが売られていたが、ガイドのフワットさんによると、イカは1㎏600円、タイは2匹で600円とのことである。

  タイとイカ
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 ところで、モロッコのメディナ(旧市街)を歩いていると必ず猫に出会った。犬はあまり見なかったが猫の多さには本当にびっくりした。この市場の魚売り場にも猫がおり、誰も追い払おうとしないのには驚いた。

   魚市場の猫
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 次に私たちは、スカラ(海に向かって大砲を配置した砲床=見張り台のこと)を見学した。これは、1769年にアラウィー朝の王アブダラによってによって造られたものである。大西洋に向かって大砲がズラリと一列に並んだ様子は、昔をしのばせるものがある。そのもっと昔、1492年にコロンブスもこの港を通って大西洋を渡って行ったのである。

    大砲を配置した砲床
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昼食はモロッコへ来て初めてのシーフード料理で、久しぶりのイワシのフライと小エビはおいしかった。

    イワシのフライと小エビ
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 昼食後、私たちはバスでアルジャディーダへと向かった。距離は約286㎞、所要時間は3時間30分の行程である。バスは大西洋の海岸線を走っていくものだと思い、座席を海の見える左側に確保したが、残念ながら海岸線よりも陸地に入ったきれいに舗装された走りやすい道を通って行った。

   アルジャディーダに向かう道路
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 アルジャディーダのホテルに到着したのは午後7時頃だった。ホテルは大西洋岸に面しており、私たちの部屋から大西洋の砂浜が見えた。
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(観光7日目)
 8月5日(金)午前9時に集合し、バスでマラケッシュ観光に出かけた。マラケッシュは、カサブランカ、ラバトに次ぐ人口百万人を超える3番目の都市で、フェズに次ぐ古い町である。1070年頃、ムラービト朝(ベルベル人の最初のイスラム王朝)の都と定められると、次のムワッヒド朝の都としても繁栄をとげた。しかし、マリーン朝になると、都が1269年にフェズに移され、一時衰退したが、15世紀半ばにサアード朝が再びここを都に定めると、政治・経済・文化の中心地として繁栄した。この国の名前がモロッコと呼ばれるのは、マラケッシュからきている。
 私たちが最初に訪れたのは、メナラ庭園である。オリーブの生い茂る庭園の中央には200×150mの貯水池がある。60㎞離れたアトラス山脈から地下水路で水を引き入れ、農業用水として利用されている。

   メナラ庭園の貯水池
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 次に私たちが訪れたのが、クトゥビア・モスクである。『地球の歩き方』によると、「1147年ムワッヒド朝の創始者、アブド・アル・ムーメンによって着工され、その息子ヤクーブ・ユーセフの時代にモスク部分が完成したが、後にメッカに対してモスクの位置が正しくないとして一度破壊され、その基礎部分だけが今も右側に残る。その後の1199年、ヤクーブ・エル・マンスールによってモスク部分が建てなおされ、現在見られるミナレット部分となった。」と書かれている。ところが、ガイドのフワットさんによると、メッカに対するモスクの位置を間違えるはずがなく、単に建物が古くなったので立て直しただけであると指摘する。確かにイスラム教徒にとって毎日5回メッカに向かって礼拝するのであるから、メッカの位置を間違えるはずがないという意見は正しい。しかし、建物が古くなったから建て替えたというのもおかしい。そんなに時代は経っていないし、もし古くなっていたなら修築すればいいはずであり、場所を移転させる必要はない。私の推測では、ミナレット(塔)とモスクの位置を逆に建てたために、モスクを立て直したとする方が妥当性があるように思える。

  今も残るクトゥビア・モスクの基礎部分
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  クトゥビア・モスクとミナレット(塔の高さ約77m)
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 次に私たちが訪れたのが、バビア宮殿である。この宮殿は19世紀末に当時の宰相バ・アハメドの命によって建てられたもので、敷地面積は8ヘクタールある。大邸宅の周囲に広大な庭園を巡らし、豪華な個室が並んでいる。奥には、広くて明るい中庭がある。周囲の建物は、4人の妃と24人の側女たちの部屋がある。

  バビア宮殿
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 次に私たちが訪れたのは、サアード朝の墳墓群である。サアード朝(16C~17C)の代々の王が葬られていた墳墓群は、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルによって周囲に壁を張り巡らされた。そのために1917年に空から発見されるまで、その存在は隠されていたのである。

