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●独立後の民族対立●
 世界各地の民族運動の発展と第二次世界大戦は、イギリスの植民地支配体制に大きな打撃を与えた。このような情勢のなかで、1948年2月4日、スリランカはイギリス連邦の自治領として独立が認められた。初代首相に選ばれたのは、セイロン国民会議を改組して生まれた統一国民党のD・S・セーナーナーヤカであった。
 新政権は、タミル人労働者がマルクス主義政党と結びつきを強めたことを理由に、プランテーションのタミル人労働者の市民権を奪っている。また、このころ国旗が制定されるが、デザインには民族間の力関係が表われている。剣を手にしたライオンはシンハラ人を、その回りの菩提樹の葉は仏教を表している。左側のオレンジと緑の部分は、タミル人とムスリムを表している。1956年の総選挙では、統一国民党を脱党して自由党を率いたS・W・R・D・バンダーラナーヤカが政権につき、大農園や銀行の国有化などの社会主義政策を始めた。しかし最も重要なことは、シンハラ語を公用語と定めたことである。この施策は、イギリス軍の基地を返還させるという要求と同様に、スリランカの完全な独立を求めたものであった。しかし、それと同時に多数派のシンハラ人の優位を強調する手段でもあった。これはシンハラ語のできない者を公務員から追放することを意味し、タミル人の多くが失業した。軍隊や警察を含め、公務員のほとんどはシンハラ人が占めるようになった。新政権のシンハラ・オンリー政策は、タミル・ナショナリズムを大いに刺激し、連邦スリランカ内における自治権を要求する運動がおこるようになった。これに対し政府は、タミル人が多数を占める北部や東部の州では、タミル語を国語にするという法案を可決した。このような政府の措置は、熱狂的なシンハラ・ナショナリストにとって堪えがたいものとなり、1959年9月、バンダーラナーヤカ首相は僧侶により暗殺される。それ以後の政権は、統一国民党と自由党が交互に担っていくのである。
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「バンダーラナーヤカ記念国際会議場」
コロンボは数多くの国際会議が開かれてきたことでも有名。その舞台がこの会議場だ。現代的な建物は中国から寄贈されたもの。入口には仏教国を自称するだけあって、アウカナ・ブッダを模した12mの仏像が建っている。この中に故バンダーラナーヤカ首相の業績を展示した博物館がある。イギリス支配から独立に導いたバンダーラナーヤカが残した業績の数々を、彼のあとに世界初の女性首相に就任したスリマオ夫人のエピソードもまじえて展示している。(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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●仏教復興運動●
 イギリスは、最後まで抵抗していた仏教国のキャンディ王国を滅ぼし、この島を紅茶の一大プランテーションに変えてしまった。それとともにキリスト教優位の政策を推し進め、仏教の地位はおとしめられてしまったのである。
 このような植民地支配のもとで、19世紀末、スリランカ近代仏教の祖アナガーリカ・ダルマパーラが現れた。彼の説いた仏教は、従来の出家者中心の仏教から在家者中心の仏教へ、またキリスト教への対抗意識をむき出しにしたナショナリズム的仏教であった。彼は、スリランカは仏法の島であり、仏教を信仰してきたシンハラ人の島であると主張した。彼の仏教復興運動はシンハラ人の民族意識を高め、スリランカ独立への道を大きく切り開いた。しかし、これらの主張は、スリランカは仏教徒のシンハラ人のものであるという論理につながる。そのため、キリスト教徒のイギリス人だけでなく、タミル人ヒンドゥー教徒やムスリム、シンハラ人キリスト教徒も攻撃の対象となってしまった。
 20世紀に入ると、シンハラ・ナショナリズムは、労働運動や政治運動へと広がりを見せてきた。このような民族運動の発展のなかで、イギリスの植民地政府がおこなった対策は、イギリス式の議会制度を導入することであった。1919年にセイロン国民会議が創設され、シンハラ人やタミル人の代表が参加し、1931年には、アジア最初の普通選挙が実施された。しかし、このような政治活動に参加できたのは、タミル人を含む富裕なエリート層でしかなかった。
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上の仏像や壁画はダンブッラの石窟寺院にある。
 この寺院は、紀元前1世紀にシンハラ王のワラガムバーフ王によって造られたのが最初。王は、当時首都であったアヌラーダプラからタミル軍の侵略によって追放され、一時ここに身を隠しながら王権奪回の機会を狙っていた。その後、タミル軍を破り、再び王座に返り咲いた王は、感謝の意をこめてここに寺院を建てたという。初めは少なかったであろう仏像や壁画も次第に数が増え、ポロンナルワ期、キャンディ期には各時代の王によって何度も修復された。(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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●シンハラ・タミルの歴史的関係●