 サアード朝の墳墓群(アル・マンスール王の墓)
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 昼食後、いよいよ私たちは、マラケッシュで最も有名なジャマ・エル・フナ広場を訪れた。この言葉は、死人の集会場という意味で、昔、ここには公開処刑場があった。この広場は、夜になって屋台が出たり、大道芸や水売りやダンスなどが行われ、日中に来てもあまり意味がない。ただ暑いだけで、喫茶店の二階からこの広場の様子を見ようと思った。今年の5月にこの広場の喫茶店で自爆テロがあり、フランス人が死んだと新聞に出ていたのを思い出した。どうせなら記念にその喫茶店に入ろうとしたが、その喫茶店はいまだに閉鎖されており、仕方なく近くの喫茶店に入った。

  ジャマ・エル・フナ広場(日中は閑散としている)
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 私は夜、ホテルを一歩も出なかったが、タクシーでこの広場まで来た人がいた。その様子を聞いてみたが、屋台も少なくあまり賑やかではなかったらしい。やはり、自爆テロの影響を受けているのだろうか。夏休みにもかかわらず観光客の数が少なく、日本人観光客も私たち以外のツアーを見たのは、1団体だけである。モロッコの産業の中心は、農業とリン鉱石と観光産業であるのに、観光客が減少することは、外貨獲得に大きな問題となる。

  観光客を待っているクチ(馬車)
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 広場を見学した後、私たちはバスでスーパーマーケットに向かった。私は去年、スペインやドイツに旅行して、現地のスーパーで安いワインを手に入れた。大変おいしかったのでモロッコ産のワインをぜひ手に入れようと楽しみにしていた。残念ながらそのスーパーは、ラマダンのためにお酒を販売していなかった。

 

 
 
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(観光6日目)
 8月4日(木)午前9時頃、私たちは、バスでワルザザードから世界遺産アイト・ベン・ハッドゥに向けて出発した。距離で26㎞、約30分の行程である。途中、バスの車窓からハリウッド映画のスタジオが見えた。ワルザザードは映画産業の盛んなところで、『アラビアのロレンス』や『モロッコ』などの映画がこの近郊で撮影されて以来、今もこのスタジオで撮影されているとのことだ。
  
   映画のスタジオ
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 ガイドさんによると、アイトは一族でベンは息子、つまりハッドゥさんの息子一族という意味で、別に歴史的な意味があるわけではない。日干しレンガ造りの古い要塞化された村が昔のまま残されたので、世界遺産となったのである。現在ここに住んでいるのはベルベル人の7家族だけで、以前の居住者たちは、ほとんど小川の対岸に造られた新しい村の方に移り住んでいる。ここは、『アラビアのロレンス』や『ナイルの宝石』,最近では『ハムナプトラ2』のロケ地となった。
 添乗員さんによると、以前は橋がかかっていなかったので、時期によって小川が氾濫して村に入って見学することができないこともあったとのことである。私たちが行った時期は乾期だったのか、小川には全然水がなかった。この村は、小川のほとりにある丘の斜面を利用して造られた城塞であり、さすがに世界遺産に登録されるだけあって、その景観はすばらしいものであった。

  アイト・ベン・ハッドゥ(要塞化された村)
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アイト・ベン・ハッドゥ見学後、バスは、マラケッシュへと向かった。距離は約170㎞、約4時間の行程である。途中、野生動物は見なかったが、1946年までライオンが生息していたことが確認されている。いよいよモロッコで最も高い標高3000mを超えるオートアトラス山脈を登って行ったが、スリル満点の山越えであった。

  オートアトラス山脈
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 マラケッシュのホテルに着いたのは、午後4時頃であった。部屋で休息したのち、マラケッシュの町を散歩した。少し歩くと、公園のようなところがあったので、中に入っていくと恐竜が向き合っている遊具があった。もっと奥に入って行こうとしたが、終了時間が来たので警備員に追い出された。

    恐竜の遊具
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 私たちは午後8時30分に集合し、バスでファンタジアディナーに向かった。ファンタジアの会場は、とてつもなく広大な場所だった。私たちを最初に出迎えてくれたのは、銃を持ち馬にまたがった騎士たちであった。私は騎士のひとりに銃を借りて記念写真を撮ってもらった。さらに民族衣装を着たベルべル人たちが楽器を演奏しながら出迎えてくれた。