 現在、スリランカの74%を占めるシンハラ人は、アーリア系の民族で仏教徒が多く、人口の18%を占めるタミル人はドラヴィダ系で、ヒンドゥー教徒が多い。ただ、タミル人のなかには、古くからスリランカに移住してきたスリランカ・タミル人とイギリス植民地支配のもとで、紅茶プランテーションの労働者として移住してきたインド・タミル人とに区別されている。
 今日、シンハラ・タミル問題は、仏教徒とヒンドゥー教徒のあいだの2500年来の対立ととらえられているが、それは歴史をねじ曲げたものである。7世紀に南インドでヒンドゥー復古主義が高まる以前は、タミル諸国でも仏教が信仰されていた。また、シンハラ王国とタミル王国とのあいだで戦争もおこなわれたが、同盟や姻戚関係も結ばれている。内陸部のキャンディ王国は南インドのタミル人、マドゥライ(タミル・ナードゥ南部)の領主と姻戚関係にあり、代々の王位継承者はマドゥライから招かれた。王はヒンドゥー教から仏教に改宗し、シンハラ王国の民衆の支持を得ていたといわれている。
 このようにシンハラ・タミルの多様な関係が、民族間の敵対関係に変わるのはいつのことか。それはイギリスの植民地支配に対する民族独立運動のなかで形成されたのである。
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以上の絵はシーギリアロックの壁画に描かれていたもので、私が以前インドのアジャンタの石窟寺院で見た観音菩薩の壁画とよく似ていた。
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●はじめに●
 1983年、シンハラ人兵士によるタミル人女性への暴行、その報復としておこなわれたタミル・ゲリラによるシンハラ人兵士の殺害事件。これを契機として、シンハラ人によるタミル人への攻撃がコロンボ市内で始まった。シンハラ・ナショナリストらは、タミル人の商店や住宅にガソリンで火をつけて回ったり、コロンボの刑務所を二度にわたって襲撃して、多数のタミル人政治犯を虐殺した。こうした行動に触発されて、一般大衆によるタミル人への掠奪や焼き打ち、暴行が展開されたのである。
 スリランカの北部に住むタミル人たちの分離独立を求める運動と、それを断固として認めないシンハラ人のあいだの争いは、現代のスリランカが抱える最も大きな問題である。両者の対立がなぜこのような深刻なものとなってしまったのか、スリランカの現代史を中心にその答えを探っていこう。
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スリランカの世界遺産となっている「シーギリヤ・ロック」(本文とは関係ない写真です。)
「この地は、古代から仏教僧たちの修験場であった。5世紀後半、ほんの11年間この地を統治し、壮大な岩山に傑作を残した狂気の王カーシャバの伝説は、広くスリランカの人々に言い伝えられている。カーシャバは、459~477年にアヌラーダプラを統治し、広大な貯水池を建造したダートゥセーナ王の長男だった。カーシャバには腹違いの弟モッガラーナがいた。弟の母親は王族の血筋の女性であり、カーシャバの母親は平民の血筋の女性であった。このため、カーシャバは弟モッガラーナに王位の継承権を奪われるのをおそれ、実父ダートゥセーナ王を監禁して王位を剥奪した。弟モッガラーナは、兄の行為に憎しみを抱きながらもインドに亡命した。その後カーシャバは父に『隠してある財産を全部出せ』と要求した。しかし、父ダートゥセーナはそれに答えようとせず、息子を自分が建設した貯水池カラー・ウエワに連れて行き、池を指差し、『これが私の財産のすべてだ』と言った。怒りに震えたカーシャバは父に恨みを持つ家臣に命じ、父親を殺させてしまう。弟モッガラーナの復讐をおそれたためか、父を殺してしまった後悔と苦しみのためなのか、カーシャバは神がかりになったように、シーギリヤの切り立った岩山に宮殿を建造し始めた。7年後、彼は自分の玉座をその頂上に置いたのである。そして11年後、異母弟のモッガラーナがインドから軍を引き連れ、兄に戦いを挑みに来た。兄弟の戦いがたけなわの時、カーシャバが乗っていた象は、行く手に突如現れた沼地に足を取られ沈んでしまった。カーシャバの軍は統制を乱し退却してしまう。ひとり取り残されたカーシャバは、短刀でのどをかき切り自らの命を絶ったのであった。その後モッガラーナは、シーギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、ただちに首都をアヌラーダプラに戻したのだった。埋没していたシーギリヤ・ロックの宮殿が発見されたのは、カーシャバが死んで約1400年の後、イギリス植民地時代に入った19世紀も後半のことである。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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第8回世界史講座は10月22日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は8名です。