 騎士との記念写真
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 民族衣装を着たベルベル人
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 夕食は、毎回タジン鍋料理とマンネリで、私はほとんど食べることができなかった。モロッコ料理は正直言って私にはあまり口にあわなかった。
 夕食後、騎士軍団によるファンタジアショーを鑑賞した。このショーは、野外で行われ、騎士軍団が客席に向かって突進し、客席の直前で銃を発砲するという大変ダイナミックなものであった。私は客席の一番前に座っていたので迫力満点で、大いに満足した。
  
    ファンタジアショー
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ショーは11時30分頃まで行われ、ホテルに帰ったのは12時をまわっていた。


 
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(観光5日目)
 8月3日(水)午前3時30分頃、私たちは5台の4WDに分乗し、メルズーカ大砂丘へと向かった。途中、一台の車がパンクするというハプニングがあったが、予定通り砂丘に到着した。そこで待っていたのはラクダであった。前日、オプションでラクダに乗ることを希望した7人のためにラクダが待機していたのである。その他の人は、徒歩でラクダの後を追った。30分近く歩いただろうか、ようやく目的の場所に到着したが、砂丘を登るのは結構きつかった。その日は残念ながら天気が悪く、日の出を見ることができなかった。しかも、強い風が吹き、目をあけていると砂が顔に当たっていたかった。砂漠をよく見ていると、砂嵐が砂漠の景色を一変させていることに気がついた。昨年は、チュニジアで感動的な日の出の景色を見ることができたし、今年はモロッコで砂漠の砂嵐を体験することができた。

   メルズーカ大砂丘
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  私たちはホテルに戻って朝食をとり、9時30分頃にバスでワルザザードに向けて出発した。距離は約352㎞、所要時間は6時間30分の行程である。ワルザザードとは、ガイドのフワットさんによると、「平和な町」という意味で、カスバ(城塞)があるだけの小さな村だったが、1922年代に、フランス軍によってサハラ砂漠の最前線基地として建設された。現在はモロッコ軍が駐屯している。
 バスは、砂漠地帯を西へと進んだが、この道を「カスバ街道」と呼ぶ。途中、カナートと呼ばれる地下水道を見学した。私は、イランや中国の新疆でもこれを見たことがある。砂漠の地下にこのような水脈があるとは驚きである。
   カナート
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 バスは途中、北へと寄り道をしてトドラ渓谷へと向かった。渓谷へ行く途中の道には、トドラ川沿いにすばらしいオアシスが見える。

   トドラ川沿いにオアシスが見える
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 やがてトドラ渓谷についたが、ここはアフリカのグランドキャニオンと呼ばれるように、200mもの切り立つ断崖が続く素晴らしい眺めであった。

   トドラ渓谷の断崖
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 かなりの自由時間があったので、この渓谷で遊んでいると、観光客目当てのロバをひいたおじさんがやって来たので、チップを払ってロバに乗せてもらった。

   トドラ渓谷でロバに乗せてもらった
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 ガイドのフワットさんによるとモロッコでは、ロバは1万円を超えるくらい、ラバは4万円、ラクダは8~12万円するらしい。ロバの値段の安いのには驚いた。モロッコで、ロバはあちこち見かけた。小さな身体で、かわいい目をして本当に働きものである。私はロバを日本へ持ち帰りたかった。
 トドラ渓谷見学後、もと来た道を南へ下り、再びワルザザードへと西へ向かった。途中、バラの産地であるケラ・デ・ムグーナに立ち寄り、そこの店でお土産用に「バラのエッセンス」という香水を買った。
 ようやくワルザザードのホテルに着いたのは午後5時30分頃であった。
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(観光5日目)
 8月2日(火)午前8時30分にバスでフェズからエルフードへ向かった。距離は約438㎞所要時間は約8時間の行程である。この日は一日バスによる移動日であった。バスから見えるアトラス山脈の雄大な山並みや荒涼とした砂漠、また、所々で見られる緑豊かなオアシスは日本では味わえない魅力ある景色であった。
 今日からモロッコはラマダンに入った。ラマダンは、イスラム暦の第9月であるが、イスラム暦は太陰暦で数えられるために、毎年ラマダンの月は変わってくる。この一ヶ月間、イスラム教徒は日中の飲食はできない。あとで旅の達人から聞いた話であるが、ラマダンに入る昨日の夜、人々は普通に生活していたが、7時半ごろになると家族と食事をするために、みな一斉に自宅に入ったため、町はいっぺんに静かになったとのことである。こんな経験は二度とできないので、私もホテルを出て町の様子を見ていればよかったと悔やんだ。
 さて、南に下って行けば、サハラ砂漠に近づくのはチュニジアとおなじである。そして、砂漠に近づけば、羊や山羊などを遊牧している人たちがいる。ガイドさんによると、モロッコでは、ベルベル人のように、土地や家を持っており、6~8月だけ放牧させる人たちがいる。一方、べトウィンと呼ばれる人たちはアラブ人で、家や土地を持たず、テント生活を送っている遊牧民がいる。彼らは税金を免除され、アルジェリア国境近くに住んでいる。

  車窓から見える羊の群れ
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 モロッコの3分の2 の民族がアラブ人で,あとの3分の1がベルベル人である。これに対し、チュニジアでは98%がアラブ人で、ベルベル人でベルベル語を話すことができる人はいないらしい。モロッコでは、ベルベル人はアラビア語とベルベル語とフランス語を勉強している。また、モロッコではアラブ人とベルベル人の混血が進んでおり、ハッサン2世(現国王の父)の奥さんのお母さんはベルベル人であり、ベルベル人に対する差別はないとガイドのフワットさんが話してくれた。

 車窓から見えるベルベル人の住居
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 トイレ休憩で止まった場所は、(COL DOZAD)という所で、標高2178mあった。
  
  標高2178m (COL DOZAD)という所
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 そこにロバを連れたベルベル人の少年が私たちのところへやって来た。私たちは少年にチップを与えて、ロバと少年との記念写真を撮ってもらった。その時、他の子供たちがどこからともなくやってきた。ツアーの1人が、ひとりの子供にお菓子を与えるとお菓子のとりあいとなった。

 ロバと少年
 
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 車窓から見えるアトラス山脈の雄大な景色
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 川のそばにあるオアシス
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 夕方、バスはようやくエルフードのホテルに到着した。いよいよ明日はサハラ砂漠の日の出を見るために早朝出発である。私たちは、明日に備えて早く寝ることにした。


 
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(観光3日目)
 8月1日(月)私たちは、午前9時に集合し、バスでフェズの町を一望できる高台へと登った。その後、いよいよ迷宮として有名なメディナ(旧市街)へと向かった。
 フェズは、モロッコ最初のアラブ王朝の都であった。第4代カリフ、アリーの子孫に当たるイドリス1世は、8世紀末、アッバース朝に反旗を翻して迫害され、モロッコに亡命してベルベル人の力を借りて、この地にイドリス朝を興した。そして、9世紀はじめに息子のイドリス2世は、フェズ川の西岸に新しい都を建設した。このとき、チュニジアのケロアンやスペインのコルドバから移住者をも受け入れた。城壁で囲んだ町の中心に壮大なモスクを造り、マドラサ(イスラム神学校)が次々に建てられた。フェズはその後、いくつかのアラブ王朝のもとで発展し続け、信仰、芸術、商業の面でもモロッコの中心として栄華を極める。
 
 フェズの町
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 私たちは、先ず王宮の門を見学し、立派なブージュールド門を通って、いよいよメディナ(旧市街)に入った。

 王宮の門
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ブージュールド門(メディナの入り口)
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 メディナの中は、まさに迷路のようになっており、現地ガイドのフワットさんも何回も迷ったことがあったらしい。運搬手段としてロバとラバが使用されていた。

 ラバが荷物を運んでいる。
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 狭く賑やかな迷宮のような路を入ると、そこには静かで、広々としたブーイナニアと呼ばれるマドラサ(神学校)があった。そこでは昔、少年たちがコーランを暗記するために、厳しい体罰が行われていたとガイドさんの説明があった。イスラムの神学校では、小さい時に先ずコーランを暗記させられ、成長してからコーランの意味を学んでいくというやり方だったらしい。
 
  ブーイナニア神学校
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神学校を訪れた後、メディナの中にある一般のお家を見学した。ここのご家庭のお父さんは、元気のいいかたで、ミントティーを我々にふるまってくれた。その時に、大きな砂糖の塊をみせてもらった。モロッコの人は大変甘いものが好きで、お茶にたくさんの砂糖を入れて飲むので、大きな塊の砂糖もすぐになくなるという話だ。お茶の後、民族楽器の太鼓を出してきて、われわれのために演奏してくれた。

一般家庭でお茶を飲むところ(大きな砂糖の塊が見える。)
 