 テーマはⅠ「古代インド文明の形成」のつづき、Ⅱ「ヒンドゥー国家と社会の発展」、Ⅲ「東南アジア世界の形成」です。
 Ⅰのテーマでは、大乗仏教の成立をを中心に学習しました。菩薩とは「ボーディ(悟り)を求めて努力するサットヴァ(存在)」という意味を持つサンスクリット語を漢訳したもの。弥勒とは、「マイトレーヤ(慈悲深いもの)という意味を漢訳したもの。観音とはアヴァローキタスヴァラ(苦しむ人々を救いだすという)という意味を漢訳したもので、十一面観音や千手観音、如意輪観音が生み出されました。そして、阿弥陀とはアミターユ(無量寿)という意味で阿弥陀に救いを求めるならば、死後にこの仏に召されて西方の極楽浄土に生きることができるという大乗仏教の教えが広がり、日本にも大きな影響を与えた。
 次にⅡのテーマではでは、グプタ朝の時代にインドでヒンドゥー教が成立し、その後インドで小国分立時代になると、王の権威を神聖なものに高めるために、各国王がバラモンを保護したことによりインド社会でヒンドゥー教が広がっていったこと。そして、インドから仏教が衰退していった理由としては、①王の保護がなくなり、また仏教を支持していた商人が衰退したこと。②仏教が僧院での修行や研究が中心となり、インド社会における冠婚葬祭などの民衆との結びつきが薄れていったこと。③ヒンドゥー教の中に仏教がとり入れられていったこと。例えば仏陀はバラモン教の神ビシュヌ神の化身であるなど。また、仏教の中に密教が生まれ、その中に帝釈天や弁財天などヒンドゥー教の神々が取り入れられ、仏教とヒンドゥー教の違いが薄れ、仏教がヒンドゥー教に飲み込まれてしまったこと。④のちにイスラーム教徒がインドにやって来て、僧院などを破壊すると仏教の僧侶たちはインドを捨ててネパールなどの他国へとわたっていったことなどがあげられる。
以上が学習のまとめです。
 参加者から、「ヒンドゥー教徒の下層の人たちは、なぜヒンドゥー教を捨ててしまわないのか。」といういい質問が出されました。その答えは、下層の人たちであっても彼らはヒンドゥーの神々を信仰しており、古い伝統的で閉鎖的な社会の中ではそこから抜け出ることは難しいことなのであり、今でもそういった社会が続けられている。
 以上で報告を終わりますが、次回は11月12日(土)午後2時です。
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●独立への道●
 100年にもおよぶイギリス植民地支配のなかで、スリランカ民族運動の中心となったのは、仏教の僧侶や知識人であった。1912年には、民族主義者による鉄道のストライキがおこなわれ、ついに、1919年に自治権の獲得を目的とするセイロン国民会議が開設された。第二次世界大戦が始まると、イギリスは日本との対抗上、戦後のスリランカの自治を条件に、イギリスへの協力を求めてきた。その結果、1946年には、スリランカ人によって制定された憲法がイギリス人によって承認され、翌年、イギリス連邦の一国としての地位が与えられた。これによって、スリランカは一応の独立を達成したのである。独立後、選挙民の大多数はD・S・セーナーナーヤカの率いる統一国民党を支持した。そして、ついに1948年2月4日、スリランカは完全な独立国家になりセーナーナーヤカが初代首相に選ばれたのである。
 参考文献(ロジャース・メアリ・M,吉野美那子訳『スリランカ』国土社、1994年、野口忠司監修、日本スリランカ友の会編『スリランカ』三修社、1995年)
(「輝く島スリランカ」の文章は、『シリーズ知っておきたい インド・南アジア』(歴史教育者協議会編集 青木書店 1997年)に私が書かせてもらったもので、写真は2005年に夫婦でスリランカ旅行をしたときの写真です。)
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コロンボのバンダーラナーヤカ記念国際会議場
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●ヨーロッパ人の侵入●
 ヨーロッパ人の侵入以前に、「海のシルクロード」を支配していたのはアラブ人であった。かれらはこの島をセレンディブ(心の平和)の島とよび、それがポルトガル人に受け継がれてセイラーンとなり、イギリス人にはセイロンとよばれた。
 16世紀初め、シナモン貿易の独占をねらってポルトガル人が来島し、海岸地帯に根拠地を築きはじめた。当時この島には、北部にタミル人のジャフナ王国と南部にシンハラ人のコーッテ王国、シータワカ王国、キャンディ王国が存在した。ポルトガル人は、諸王国をつぎつぎと攻略し海岸地帯を占領した。しかし、シナモンが栽培されている内陸部のキャンディ王国は、厳しい抵抗にあい支配できなかった。
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キャンディの丘陵地帯