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 一般家庭を見学した後、メディナの中のレストランで昼食をとった。その後、革なめし場を見学した。ここは大変くさいので臭いを紛らわすために1人ずつミントの葉っぱを持たされて、屋上へと上がった。屋上で革の造り方の説明があったが、よく理解できなかった。ここでは革製品の販売もしていた。

 屋上から見た革なめし場
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 革なめし場を見学したあと、メディナをあとにして、バスで陶器の工場を見学した。ここで、お土産にミニチュアのタジン鍋を購入した。

  陶器の工場
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  陶器の工場(色つけをしている)
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 陶器工場見学後、早い目にフェズのホテルに戻った。
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(観光2日目)
 7月31日(日)午前8時にバスでシャウエンへと向かった。タンジェから61㎞、約1時間の行程である。シャウエンとは、アラビア語で「角」を表す言葉で、ティースカ山(2050m)とメッグ山(1616m)の二つの峰が2本の角のように見えるのでそう名付けられた。

 シャウエンのメディナ(旧市街)から二つの峰が2本の角のように見える
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 シャウエンは、現王朝のアラウィー朝を創建したムーレイ・ラシッドが、1471年に建設した都市で、1492年以降、スペインから逃れてきたイスラム教徒が加わって人口が増大した。1920年にスペイン領に組み込まれるまでこの町はイスラムの聖域として長い間異教徒に閉ざされていたため、いまだに秘境的な色合いを残している。

 シャウエンのメディナ(旧市街)ブルーカラーで統一されている。
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 スークのパン屋さん(昔ながらの方法でパンを焼いている。)
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 シャウエン見学後、私たちはバスでメクネスへと向かった。距離は約202㎞の行程あるが、途中に世界遺産であるヴォルビリス遺跡を見学した。バスを降りて遺跡へ向かう途中に大きな竜舌蘭の花を見た。この花を原料として、モロッコシルクをつくるのだとガイドのフワットさんが教えてくれた。メキシコの竜舌蘭とは種類が違い、ここからテキーラはつくれないらしい。

  モロッコシルクの原料となる竜舌蘭の花
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 この遺跡は、モロッコに現存する最大のローマ遺跡である。この場所に町が建設されたのは前1世紀にマウレタニア(ベルベル人のマウリ部族の王国 )の王、ユバ2世が王国の首都を置いた。ローマ帝国時代には、ここは帝国の西限に位置する重要な都市としてローマの属州となる。全盛期は人口2万人もの人が住んでいたという。2~3世紀に次々と大きなバジリカ(公共建築物)が建てられた。

 カラカラ帝の凱旋門
(この凱旋門は当時のローマ皇帝であったカラカラ帝が全属州の自由民にローマ市民権を付与したことにより、属州ヴォルビリスでは属州税(収入の十分の一)が免除されるとともに、ローマ市民権を得るために軍隊に入る必要がなくなったことに感謝して建造された。)
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 フォーラム(集会所)とバジリカ(公共建築物)
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ヘラクレスの功業の家
(ヘラクレスが12の功業を果たすことになる。その苦行の様子を楕円の枠で描写したモザイク)
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 ヴォルビリス遺跡を見学後、世界遺産古都メクネスへと向かった
メクネスは10世紀頃、ベルベル系のメクナサ族がブーフェクランの川岸に、ゼイトウナとターザという町を建設したことに由来している。この町の最盛期は17世紀、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルの時代である。彼は、数多くの城壁や門、モスクなどを建設した。しかし、首都としてのメクネスは半世紀続いただけで、彼の死後、首都はフェズに移されて衰退し始める。そして、1755年の地震などにより大きなダメージを受けたのである。
 私たちは、北アフリカで最も美しく、有名な門のひとつ、マンスール門を見学した。この門は、イスマイルが手がけた最後の建築物で、彼の死後、息子によって1732年に完成した。この門は、マンスール・エルアルージュともいわれ、それは「改宗者の勝利の門」という意味で、その由来は、イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したためといわれている。

   マンスール門
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 門の見学門後、自由時間があったので、門の前にあるエディ広場で水売りや蛇使いの大道芸を見学した。

    エディ広場の水売り(中央で水のタンクを担いでいる人)   
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エディ広場の蛇使いの大道芸
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メクネス観光後、バスでフェズへと向かった。距離は約60㎞で、ホテルに到着したのは午後6時を過ぎていた。
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