 17世紀にやってきたオランダはキャンディ王国と同盟を結び、ポルトガルをスリランカから追放した。しかし、オランダもシナモンの栽培地を獲得しようとしてキャンディ王国の征服にのりだすが失敗する。そこでオランダはシナモンの木を低地で育てはじめた。やがてコーヒー、ココナッツ、綿、タバコなどの栽培もおこなわれるようになる。
 イギリスがこの島からオランダを追放し、全島の支配権を獲得したのは1818年である。キャンディ王国が簡単に屈したのは、王国内部の対立による。イギリスは大農園において、紅茶やゴムなどの栽培にのりだした。大農園制度は多くの労働力を必要としたため、イギリスはインド南部のタミル人に移民を奨励した。
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キャンディの仏歯寺
スリランカを代表する仏教寺院、寺院内に奉納されている仏歯は、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際、その中からやっと手に入れたものといわれている。その後4世紀にインドのオリッサ州カリンガの王子が、頭髪の中に隠してセイロンに持ち込み、アヌラーダプラに奉納した。その後、都が移るたびに一緒に運ばれ、最後にはキャンディに落ち着いた。(『地球の歩き 方スリランカ』より)
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 この島にはインド各地から移住者がやってきたが、とりわけ南インドのドラヴィダ系タミル人の侵入が顕著である。紀元前200年頃から侵入がはじまり、かれらはこの島の北部に定住しはじめた。それ以後も侵入は続けられたが、とくに有名なのが、10世紀末のチョーラ王国の侵入である。シンハラ王国は都アヌラーダプラを放棄し、ポロンナルワに移した。ポロンナルワ時代には、一時、チョーラ王国を撃退してシンハラ王国の権力が強まった。12世紀には、シンハラ王国のパラークラマバーフ1世は、南インドやミャンマーに遠征し、南アジアにおける一大勢力となった。しかし、まもなく王国は衰え、13世紀にはマレー人の侵略にあい、その後、シンハラ王国はいくつかの小王国に分裂した。14世紀には、北部のジャフナ半島に、タミル人が王国を建国した。さらに15世紀になると明の鄭和の遠征がおこなわれ、それ以後シンハラ王国は明に貢物を贈った。
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ポロンナルワの遺跡群のなかの「サトゥマハル・プラサーダ」
「上の階になるにつれ、だんだん小さくなっている7階建ての塔。この建築物はタイのワット・クークットという寺院と類似しており、タイから来た建築師が建てたものだと言われている。ポロンナルワが全盛期を迎えた12世紀頃には、この地は上座部仏教の重要な聖地とされ、タイやビルマからも僧が訪れたという。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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ポロンナルワの遺跡群のなかの「ガルヴィハーラ」ここには涅槃像、立像、座像の3石造が並んでいる。「蓮の台座の上で腕を交差してたたずんでいる立像は、人生の辛さを哀れむ、悟りを開いた仏陀の姿とされている。目元や胸の上で腕を組む姿から、仏陀の深い情けが伝わってくるようだ。また、この立像には、仏陀が涅槃に入ってしまったことで悲しみに暮れている、一番弟子のアーナンダの姿だという説もある。高さ7m。瞑想をしている座仏像は、りんとして精神集中しているように見える。高さ4.6m。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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10月8日(土)午後2時より7回目の世界史講座をおこないました。参加者は6名でテーマは、「古代インド文明の形成」でした。
①インダス文明が計画的で優れた都市文明であったこと。
②現在もインドでおこなわれているカースト制の基礎となったヴァルナがどのようにして始まったのか。
③前6~前5世紀頃に仏教がどのような背景のもとに成立していったのか。
④前3世紀頃にマウリア朝のアショーカ王によって仏教が保護されたことが、仏教が世界宗教として発展していくもとになったこと。
 
(質問)特に質問はありませんでしたが、私の講義のなかで、仏教では「死」は、涅槃であり、すべての苦しみから解放されるのであるから死を恐れてはならない。と説明しましたが、参加者から「仏教は輪廻思想であるから、再び生き返るので、解脱しないかぎり苦しみから解放されない。」という指摘がありました。私はキリスト教の「聖書」は読みましたが、仏教の「経典」は読んでませんので、これから勉強したいと思います。
                   以上が昨日の世界史講座の報告です。
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